また、この男、「志賀*へ」とて詣づるに、逢坂の走り井に、女どもあまた乗れる車を、牛おろして立てたりければ、この男、馬から下りて、とばかり立てりけるに、車、「人来ぬ」と見て、牛掛けさせて行きけり。
また、この男、「志賀*へ」とて詣づるに、逢坂の走り井に、女どもあまた乗れる車を、牛おろして立てたりければ、この男、馬から下りて、とばかり立てりけるに、車、「人来ぬ」と見て、牛掛けさせて行きけり。

* 志賀寺
この男、車の供なる人に、「いづちおはします人ぞ」と問ひければ、「志賀へ」と答へければ、女車より少し立ち遅れて行きければ、かの逢坂の関越えて待つ。
この男、車の供なる人に、「いづちおはします人ぞ」と問ひければ、「志賀へ」と答へければ、女車より少し立ち遅れて行きければ、かの逢坂の関越えて待つ。


来けるあひだに、車より、かかることぞ言ひたる。
来けるあひだに、車より、かかることぞ言ひたる。


逢坂の
何頼まれぬ
関川の
流れて音に
聞く人を見て
あふさかの
なにたのまれぬ
せきがはの
ながれておとに
きくひとをみて


かかりければ、「あやし」と見て、さすがに来て、男、返し、
かかりければ、「あやし」と見て、さすがに来て、男、返し、


何頼む
われも通はむ
逢坂を
越ゆれば君に
あふみなりけり
なにたのむ
われもかよはむ
あふさかを
こゆればきみに
あふみなりけり


と言ひて、この女、「いづちぞ」と言ひければ、男、「志賀へなん詣づる」と言ひければ、やがて、「さは、もろともに。
と言ひて、この女、「いづちぞ」と言ひければ、男、「志賀へなん詣づる」と言ひければ、やがて、「さは、もろともに。


ここにもさなむ」とて、行きける。
ここにもさなむ」とて、行きける。


「さりとて、嬉しきこと」とて、もろともに詣でて寺に詣で着きても、男の局、女の局近くなんしたりける。
「さりとて、嬉しきこと」とて、もろともに詣でて寺に詣で着きても、男のつぼね、女の局近くなんしたりける。


かくて、物語などあまたをかしきやうに、かたみに言ひければ、「をかし」と思ふ。
かくて、物語などあまたをかしきやうに、かたみに言ひければ、「をかし」と思ふ。


この男、詣でたる所より、寺ぞ塞がりける。
この男、詣でたる所より、寺ぞふたがりける。


明くるまで、えあるまじかりければ、違ふべき所々行きけり。
明くるまで、えあるまじかりければ、たがふべき所々行きけり。


「命惜しきことも、ただ行く先のためなり」と言ひて、
「命惜しきことも、ただ行く先のためなり」と言ひて、


行きければ、女どもも、なほ、あるよりはものさうざうしくて*、
行きければ、女どもも、なほ、あるよりはものさうざうしくて*、

* 「さうざうしくて」は底本「さうさうさしくて」。「さ」一時衍字とみて削除。
「さらば、いかがはせん。京にてだにとぶらへ」とて、
「さらば、いかがはせん。京にてだにとぶらへ」とて、


内わたりに宮仕へしける人々なれば、曹司も使ひける人の名ども問ひけり。
内わたりに宮仕へしける人々なれば、曹司ざうしも使ひける人の名ども問ひけり。


この男、うちつけながらも、立つこと惜しかりければ、かうぞ、
この男、うちつけながらも、立つこと惜しかりければ、かうぞ、


立ちて行く
行方も知らず
かくのみぞ
道の空にて
惑ふべらなる
たちてゆく
ゆくゑもしらず
かくのみぞ
みちのそらにて
まどふべらなる


女、返し、
女、返し、


かくのみし
行方惑はば
わが魂を
たぐへやせまし
道のしるべに
かくのみし
ゆくゑまどはば
わがたまを
たぐへやせまし
みちのしるべに


「また、かへしせむ」とするほどに、男・女の供なる者ども、「夜明けぬべし」と言ひければ、立ちとどまらで、この男、浜辺のかたに、人の家に入りにけり。
「また、かへしせむ」とするほどに、男・女の供なる者ども、「夜明けぬべし」と言ひければ、立ちとどまらで、この男、浜辺のかたに、人の家に入りにけり。


さて、あしたに、「車に会はむ」とて、網曳かせなどしけるに、知れる人、「逍遥*せむ」とて、呼びければ、そちぞ、この男は去にける。
さて、あしたに、「車に会はむ」とて、網曳かせなどしけるに、知れる人、「逍遥*せむ」とて、呼びければ、そちぞ、この男は去にける。

* 底本「せうえん」
そのほどに、この女は帰り来て、内に参りて、友達どもに、志賀に詣でて、ありつるやうなど言ひける。
そのほどに、この女は帰り来て、内に参りて、友達どもに、志賀に詣でて、ありつるやうなど言ひける。


それを、この男とも、ものなど言ひて知れるが、その中にありける。
それを、この男とも、ものなど言ひて知れるが、その中にありける。


「さて、この男は誰とか言ひつる」と言ひければ、名を言ひけければ*、
「さて、この男はたれとか言ひつる」と言ひければ、名を言ひけければ*、

* 底本「いひけければ」。「け」の一字衍字をみて削除。
この「悪し」と思ひける女、「あれはさこそあれ、それが憂きこと」とて、
この「悪し」と思ひける女、「あれはさこそあれ、それが憂きこと」とて、


世になくあさましきことを作り出だしつつ、言ひ散らしければ、
世になくあさましきことを作り出だしつつ、言ひ散らしければ、


「あな、いとほし。知らで過ぎぬべかりけり。さらば、いと心憂き者にこそありけれ。もし、人来とも、その文取り入るな」と、使ふ人に皆教へてけり。
「あな、いとほし。知らで過ぎぬべかりけり。さらば、いと心憂き者にこそありけれ。もし、人来とも、そのふみ取り入るな」と、使ふ人に皆教へてけり。


それをば知らで、この男、帰り来て、教へにしたがひて、人をやりたれば、「いまだ里になむ。
それをば知らで、この男、帰り来て、教へにしたがひて、人をやりたれば、「いまだ里になむ。


『志賀へ』とて、まかで給ひにしままに、参り給はず」とて、文も取らずなりにければ、使、帰りて、「さなむ言ひつる」と言ひければ、案内を知らで、しきりつつ、二・三日やりけれど、つひに取り入れずなりにければ、かの志賀にゐて参りける友達めきたるが、ものの故知りたるを、この男、呼びにやりて、ことのあるやう、ありしことなど、もろともに見ける人なれば、
『志賀へ』とて、まかで給ひにしままに、参り給はず」とて、文も取らずなりにければ、使、帰りて、「さなむ言ひつる」と言ひければ、案内あんないを知らで、しきりつつ、二・三日やりけれど、つひに取り入れずなりにければ、かの志賀にゐて参りける友達めきたるが、もののゆゑ知りたるを、この男、呼びにやりて、ことのあるやう、ありしことなど、もろともに見ける人なれば、


「げにあやし。人や言ひ損ひたらむ」などぞ言ひける。
「げにあやし。人や言ひ損ひたらむ」などぞ言ひける。


この男、前栽を見て、口遊びに、
この男、前栽せんざいを見て、口遊びに、


助くべき
草木ならねど
あはれとぞ
もの思ふ人の
目には見えける
たすくべき
くさぎならねど
あはれとぞ
ものおもふひとの
めにはみえける


などぞ、言ひゐたりける。
などぞ、言ひゐたりける。


この友達、「げに、ことはりや」などぞ、いらふるほどに、日暮れて、月いとおもしろかりければ、「いざ、西の京わたりに、時々もの言ふわたりに、物語などせん」とて、いざなひければ、もろともに行きけり。
この友達、「げに、ことはりや」などぞ、いらふるほどに、日暮れて、月いとおもしろかりければ、「いざ、西の京わたりに、時々もの言ふわたりに、物語などせん」とて、いざなひければ、もろともに行きけり。


かの志賀のことのみ恋ひしかりければ、女、初め言ひたる歌を振り上げつつ、甲斐歌に歌ひ行きけり。
かの志賀のことのみ恋ひしかりければ、女、はじめ言ひたる歌を振り上げつつ、甲斐歌に歌ひ行きけり。


かかるに、先に立ちて車行く。
かかるに、先に立ちて車行く。


やうやう朱雀のあひだに、この車に付きて、なほ歌ひ行きければ、この車より、「この言ひ人定けき歌を盗みて、朱雀にてしも歌ふ」と言ひおこせたりければ、
やうやう朱雀すざかのあひだに、この車に付きて、なほ歌ひ行きければ、この車より、「この言ひ人定けき歌を盗みて、朱雀にてしも歌ふ」と言ひおこせたりければ、


この男、あやしきことのみ千種に思えて、
この男、あやしきことのみ千種ちぐさに思えて、


「かう咎め給ふ人もや、ものし給ふとて」と言ひたれば、
「かう咎め給ふ人もや、ものし給ふとて」と言ひたれば、


車より、「いとよう知れる人の、憂きことどものありける、言ひし聞きしかば、心憂し、言はじ」と言ひければ、
車より、「いとよう知れる人の、憂きことどものありける、言ひし聞きしかば、心憂し、言はじ」と言ひければ、


「さらば、これは志賀の人なるべし」と思ふに、
「さらば、これは志賀の人なるべし」と思ふに、


世に無き心地しければ、「さにや」と問ひけるに、
世に無き心地しければ、「さにや」と問ひけるに、


女、「さぞ」と答へければ、
女、「さぞ」と答へければ、


男、「ただ片時とどめ給へ」とせめければ、
男、「ただ片時とどめ給へ」とせめければ、


「よし、さらば、耳とがばかりに聞かむ」とて、
「よし、さらば、耳とがばかりに聞かむ」とて、


男、馬から下りて、車のもとに寄りて、
男、馬から下りて、車のもとに寄りて、


「いづちとて、おはしますぞ」など言ひければ、
「いづちとて、おはしますぞ」など言ひければ、


「あからさまに、里へまかりつるぞ」と言ふ。
「あからさまに、里へまかりつるぞ」と言ふ。


この男、文を取らせで帰りしこと、いみじく言ひ恨みければ、深う憂きやうに言ひければ、をさをさ答へもせずなりにければ、
この男、文を取らせで帰りしこと、いみじく言ひ恨みければ、深う憂きやうに言ひければ、をさをさ答へもせずなりにければ、


この男、「ひたおもむきにもあるべきかな。よろづに憂きことを人言ふとも、かうやは」と思ひてぞ、車のもとを立ちしぞきける。
この男、「ひたおもむきにもあるべきかな。よろづに憂きことを人言ふとも、かうやは」と思ひてぞ、車のもとを立ちしぞきける。


さりければ、車を掛けむとしければ、この男、なほしばし言ひとどめて、
さりければ、車を掛けむとしければ、この男、なほしばし言ひとどめて、


「『誰か、このあやしきことどもは』と問はむ」と思ひて、供なりける男して、「身もいと憂く、御心も恨めし。『身も投げむ』とてまかりつるを、ただ一言聞きおくべきことなん、ありける。さても、この川、え渡らでなん、帰り詣で来ぬる」とて、
「『誰か、このあやしきことどもは』と問はむ」と思ひて、供なりける男して、「身もいと憂く、御心も恨めし。『身も投げむ』とてまかりつるを、ただ一言聞きおくべきことなん、ありける。さても、この川、え渡らでなん、帰り詣で来ぬる」とて、


身の憂きを
厭ひ捨てにと
来つれども
涙の川は
渡る瀬もなし
みのうきを
いとひすてにと
きつれども
なみだのかはは
わたるせもなし


返し。
返し。


まことにて
渡る瀬なくは
涙川
流れて深き
みをと頼まむ
まことにて
わたるせなくは
なみだがは
ながれてふかき
みをとたのまむ


と言ひて、
と言ひて、


「なほ、立ち寄れ。もの一言は言はむ」と言へば、
「なほ、立ち寄れ。もの一言は言はむ」と言へば、


男、車のもとに立ち寄りにけり。
男、車のもとに立ち寄りにけり。


さて、夜、やうやう暁方になりにければ、この女、「今は去なむ」とて、
さて、夜、やうやう暁方になりにければ、この女、「今は去なむ」とて、


「ゆめ、今宵だに、いまだ人にかかりとな。うつつとはさらに」とて、
「ゆめ、今宵だに、いまだ人にかかりとな。うつつとはさらに」とて、


秋の夜の
夢ははかなく
会ふといふを
あきのよの
ゆめははかなく
あふといふを


と言へば、男、
と言へば、男、


春に帰りて
まさしかるらむ
はるにかへりて
まさしかるらむ


と言ひけるほどに、すくすくと明かくなりにければ、「今は、はや、おはせむ所へおはしね」と言へば、「この女の入らむ所を見む」とて、男、行かざりければ、女、「家を見せじ」と思ひて、せちに怨じけり。
と言ひけるほどに、すくすくと明かくなりにければ、「今は、はや、おはせむ所へおはしね」と言へば、「この女の入らむ所を見む」とて、男、行かざりければ、女、「家を見せじ」と思ひて、せちにじけり。


されば、かくなん。
されば、かくなん。


ことならば
明かし果ててよ
衣手に
触れる涙の
色も見すべく
ことならば
あかしはててよ
ころもでに
ふれるなみだの
いろもみすべく


返し。
返し。


衣手に
触れる涙の
色見むと
明かさばわれも
あらはれねとや
ころもでに
ふれるなみだの
いろみむと
あかさばわれも
あらはれねとや


と言ふに、いと明かくなれば、童一人をとどめて、「この車の入らむ所を見て来」とて、男は帰りにけり。
と言ふに、いと明かくなれば、童一人をとどめて、「この車の入らむ所を見て」とて、男は帰りにけり。


童、見て来ぬ。
童、見て来ぬ。


いかがなりにけむ。
いかがなりにけむ。