さて、この男、その年の秋、西の京極九条のほどに行きけり。
さて、この男、その年の秋、西の京極九条のほどに行きけり。


そのあたりに、築地など崩れたるが、さすがに蔀など上げて、簾かけ渡してある、人の家あり。
そのあたりに、築地ついぢなど崩れたるが、さすがにしとみなど上げて、すだれかけ渡してある、人の家あり。


簾のもとに、女ども、あまた見えければ、この男、ただにも過ぎで、
のもとに、女ども、あまた見えければ、この男、ただにも過ぎで、


「などか、その庭は心すごけに荒れたる」など言ひ入れたれば、
「などか、その庭は心すごけに荒れたる」など言ひ入れたれば、


「誰ぞ、かふ言ふは」など、問ひければ、
ぞ、かふ言ふは」など、問ひければ、


「なほ、道行く人ぞ」と言ひ入る。
「なほ、道行く人ぞ」と言ひ入る。


築地の崩れより見出だして、この女、
築地の崩れより見出だして、この女、


人のあきに
庭さへ荒れて
道もなく
蓬茂る
宿とやは見ぬ
ひとのあきに
にはさへあれて
みちもなく
よもぎしげる
やどとやはみぬ


と書きて、出だしけれど、もの書くべき具さらになかりければ、たた口写しに、男。
と書きて、出だしけれど、もの書くべき具さらになかりければ、たた口写しに、男。


誰があきに
あひて荒れたる
宿ならん
われだに庭の
草は生ほさじ
たれがあきに
あひてあれたる
やどならん
われだににはの
くさはおほさじ


と言ひて、そこに久しく、馬に乗りながら立てらんことの、白々しければ、帰りてそれを始めにて、ものなと言ひやりける。
と言ひて、そこに久しく、馬に乗りながら立てらんことの、白々しければ、帰りてそれを始めにて、ものなと言ひやりける。


「もし、籠り居てすかする人もこそあれ」と思ひて、
「もし、籠り居てすかする人もこそあれ」と思ひて、


たえて「その人の家」とも言はざりければ、
たえて「その人の家」とも言はざりければ、


ねんごろにも尋ね問はで、
ねんごろにも尋ね問はで、


さて、なま疑ひてぞ、時々もの言ひやりける。
さて、なま疑ひてぞ、時々もの言ひやりける。


ほど久しくありて、また人やりたるに、「ここにおはしましし人は、はや、ものへおはしにき」とて、
ほど久しくありて、また人やりたるに、「ここにおはしましし人は、はや、ものへおはしにき」とて、


口惜しき者、ただ一人ぞ居りける。
口惜しき者、ただ一人ぞりける。


「『もし、人賜はば、取らせよ』とて、これなん賜ひ置きたる」とて、いささかなる文ぞある。
「『もし、人賜はば、取らせよ』とて、これなん賜ひ置きたる」とて、いささかなる文ぞある。


使、「しかじかなん、言ひつる」とて、語れば、
使、「しかじかなん、言ひつる」とて、語れば、


「あやし」と思ひて、
「あやし」と思ひて、


「もし、行き所やある」とて、
「もし、行き所やある」とて、


急ぎ開けて見れば、ただ、かくなん、
急ぎ開けて見れば、ただ、かくなん、


わが宿は
奈良の都ぞ
男山
越ゆばかりにし
あらば来て問へ
わがやどは
ならのみやこぞ
をとこやま
こゆばかりにし
あらばきてとへ


とのみありければ、男、いたく思ひ口惜しがりて、この住みけるところに人やりて、宿守に物くれさせて問へど、「ただ奈良へとなむ承る。
とのみありければ、男、いたく思ひ口惜しがりて、この住みけるところに人やりて、宿守やどもりに物くれさせて問へど、「ただ奈良へとなむ承る。


それより異所は、ここかしことも承らず」と言へば、
それより異所ことどころは、ここかしことも承らず」と言へば、


「たづねむ方なくなむ*。奈良と聞きては、いづくをいづことかたづねん」と思ひて、
「たづねむ方なくなむ*。奈良と聞きては、いづくをいづことかたづねん」と思ひて、

「なくなむ」は、底本「くなむ」
しばしこそありけれ、思ひ忘れて、年月になりぬ。
しばしこそありけれ、思ひ忘れて、年月になりぬ。


さて、この親、忍びて初瀬へ詣でけり。
さて、この親、忍びて初瀬はつせまうでけり。


ともに、この男も詣でけり。
ともに、この男もまうでけり。


「男山越ゆばかり*」とあることを思ひ出でて、
「男山越ゆばかり*」とあることを思ひ出でて、

* 「ばかり」は底本「ははかり」。衍字とみて一時削除。
「あはれ、さ言へる人のありしはや」とぞ、供なる人に語らひける。
「あはれ、さ言へる人のありしはや」とぞ、供なる人に語らひける。


さて、初瀬へ詣でにけり。
さて、初瀬はせまうでにけり。


帰り来けるに、飛鳥本といふわたりに、あひ知りてある大徳たちも、俗も出で来て、
帰り来けるに、飛鳥本あすかもとといふわたりに、あひ知りてある大徳だいとこたちも、俗も出で来て、


「今日は日端になりぬ。奈良坂のあなたには、人の御宿りもなし。ここにとどまらせ給へ」と言ひて、
「今日は日端ひはしたになりぬ。奈良坂のあなたには、人の御宿りもなし。ここにとどまらせ給へ」と言ひて、


門並びに、家二つを一つに造り合はせたるがをかしきにぞ、留めける。
かど並びに、家二つを一つに造り合はせたるがをかしきにぞ、留めける。


さりければ、とどまりにけり。
さりければ、とどまりにけり。


あるじなどし、人々もの食ひて、騒がしきこと、静まりて、なま夕暮になりにけり。
あるじなどし、人々もの食ひて、騒がしきこと、静まりて、なま夕暮になりにけり。


この男、門の方にたたずまひて見けり。
この男、門の方にたたずまひて見けり。


この南なる家の門より、北なる家までは、楢の木といふを植え並めたりける。
この南なる家の門より、北なる家までは、ならの木といふを植え並めたりける。


「あやしくもあるかな。
「あやしくもあるかな。


異木も無くて、これしも」など言ひて、
こと木も無くて、これしも」など言ひて、


この北なる家に這ひ入りて、さし覗きたりければ、蔀などさし上げて、女ども、あまた集り居り。
この北なる家に這ひ入りて、さし覗きたりければ、蔀などさし上げて、女ども、あまた集り居り。


「あやし」など、おのがどち集まりて、この男の供なる人を呼ばせて、
「あやし」など、おのがどち集まりて、この男の供なる人を呼ばせて、


「この覗き給へる人は、この南に宿り給へるか」と問ふ。
「この覗き給へる人は、この南に宿り給へるか」と問ふ。


「さなり」。
「さなり」。


「さて、その人ぞ」など問へば、この男の名をぞ答へける。
「さて、その人ぞ」など問へば、この男の名をぞ答へける。


いと、いたう、おのがどち言ひあはれがりて、「われ、いかに。築地の崩れより、一目見しを忘れざりけり」。
いと、いたう、おのがどち言ひあはれがりて、「われ、いかに。築地の崩れより、一目見しを忘れざりけり」。


それをほのかに聞きて、この男は、「それなるべし」と思ひて、
それをほのかに聞きて、この男は、「それなるべし」と思ひて、


「あやしくもありけるかな。ここにしも、かう宿りに来るよ」と思ふに、嬉しくもあり、
「あやしくもありけるかな。ここにしも、かう宿りに来るよ」と思ふに、嬉しくもあり、


また、「男の迎へて据ゑたるにやあらむ」など、とかく思ひ乱れて居たるに、かく言ひ出だしたり。
また、「男の迎へてゑたるにやあらむ」など、とかく思ひ乱れて居たるに、かく言ひ出だしたり。


くやしくぞ
奈良へとだにも
付けてける
玉桙(たまぼこ)にだに
来ても問はねば
くやしくぞ
ならへとだにも
つけてける
たまぼこにだに
きてもとはねば


と書きて出だしたるを見れば、
と書きて出だしたるを見れば、


かの、「庭さへ荒れて」と言へりし人の手なり。
かの、「庭さへ荒れて」と言へりし人の手なり。


京のなまゆかしうなりゆけるに、あはれしう、をかしうぞ思えける。
京のなまゆかしうなりゆけるに、あはれしう、をかしうぞ思えける。


さて、硯乞ひ出でて、かくなん、
さて、硯乞ひ出でて、かくなん、


ならの木の
ならぶ門とは
教へねど
名にや負ふとぞ
宿は借りつる
ならのきの
ならぶかどとは
おしへねど
なにやおふとぞ
やどはかりつる

* 「ならぶ」は底本「ならに」
と言ひたれば、「あな、うちつけのことや」と*言ひて、また、かくぞ言ひける。
と言ひたれば、「あな、うちつけのことや」と*言ひて、また、かくぞ言ひける。

* 底本「と」なし。
門過ぎて
初瀬川まで
渡れるも
わがためにとや
君はかこたむ
かどすぎて
はつせがはまで
わたれるも
わがためにとや
きみはかこたむ


とありければ、この男、またかくぞ言ひ入れたりける。
とありければ、この男、またかくぞ言ひ入れたりける。


「聖徳太子の家とぞ求めける。のどめきてよ」
「聖徳太子の家とぞ求めける。のどめきてよ」


ひろのもの
君もや渡り
あふとてぞ
初瀬川まで
わが求めつる
ひろのもの
きみもやわたり
あふとてぞ
はつせがはまで
わがもとめつる


さ言ふほどに、暗うなりにけり。
さ言ふほどに、暗うなりにけり。


「なほ、ここに立ち寄れかし」と言ひければ、おぼつかなく、たづねわびつることを、よろづに言ひ語らひけるに、明け行けば、偽り病みして留まりなまほしかりけれど*、あやしく親にしたがへる人にて、
「なほ、ここに立ち寄れかし」と言ひければ、おぼつかなく、たづねわびつることを、よろづに言ひ語らひけるに、明け行けば、偽り病みして留まりなまほしかりけれど*、あやしく親にしたがへる人にて、

* 底本「なほしかりけれど」。諸説によって訂正。
「夜の間、外なるをだに、かかる旅にあること」と思ひて、かつは歎きつつぞ、人ともの言ひつつ、
の間、ほかなるをだに、かかる旅にあること」と思ひて、かつは歎きつつぞ、人ともの言ひつつ、


「いかでか留まるべき」と心に思ひて、明けければ、
「いかでか留まるべき」と心に思ひて、明けければ、


「立ち帰り、必ず参り来なむ。
「立ち帰り、必ず参りなむ。


今度待ちて、心ざしは有り無し見給へ」とて、親の宿れる南へ去ぬ。
今度こたみ待ちて、心ざしは有り無し見給へ」とて、親の宿れる南へ去ぬ。


さて、やる。
さて、やる。


朝まだき
立つ空もなし
白波の
返る間もなく
帰り来ぬべし
あさまだき
たつそらもなし
しらなみの
かへるまもなく
かへりきぬべし


と言へれば、「さらば、いかがはせん。とく帰り給へ。遅くは、えしも対面せじ」とて、
と言へれば、「さらば、いかがはせん。とく帰り給へ。遅くは、えしも対面せじ」とて、


待つほどに
君帰り来で
猿沢の
池の心を
のちに恨むな
まつほどに
きみかへりこで
さるさはの
いけのこころを
のちにうらむな


みな出で立ちて、馬に乗るに、この男、く苦しうなりて、「かう言へる」とて、
みな出で立ちて、馬に乗るに、この男、く苦しうなりて、「かう言へる」とて、


「げに、立ち帰り、来ぬべきことをや言はまし」と思へど、
「げに、立ち帰り、来ぬべきことをや言はまし」と思へど、


さては長居して、「少しもこそ遅るれ」と、
さては長居して、「少しもこそ遅るれ」と、


親の心を世に知らず包みければ、え行かで、かかることを言ひやる。
親の心を世に知らず包みければ、え行かで、かかることを言ひやる。


大方は
いづちも行かじ
猿沢の
池の心も
わが知らなくに
おほかたは
いづちもゆかじ
さるさはの
いけのこころも
わがしらなくに


かく、言葉ぞや。
かく、言葉ぞや。