また、この男、音聞きに聞きならしつつ、思ひいどむ人ぞありける。
また、この男、音聞きに聞きならしつつ、思ひいどむ人ぞありける。


さりけれど、え言ひつかざりけるほどに、かの女、はた、この男を聞き、いどみて、かかることをぞ、まづ言ひたりける。
さりけれど、え言ひつかざりけるほどに、かの女、はた、この男を聞き、いどみて、かかることをぞ、まづ言ひたりける。


心あだに
思ひさだめず
吹く風の
大空者と
聞くはまことか
こころあだに
おもひさだめず
ふくかぜの
おほそらものと
きくはまことか


と言ひたるを、「あやし」とは思ひながら、「いかで」と思ふところより、さ言ひに来たれば、喜びて、返し
と言ひたるを、「あやし」とは思ひながら、「いかで」と思ふところより、さ言ひに来たれば、喜びて、返し


ただよひて
風にたぐへる
白雲の
名をこそ空の
者と言ふなれ
ただよひて
かぜにたぐへる
しらくもの
なをこそそらの
ものといふなれ


また、女、桜の花のおもしろきに付けて、
また、女、桜の花のおもしろきに付けて、


まさぐらば
をかしかるべき
物にぞある
わが世久しく
移らずもがな
まさぐらば
をかしかるべき
ものにぞある
わがよひさしく
うつらずもがな


男、返し。
男、返し。


今年より
春の心し
変らずは
まさぐられつつ
君がか手にへむ
ことしより
はるのこころし
かはらずは
まさぐられつつ
きみがかてにへむ

「へむ」は底本「つん」
とぞ言ひたりけるを、「をかし」とや思ひけむ、「よそにても言はんことを聞かむ」などぞ言ひたる。
とぞ言ひたりけるを、「をかし」とや思ひけむ、「よそにても言はんことを聞かむ」などぞ言ひたる。


されば、男、急ぎ来たれば、ものなど言ひて、その夜はよそながら帰りにけり。
されば、男、急ぎ来たれば、ものなど言ひて、その夜はよそながら帰りにけり。


朝に、女のもとより、
あしたに、女のもとより、


吹く風に
なびく草葉と
われは思ふ
夜半に置く露
のきもかれずな
ふくかぜに
なびくくさばと
われはおもふ
よはにおくつゆ
のきもかれずな


かかれば、「いと口惜しう契られぬること」と言ひて、男、返し。
かかれば、「いと口惜しう契られぬること」と言ひて、男、返し。


深山なる
松は変らじ
風下の
草葉と名乗る
君はかるとも
みやまなる
まつはかはらじ
かざしたの
くさばとなのる
きみはかるとも


さて、暮れに来たり。
さて、暮れに来たり。


明けぬれば帰りぬ。
明けぬれば帰りぬ。


かの女の親族、男見付けてけり。
かの女の親族しぞく、男見付けてけり。


「さて、おのが目に、これより出でて去ぬるは」。
「さて、おのが目に、これより出でて去ぬるは」。


女、「知らず。よにあらじ」。
女、「知らず。よにあらじ」。


「よし、かうしあらば、この出でぬる男のもとに行きて問はむ」とぞ言ひける。
「よし、かうしあらば、この出でぬる男のもとに行きて問はむ」とぞ言ひける。


ようあひ言ふなるにぞありける。
ようあひ言ふなるにぞありける。


さりければ、「そこにて問はんものぞ。今朝、出で給ひつるを見てけり。
さりければ、「そこにて問はんものぞ。今朝、出で給ひつるを見てけり。


ちはやぶる
神てふ神も
知らるらん
風の音にも
まだ知らずてへ
ちはやぶる
かみてふかみも
しらるらん
かぜのおとにも
まだしらずてへ

「てへ」は底本「らへ」
とてやりたる返り事。
とてやりたる返り事。


白河の
しらずとも言はじ
底清み
流れてよよに
すまむと思へば
しらかはの
しらずともいはじ
そこきよみ
ながれてよよに
すまむとおもへば


となんありける。
となんありける。


さて、また、この男、行きて、また朝に、女、言ひたり。
さて、また、この男、行きて、またあしたに、女、言ひたり。


言の葉の
人頼めなる
うき露の
おきて去ぬるぞ
消えて恋しき
ことのはの
ひとたのめなる
うきつゆの
おきていぬるぞ
きえてこひしき


返し。
返し。


あはれあはれ
おきて頼むな
白露は
おもひに草の
はやかるるとぞ
あはれあはれ
おきてたのむな
しらつゆは
おもひにくさの
はやかるるとぞ


かくて、ありわたるに、逍遥せまほしかりければ、難波の方へぞ行きける。
かくて、ありわたるに、逍遥せまほしかりければ、難波の方へぞ行きける。


そのほど、「たひらかにものし給へ。
そのほど、「たひらかにものし給へ。


これは但馬の国より持て来たる、『たにもかく』といふものをやる」とて、
これは但馬の国より持て来たる、『たにもかく』といふものをやる」とて、


片時の
別れだにかく
わびしきを
かたときの
わかれだにかく
わびしきを


と言ひたれば、女、
と言ひたれば、女、


行き返るまに
われは消ぬべし
ゆきかへるまに
われはけぬべし


「さらば」など言ひて、また、女、
「さらば」など言ひて、また、女、


難波潟
朝満つ潮の
早く来ね
淀まば水の泡
たへず消ぬべし
なにはがた
あさみつしほの
はやくこね
よどまばみのあは
たへずけぬべし


男、返し。
男、返し。


干る潮の
満ちかへる間に
消ぬべくは
何か難波の
かたをだに見ん
ほるしほの
みちかへるまに
けぬべくは
なにかなにはの
かたをだにみん


と言ひて、難波へも行かず、あはれがりて留まりぬ。
と言ひて、難波へも行かず、あはれがりて留まりぬ。


さて、この心変るやうにしければ、
さて、この心変るやうにしければ、


あひ見ての
のちぞくやしさ
まさりける
つれなかりける
心と思へば
あひみての
のちぞくやしさ
まさりける
つれなかりける
こころとおもへば

* 「つれなかりける」は、底本「つれなりける」
とあるを見て、男、
とあるを見て、男、


見てのみぞ
われはもえ増す
春山の
よそのなげきを
思ひつぎつつ
みてのみぞ
われはもえます
はるやまの
よそのなげきを
おもひつぎつつ


といらへど、なほ心ざしのおろかなるやうに見えければ、女、
といらへど、なほ心ざしのおろかなるやうに見えければ、女、


今よりは
富士の煙も
世に絶えじ
もゆる思ひの
胸に絶えねば
いまよりは
ふじのけぶりも
よにたえじ
もゆるおもひの
むねにたえねば


男、返し。
男、返し。


くゆる思ひ
胸に絶えずは
富士の嶺の
なげきとわれも
なりこそはせめ
くゆるおもひ
むねにたえずは
ふじのねの
なげきとわれも
なりこそはせめ


さて、そのころ*、ひさしく行かざりければ、男、いとほしがりて、またつとめて、かくなん。
さて、そのころ、ひさしく行かざりければ、男、いとほしがりて、またつとめて、かくなん。

* 底本、「さてそのころさてそのころ」と二回続く。衍字と見て削除。
うちとけて
君は寝ぬらん
われはしも
露とおきゐて
思ひ明かしつ
うちとけて
きみはねぬらん
われはしも
つゆとおきゐて
おもひあかしつ


と言ひたるに、この女は、夜一夜、ものをのみ思ひ明かして、ながめ居たるに、持て来たりける
と言ひたるに、この女は、夜一夜よひとよ、ものをのみ思ひ明かして、ながめ居たるに、持て来たりける


白露のおきゐて誰を恋ひつらむわれはききおはす石上にて
白露のおきゐて誰を恋ひつらむわれはききおはす石上いそのかみにて


この女*の住みける所をぞ、「石上」とはいひける。
この女の住みける所をぞ、「石上」とはいひける。

* 「この女」、影印に「こ」の字なし。翻刻及び諸注釈書に指摘がないので、印刷ミスか。