また、この男、忍びたるものから、はやむまと思はぬ人の、的思ひに思ひて、住むぞありける。
また、この男、忍びたるものから、はやむまと思はぬ人の、まと思ひに思ひて、住むぞありける。


この男の住みける間に、こよなう勝りたる人などに、もの聞こゆる気色見えけり。
この男の住みける間に、こよなう勝りたる人などに、もの聞こゆる気色見えけり。


それを、この先立て住みける男も入りてありける宮なりければ、気色に疑ひつつ、この女を恨み言ひけり。
それを、この先立さいたて住みける男も入りてありける宮なりければ、気色に疑ひつつ、この女を恨み言ひけり。


されど、この今からもののたまふ男は、上にも褻にも、心にまかせて交り歩く人なれば、え守り合ふべくもあらぬほどに、口惜しきこと、会ひにける。
されど、この今からもののたまふ男は、上にもにも、心にまかせて交りありく人なれば、え守り合ふべくもあらぬほどに、口惜しきこと、会ひにける。


また、さらぬ顔作りてぞ、この男は語らひける。
また、さらぬ顔作りてぞ、この男は語らひける。


この男、はた、え*言ふまじきやうにぞありければ、女をぞ、ひたみちに「つらし」と思ひける。
この男、はた、え*言ふまじきやうにぞありければ、女をぞ、ひたみちに「つらし」と思ひける。


さて、この初めの男の言種に、「逢坂」といふことを言ひければ、「逢坂」をぞ付けたりける。
さて、この初めの男の言種ことぐさに、「逢坂あふさか」といふことを言ひければ、「逢坂」をぞ付けたりける。


それを思ひて、かくぞ言ひやりける。
それを思ひて、かくぞ言ひやりける。


逢坂と
わが頼みくる
関の名を
人守る山と
今は変ふるか
あふさかと
わがたのみくる
せきのなを
ひともるやまと
いまはこふるか


返し。
返し。


逢坂は
関といふことに
高ければ
君守る山と
人をいさめよ
あふさかは
せきといふことに
たかければ
きみもるやまと
ひとをいさめよ


とて、いみじうあらがひたりければ、また、男、
とて、いみじうあらがひたりければ、また、男、


偽りを
ただすの森の
木綿襷
かけて誓へよ
われを思はば
いつはりを
ただすのもりの
ゆふだすき
かけてちかへよ
われをおもはば


と言ひたれど、「里へ出でぬ」とて、返り事もせざりければ、男、思ひ憂じて、また、ものも言はで、そのころ経ける。
と言ひたれど、「里へ出でぬ」とて、返り事もせざりければ、男、思ひ憂じて、また、ものも言はで、そのころける。


さて、この男、時々行く所ありけるに、ほのぼのと明くるほどにぞ帰りける。
さて、この男、時々行く所ありけるに、ほのぼのと明くるほどにぞ帰りける。


この、かう言ふ女の家のあたりより行きけるに、
この、かう言ふ女の家のあたりより行きけるに、


「『里へ』と言ひしはまことか」とて、
「『里へ』と言ひしはまことか」とて、


「ものの気色も見む」と思ひ放たで、
「ものの気色も見む」と思ひはなたで、


門の内の方に、車など引き立てて、
かどの内の方に、車など引き立てて、


この品高き男の供なる男どもなど、あまた立てりけり。
このしな高き男の供なる男どもなど、あまた立てりけり。


そのかみ、もの言はで、奥にはひ入りて隠れ立ちて見れば、
そのかみ、もの言はで、奥にはひ入りて隠れ立ちて見れば、


女、蔀押し上げて、かの高き人をぞ出だしける。
女、しとみ押し上げて、かの高き人をぞ出だしける。


この男、「かう、うつつに見つることの心憂きこと」と思ひて、
この男、「かう、うつつに見つることの心憂きこと」と思ひて、


世に知らず心憂かりけれど、
世に知らず心憂かりけれど、


「もの一言をだに言はむ。さても、『はた、見けり』とこそは思はれめ」とて、
「もの一言をだに言はむ。さても、『はた、見けり』とこそは思はれめ」とて、


板敷の端に立ち寄りて、声高く、「あな、おもしろの花や」と言へば、
板敷の端に立ち寄りて、声高く、「あな、おもしろの花や」と言へば、


この女、奥へも入り果てざりければ、あやしがりて、さしのぞきたり。
この女、奥へも入り果てざりければ、あやしがりて、さしのぞきたり。


見合はせて、「いかでかは、ここにかうは」と言へば、
見合はせて、「いかでかは、ここにかうは」と言へば、


「この前栽の花の、目に見す見す移ろふ、見果てになむ参り来つる」とぞ言ひける。
「この前栽せんざいの花の、目に見す見す移ろふ、見果てになむ参り来つる」とぞ言ひける。


その屋の前に、桜のいとおもしろく咲きて、春の果てがたにやありけむ、散りけり。
その屋の前に、桜のいとおもしろく咲きて、春の果てがたにやありけむ、散りけり。


それを見て、男、
それを見て、男、


あらはなる
ことあらがふな
桜花
春を限りと
散るは見えつつ
あらはなる
ことあらがふな
さくらばな
なはをかぎりと
ちるはみえつつ


と言ひて、ふと出でて行きければ、「えこそ、しばしや」と言ひけれど、「いとかう憂し」と思ひて止まらざりければ、しひて、かくなん、
と言ひて、ふと出でて行きければ、「えこそ、しばしや」と言ひけれど、「いとかう憂し」と思ひて止まらざりければ、しひて、かくなん、


色に出でて
あだに見ゆとも
桜花
風し吹かずは
散らじとぞ思ふ
いろにいでて
あだにみゆとも
さくらばな
かぜしふかずは
ちらじとぞおもふ


と言へりけれど、「ものへ出でぬ」とて、返り事もせざりけり。
と言へりけれど、「ものへ出でぬ」とて、返り事もせざりけり。


さて、かののち*に住みける高き男も、このもとの男の、女の*家に入り代りけるを、見ける人なん語りければ、「さは、今も住みけり」と思ひて絶えにける。
さて、かののち*に住みける高き男も、このもとの男の、女の*家に入り代りけるを、見ける人なん語りければ、「さは、今も住みけり」と思ひて絶えにける。

* 底本「の」なし。