中納言顕基は大納言俊賢の息。
中納言顕基は大納言俊賢のそく

源顕基
源俊賢
後一条の御門に時めかし仕へ給て、若うより司・位につけて恨みなかりけれど、心はこの世のさかえを好まず、深く仏道を願ひ、菩提を望む思ひのみあり。


後一条天皇
常のことぐさには、かの楽天の詩に、「古墓、何れの世の人。知らず姓と名と。化して路傍の土と為つて、年々春草生ひたり」といふことを口づけ給へり。


楽天=白居易
いといみじき数寄人にて、朝夕琵琶を弾きつつ、「罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」となむ願はれける。



かの後一条、隠れましましたりける時、歎き給ふさま、ことはりにも過ぎたり。



御所のありさま、いつしかあらぬことになりて、はてには、火をだにも灯さざりけるを、尋ね給ひければ、「諸司みな、今の御ことをつとむる間に、つかうまつる人なし」と聞こえけるに、いとど世の憂さ思ひ知られて、さるべき人、みな御門の御方へ参りけれど、「忠臣は二君に仕へず」と言ひて、つひに参らず。
御所のありさま、いつしかあらぬことになりて、はてには、火をだにもともさざりけるを、尋ね給ひければ、「諸司しょしみな、今の御ことをつとむる間に、つかうまつる人なし」と聞こえけるに、いとど世の憂さ思ひ知られて、さるべき人、みな御門の御方へ参りけれど、「忠臣は二君に仕へず」と言ひて、つひに参らず。

「参りけれど」は、底本「マイリケルト」。諸本により訂正。
御忌みの中のわざなど、つかうまつりて、やがて家を出で給ふ。



その年ごろの上君達、袖をひかへて、別を悲しみけれど、さらにためらふ心なかりけり。
その年ごろの上君達うへきんだち、袖をひかへて、別を悲しみけれど、さらにためらふ心なかりけり。


横川に登りて、頭をろして、こもり給へりけるとき、上東門院より問はせ給ひたりければ、
横川に登りて、かしらをろして、こもり給へりけるとき、上東門院より問はせ給ひたりければ、

上東門院=藤原彰子
世を捨てて
宿を出でにし
身なれども
なほ恋ひしきは
昔なりけり
よをすてて
やどをいでにし
みなれども
なほこひしきは
むかしなりけり


とぞ聞こえ給ひける。



後には大原に澄みて、二心なく行ひ給ひけるを、時の一の人、貴く聞き給ひて、忍びつつ、彼の室に渡り給ひて、対面し給へることありけり。
後には大原に澄みて、二心なく行ひ給ひけるを、時の一の人、貴く聞き給ひて、忍びつつ、彼のしつに渡り給ひて、対面たいめんし給へることありけり。

時の一の人. 藤原頼通
宵より御物語など聞こえて、暁にそよふけて、この世のこと、一言葉も言ひまぜ給はず。
よひより御物語など聞こえて、暁にそよふけて、この世のこと、一言葉も言ひまぜ給はず。


いとめでたく貴く思されて、導き給ふべきことども、返す返す契り聞こえて、今帰りなんとし給ひける時、「さても、渡り給へる、いとかしこまり侍り。俊賢は不覚のものにて侍るなり」とてなむ、申し給ひける。


俊賢. 源俊賢。ただし、俊賢は顕基の父親なので、誤り。諸本及び、他書には「俊実」とあるも、顕基の子ではない。
その時は、何とも思ひ分き給はず。



帰り給ひて、このことを案じ給ふに、「させるついでもなかりき。よも、わが子のため、悪しきさまのこと言はんとてはの給はじ。『すぐれたることなくとも、見放たず、方人せよ』とこそはあらめ。世を背くといへども、なほ恩愛は捨てがたきものなれば、思ひ余られたるにこそ」と、あはれに思されて、その後、ことにふれつつ引立てとり申し給ひければ、みなしごなれど、早く大納言までぞのぼりにける。



「美濃の大納言」と聞こゆるは、この君なりけり。