また、この同じ男、聞きならして、まだものは言ひ触れぬありけり。
また、この同じ男、聞きならして、まだものは言ひ触れぬありけり。


「いかで、言ひつかむ」と思ふ心ありければ、つねにこの家の門よりぞ歩きける。
「いかで、言ひつかむ」と思ふ心ありければ、つねにこの家のかどよりぞありきける。


かうありけれど、言ひつくたよりもなかりけるを、月などのおもしろかりける夜ぞ、かの門の前、渡りけるに、女ども、多く立てりければ、馬より下りて、この男、ものなと言ひ触れけり。
かうありけれど、言ひつくたよりもなかりけるを、月などのおもしろかりける夜ぞ、かの門の前、渡りけるに、女ども、多く立てりければ、馬より下りて、この男、ものなと言ひ触れけり。


いらへなどしける。
いらへなどしける。


男、「嬉し」と思ひて、立ち留まりにけり。
男、「嬉し」と思ひて、立ち留まりにけり。


この女ども、男の供なりける人に、「誰ぞ」と問ひければ、
この女ども、男の供なりける人に、「たれぞ」と問ひければ、


「その人なり」とぞ、答へけるに、
「その人なり」とぞ、こたへけるに、


この女ども、「音にのみ聞きつるを」、「いざ、呼びすゑて、もの言はむ」、「いかがあると聞かむ」とて、
この女ども、「音にのみ聞きつるを」、「いざ、呼びすゑて、もの言はむ」、「いかがあると聞かむ」とて、


「同じうは、この庭の月をかしきをも見せむ」と言ひければ、
「同じうは、この庭の月をかしきをも見せむ」と言ひければ、


この男、「何のよきこと」とて、もろともに入りにけり。
この男、「何のよきこと」とて、もろともに入りにけり。


女ども、集りて、簾の内にて、「あやしう、音に聞きつるが、うつつに」、「よそにても、ものを言ふこと*」と、男も女も言ひかはして、をかしき物語して、女も心つけてもの言ふありけり。
女ども、集りて、の内にて、「あやしう、音に聞きつるが、うつつに」、「よそにても、ものを言ふこと*」と、男も女も言ひかはして、をかしき物語して、女も心つけてもの言ふありけり。

*「ものを言ふこと」は、底本「物おいこと」
それを、この女ども、「何ごとぞ」と問ひければ、
それを、この女ども、「何ごとぞ」と問ひければ、


「何ごとにもあらず。馬なん、ものに驚きて、放れにける」と、
「何ごとにもあらず。馬なん、ものに驚きて、放れにける」と、


男答へければ、「いな、これは夜更くるまで来ねば、妻の作りごとしたるなんめり。
男答へければ、「いな、これは夜更くるまで来ねば、の作りごとしたるなんめり。


あな、むくつけ。
あな、むくつけ。


はかなき戯れごとさへ言ふ妻持たらむものは、何にかすべき」と心憂がり、ささめきて、みな隠れぬ。
はかなき戯れごとさへ言ふ持たらむものは、何にかすべき」と心憂がり、ささめきて、みな隠れぬ。


この女どもに、この男、「あな、わびしや。さらに、さもあらず」と言ひけれど、さらに聞かず。
この女どもに、この男、「あな、わびしや。さらに、さもあらず」と言ひけれど、さらに聞かず。


はては、もの言ひふれん人もなかりければ、よろづの言葉を独りごちけれど、
はては、もの言ひふれん人もなかりければ、よろづの言葉を独りごちけれど、


さらに答へする人もなかりければ、言ひわびてぞ、出でて来にける。
さらにこたへする人もなかりければ、言ひわびてぞ、出でて来にける。


さて、つとめて時雨ければ、男、かく言ひやる。
さて、つとめて時雨ければ、男、かく言ひやる。


小夜中に
うき名取川
渡るとて
濡れにし袖に
時雨さへ降る
さよなかに
うきなとりがは
わたるとて
ぬれにしそでに
しぐれさへふる


とある返し。
とある返し。


時雨のみ
ふる屋なればぞ
濡れにけん
立ち隠れけむ
ことや悔しき
しぐれのみ
ふるやなればぞ
ぬれにけん
たちかくれけむ
ことやくやしき


とありけるに、喜びて、また、ものなど言ひやれど、いらへもせずなりにければ、言はでやみにけり。
とありけるに、喜びて、また、ものなど言ひやれど、いらへもせずなりにければ、言はでやみにけり。