弘法大師、諱空海、讃岐國人也。
弘法大師は、諱空海、讃岐の國の人なり。
出家得度、師事僧正勤操。
出家得度し、僧正勤操に師事す。
初學三論・法相、後入金剛乘、遂入唐朝、極眞言奧旨。
初め三論・法相を學び、後金剛乘に入り、遂に唐朝に入り、眞言の奧旨を極む。
兩界三部之道、諸尊衆聖之儀、自此弘於我土。
兩界三部の之道、諸尊衆聖の之儀、此より於我が土に弘まる。
然則大日如來七代之弟子、本朝最初阿闍梨也。
然ればすなはち大日如來七代の之弟子にして、本朝最初の阿闍梨なり。
惠果和尚、吾久待汝。
惠果和尚、吾久しく汝を待てり。
是十地中第三地菩薩也。
これ十地中第三地の菩薩なり。
吾必爲汝弟子、託生東土。
吾必ず汝が弟子と爲り、生を東土に託せんと。
大師於唐朝、投一鈴杵、卜本朝勝地、一墜東寺、一落紀伊國高野山、一落土佐國室生戸山。
大師の唐朝に於て、一鈴杵を投げ、本朝の勝地を卜するに、一は東寺に墜ち、一は紀伊の國高野山に落ち、一は土佐の國室生戸山に落つ。
修因僧都讀咒護國界經、施神驗。
修因僧都護國界經を讀咒し、神驗を施す。
昔遣護法於唐朝、偸惠果傳法。
昔護法を於唐朝に遣はし、惠果の傳ふる法を偸む。
大師頗得其心曰、有竊法之者。
大師頗るその心を得て曰く、竊法の之者有りと。
仍受金剛界之時、別結界火焔遶郭不得入。
仍て金剛界を受くる之時、別に界を結び火焔郭を遶つて入ることを得ず。
及大師歸朝、常以相挑。
大師歸朝するに及び、常にもつて相挑む。
遞欲調伏、共行壇法。
遞に調伏せんと欲し、共に壇法を行ふ。
弟子涕泣、行喪家儀。
弟子涕泣し、喪家の儀を行ふ。
又令見予弟子等、運葬斂之眞。
又予弟子等をして、葬斂を運ぶの之眞なるかを見しむ。
修因信之、涕泣良久、行懺悔之法。
修因これを信じ、涕泣すること良や久しく、懺悔の之法を行ふ。
大師更行調伏法七日、修因頓受瘡而死。
大師更に調伏の法を行ふこと七日、修因頓に瘡を受けて死す。
大師又行懺悔法七日、降三世顯於鑪壇曰、我是修因也。
大師又懺悔の法を行ふこと七日、降三世於鑪壇に顯はれ曰く、我はこれ修因なり。
爲令顯揚汝法、權成怨敵也。
汝が法を顯揚せしめんがために、權に怨敵と成るなり也と。
昔左右手足及口秉筆成書。
昔左右の手足及び口にて筆を秉り書を成す。
故唐朝謂之五筆和尚。
故に唐朝にてはこれを五筆和尚と謂ふ。
帝都南面三門竝應天門額大師所書也。
帝都の南面の三門竝びに應天門の額は大師の書く所なり。
其應天門額、應字上點故落之。
その應天門の額の、應の字の上の點故とこれを落とす。
上額之後、遙投筆書之。
額を上ぐる之後、遙かに筆を投げてこれを書す。
小野道風難之曰、可謂米雀門。
小野道風これを難じて曰く、米雀門と謂ふべしと。
夢有人、來稱弘法大師使、踏其首。
夢に人有り、來りて弘法大師の使ひと稱し、その首を踏む。
道風仰見、履鼻入雲、不見其人。
道風仰ぎ見れば、履の鼻雲に入り、その人を見ず。
陰陽寮額、三度書之。
陰陽寮の額は、三度これを書す。
始書後、夢有神人曰、此額太凡。
始めて書する後、夢に神人有りて曰く、この額太だ凡なり。
不堪過過此下、改書仍改書。
過この下を過ぐるに堪へずして、書を改め仍た書を改む。
木工寮額、寮頭造門。
木工寮の額は、寮頭に門を造る。
令寮官請額於大師。
寮官をして額を於大師に請はしむ。
使違期不能謁大師。
使ひ期を違へ大師に謁すること能はず。
仍祈念曰、大師大權之人也。
仍て祈念して曰く、大師は大權の之人なり。
借五筆勢、使下拙掌之。
五筆の勢を借り、下拙をしてこれを掌らしめよと。
昔於神泉苑行請雨經法。
昔神泉苑に於て請雨の經法を行ふ。
修因咒諸龍入瓶中。
修因諸に咒して龍を瓶中に入らしむ。
大師覺其心、請阿耨達池善如龍王。
大師その心を覺り、阿耨達池の善如龍王を請ず。
金色小龍乘丈餘蛇、有兩蛇龓。
金色の小龍丈餘の蛇に乘り、兩蛇とも龓有り。
自是以神泉苑、爲此龍住所、兼爲行祕法之地。
是より神泉苑をもつて、この龍の住所と爲し、兼ねて祕法を行ふ之地と爲す。
自唐朝賷如意寳珠以來我朝。
唐朝より如意寳珠を賷し、もつて我朝に來る。
此殊在所、幷惠果後身、彼宗深所祕也。
この殊の在る所、幷びに惠果の後身は、彼の宗の深く祕する所なり。
後於金剛峰寺、入金剛定、于今存焉。
後金剛峰寺に於て、金剛定に入り、今于存す。
初人皆見鬢髪常生、形容不變。
初め人皆鬢髪常に生じ、形容變らざるを見る。
穿山頂、入底半里計、爲禪定之室。
山頂を穿ち、底に入ること半里計りを、禪定の之室と爲す。
彼山于今無烏鳶之類・諠譁之獸、兼生前之誓願也。
彼の山今于烏鳶の之類・諠譁の之獸無きは、兼ねて生前の之誓願なり。
常稱曰、弘佛法、以種姓爲先。
常に稱して曰く、佛法を弘むるは、種姓をもつて先と爲すと。
故彼宗、親王・公子相繼不絶。
故に彼の宗は、親王・公子相繼ぎて絶えず。
寛平法皇受灌頂於此宗後、仁和寺最多王胤。
寛平法皇灌頂を於この宗に受けて後、仁和寺最も王胤多し。
圓融天皇入御地、誠是一宗之光華也。
圓融天皇の御地に入るは、誠にこれ一宗の之光華なり。
或曰、大師已得證究竟大覺位。
或ひと曰く、大師已に證を得究竟大覺の位なり。
本朝之面目、何事過之。
本朝の之面目、何事か之に過ぎんと。
大師之心行、多見於遺告廿二章。
大師の之心行、多く於遺告廿二章に見ゆ。
延喜之比、始賜諡號。
延喜の之比、始めて諡號を賜ふ。
彼宗之人起請曰、除大師之外、不可賜諡號。
彼の宗の之人起請して曰く、大師を除く之外、諡號を賜ふべからず。
仍雖多智德、所不申請也。
仍て智德多しといへども、申請せざる所なり。
内供奉十禪師者、天台宗人。
内供奉十禪師は、天台宗の人なり。
雖任僧綱、猶不去之。
僧綱に任ずといへども、なほこれを去らず。
仍任僧綱後、必去内供。
仍て僧綱に任ずるの後、必ず内供を去る。
眞如親王者、大同太子。
眞如親王は、大同の太子なり。
太朗眞言、後入唐朝、更向印土。
太だ眞言に朗らかなり、後唐朝に入り、更に印土に向ふ。
送書於大師曰、雖多明師、不過大師。
書を於大師に送つて曰く、明師多しといへども、大師に過ぎず。
雖多高閣、不過大極殿云々。
高閣多しといへども、大極殿に過ぎずと云々。
爰知、作吾土之人、猶過月氏・漢家之人。
爰に知る、吾が土の之人と作るは、なほ月氏・漢家の之人に過ぐるがごとしと。