書き付けでもありぬべきことなれど、「もし、おはしたらば、さ思ひける」とも見給へかし。



昔の釈迦仏の、世を厭ひて出で給ひけむたび、のたまひし折に申さまほしかりしかど、そのころ、心地のいと悪しう、息苦しうて、ものの言ひにくく侍りしかば、え聞こえずなりにし。
昔の釈迦仏さかぼとけの、世をいとひて出で給ひけむたび、のたまひし折に申さまほしかりしかど、そのころ、心地のいと悪しう、息苦しうて、ものの言ひにくく侍りしかば、え聞こえずなりにし。


人の、いみじけに泣きわび、「かけても見え奉らず」と言ひしかど、年ごろ、少しも心解け、何ごとなくあらせ給ひてありつるに、わが命のあまり久しうありて、待ちわびて、「わが思ふことせむ」とある折まで、待ちつけて、「妨ぐると思はれじ」と、わが身、ただ今日か明日かになりにたり。



必ず見置きて死なむとす。



年ごろは、「絶え入らむ折、二人並び居給ひて、貴きことども、念仏し聞かせ給はむを、聞き入りて、やがてこそは絶えも入らめ」とこそは思ひ侍りつれ。



「この人の御心の、かくおはするにあひたる、昔の契りに末に悪かりける」と、返す返す思ひ念じて、聞こえずなりにしかど。
「この人の御心の、かくおはするにあひたる、昔の契りに末にわろかりける」と、返す返す思ひ念じて、聞こえずなりにしかど。


釈迦仏、摩耶夫人と申しける、生み置きて失せ給ひにければ、父浄飯王と申す、一人養ひて、生ひ立て給ひたるとこそは聞き侍れ。
釈迦仏、摩耶夫人と申しける、生み置きて失せ給ひにければ、てて浄飯王と申す、一人養ひて、生ひ立て給ひたるとこそは聞き侍れ。


それは、「国を譲り世を伝へ給へ」と思す心ざしこそは侍りけめ。



高きも賤しきも、母の子を思ふ心ざしは、父には異なるものななり。



腹の内にて、身の苦しう、起き臥しもやすうせねど、「わが身よくあらむ」と思えず。



これを、「見る目より始めて、人より良くてあれかし」と思ひ念じて、生まるる折の苦しさも、ものやは思ゆる。



生まれ出でたるを見るより、人のこれをあはれび思はずは、ものになるべき人のさまやはしたる。



その中にも、はかなかりけるにか、この阿闍梨の、いみじうかなしかりしかば、わが心の苦しきも知らず、これをまづ人にも、われもあつかふほどに、人に抱かすれば泣き、われ抱けは泣きやみ給ふを、「しばしも泣かせじ」と思えつつ心みれど、なほ、他にては泣く、わがもとにては泣かず。
その中にも、はかなかりけるにか、この阿闍梨あざりの、いみじうかなしかりしかば、わが心の苦しきも知らず、これをまづ人にも、われもあつかふほどに、人にいだかすれば泣き、われ抱けは泣きやみ給ふを、「しばしも泣かせじ」と思えつつ心みれど、なほ、ほかにては泣く、わがもとにては泣かず。


御座などに臥すれは泣くに、夜もうし
ろめたくて、膝に臥せて、高坏を灯台にして、膝の前に灯して、障子に背中を当てて、百日までぞ。
御座おましなどに臥すれは泣くに、もうし
ろめたくて、膝に臥せて、高坏たかつき灯台とうだいにして、膝の前に灯して、障子さうじに背中を当てて、百日までぞ。


乳母には預け侍りし。



起き返りのほどに。



その心ざし、今まで怠らず。



ほかに居給ひしのち、人の来れば、「何ごとをか言はむずらむ」とのみおぼつかなく、御文見ぬほどは、「いかが」と思え侍りつるに、この三四年は、近くては夜も夜中もおぼつかなからず聞きかはして、嬉しう侍りつるに、かかる御心の深くつきて、今まで侍る命の侍るうとましさに、われながらうとましく、人にも見ゆる、いと恥しう侍りて。
ほかに居給ひしのち、人の来れば、「何ごとをか言はむずらむ」とのみおぼつかなく、御文見ぬほどは、「いかが」と思え侍りつるに、この三四年は、近くてはよるも夜中もおぼつかなからず聞きかはして、嬉しう侍りつるに、かかる御心の深くつきて、今まで侍る命の侍るうとましさに、われながらうとましく、人にも見ゆる、いと恥しう侍りて。


それに、昔、太子、花園に遊び出で給ふには、「四面の門に、生まるる者を見し」とて帰りて、今一つの門におはするに、老いてゆゆしげなる者を見る。
それに、昔、太子、花園に遊び出で給ふには、「四面のかどに、生まるる者を見し」とて帰りて、今一つの門におはするに、老いてゆゆしげなる者を見る。


また帰りて、次のに病する者を見て帰り、次のに死ぬる見て帰り給てのちに、夜出でておはしけれ。
また帰りて、次のにやまひする者を見て帰り、次のに死ぬる見て帰り給てのちに、夜出でておはしけれ。


身には二つの憂へあるをば見給ひけむを、年老いたり、病づきたるさま、それ見ては、「日をも延べ給ふべくや」と思ふ。



心憂く侍れど、つらしなと恨むる、かの人の御ため悪しと聞き侍るは、ただ身の苦しきに、「『とく死なましかば』と思ふより、ほかのこと思はじ」と思ひ侍るに、釈迦仏の喩ひには、これはまさりて侍ること、「かれは位を譲りて、めでたくておはしまさせむ」と親の思ほす違ひたれ、みづから朝夕ゆかしう命をかけ聞こえ、何ごとか侍るをうち捨てておはするを、いふかたなくぞ。



身の命長さを罪なれば、人の御咎とも思え侍らず。



わが身だに
この世になくば
唐土の
別れなりとも
歎かましやは
わがみだに
このよになくば
もろこしの
わかれなりとも
なげかましやは


別れ路に
この世の憂きは
見えぬるを
今は仏の
路ぞゆかしき
わかれぢに
このよのうきは
みえぬるを
いまはほとけの
みちぞゆかしき


日にそへて
仏の路を
たづねつつ
暮れゆくをこそ
しひかにはすれ
ひにそへて
ほとけのみちを
たづねつつ
くれゆくをこそ
しひかにはすれ


から国の
別れを歎く
かたにても
心づくしの
ありけるぞ憂き
からくにの
わかれをなげく
かたにても
こころづくしの
ありけるぞうき


唐土へ
行く人よりも
とどまりて
からき思ひは
われぞまされる
もろこしへ
ゆくひとよりも
とどまりて
からきおもひは
われぞまされる


かき積みて
やくと見れども
藻塩草
思ひわびつつ
消え返るかな
かきつみて
やくとみれども
もしほぐさ
おもひわびつつ
きえかへるかな


かくばかり
憂かりける身を
ささがにの
いかで今まで
長らへつらむ
かくばかり
うかりけるみを
ささがにの
いかでいままで
ながらへつらむ