昔、陵園といふ宮の内に閉ぢ込められたる人ありけり。



玉の肌、花の形あざやかにて、世に並びなく美しかりけり。
玉のはだへ、花の形あざやかにて、世に並びなく美しかりけり。


年若かりけるとき、女御にいつきかしづかれて、内裏に参りけるに、親しき疎き、「楊貴妃・李夫人の例にも勝りなん」と思へりけるを、あまたの御方々、めざましきことになむ思しける。
年若かりけるとき、女御にいつきかしづかれて、内裏うちに参りけるに、親しき疎き、「楊貴妃・李夫人のためしにも勝りなん」と思へりけるを、あまたの御方々、めざましきことになむ思しける。

親しき疎き=底本「したきうとき」。諸本により訂正
この御憤りにや、様々の無きことに沈みて、陵園といふ深き山宮に閉ぢ込められて、あくるめもなき物思ひにやつれつつ、眉目形もありしにもあらずなりにけり。
この御憤いきどほりにや、様々の無きことに沈みて、陵園といふ深き山宮に閉ぢ込められて、あくるめもなき物思ひにやつれつつ、眉目形みめかたちもありしにもあらずなりにけり。


父母、生きながら別れぬることを歎き悲しめども、会ひ見ることなかりけり。
父母ちちはは、生きながら別れぬることを歎き悲しめども、会ひ見ることなかりけり。


世の常は深き宮の内に心すごくて、風の音、虫の音につけても、思ひ残すことなし。
世の常は深き宮の内に心すごくて、風のおと、虫のにつけても、思ひ残すことなし。


かくしつつ、やうやう春にもなりゆけば、四方の山辺に霞たなびき、野辺の早蕨朝の雨に萌えて、心地よげなるも、我身のためは羨しく思えて、花の匂ひ薫り渡るにも、独り寝の床の上、心とどめきせられつつ、あはれを添へたる朧月夜のみ差し入れども、問ふに音無き影ばかりほのかにて、明かし暮らすに、春過ぎ夏たけて、暮れにし秋も廻り来にけり。
かくしつつ、やうやう春にもなりゆけば、四方よもの山辺にかすみたなびき、野辺の早蕨さわらびあしたの雨に萌えて、心地よげなるも、我身のためはうらやましく思えて、花の匂ひ薫り渡るにも、独り寝の床の上、心とどめきせられつつ、あはれを添へたる朧月夜のみ差し入れども、問ふに音無き影ばかりほのかにて、明かし暮らすに、春過ぎ夏たけて、暮れにし秋も廻り来にけり。


さまざま咲き乱れたる白菊の夕露に濡れたるを見るにも、昔の重陽の宴といひしこと思ひ出でられて、落つる涙、いとど抑へがたかりけり。
さまざま咲き乱れたる白菊しらぎく夕露ゆふつゆに濡れたるを見るにも、昔の重陽の宴といひしこと思ひ出でられて、落つる涙、いとど抑へがたかりけり。


見るたびも
涙つゆけき
白菊の
花も昔や
恋ひしかるらん
みるたびも
なみだつゆけき
しらきくの
はなもむかしや
こひしかるらん


この人、山宮に閉ぢ込められて後、三代の御門にぞ会ひ奉りける。
この人、山宮に閉ぢ込められてのち、三代の御門にぞ会ひ奉りける。