昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天の下穏しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。
昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、あめ下穏おだしきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。

1
御門も、色にめで香にのみ耽り給へる御心の暇なさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政怠らせ給ひけり。
御門も、色にめでにのみふけり給へる御心のひまなさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからのまつりごと怠らせ給ひけり。


これより先に、元献皇后・武淑妃など聞こえ給ひし后、世に並びなく、御心ざし深くおはしましき。



それはかなくならせ給ひて後は、あまたの中に御心かなひたる人おはせざりき。



これにより、高力士に仰せられて、京の外まで尋ね求めさせ給ふに、楊家の娘を得給ひてけり。
これにより、高力士に仰せられて、みやこの外まで尋ね求めさせ給ふに、楊家の娘を得給ひてけり。


その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅の蓮初めて開けたるにや」と見ゆ。
その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池にくれなゐはちす初めて開けたるにや」と見ゆ。


一度笑むに百の媚なりて、人の心惑ひぬべし。
一度ひとたび笑むにももの媚なりて、人の心惑ひぬべし。


すべてこの世のたぐひにあらず。



ただ天人などの、暫し天下れるとぞ見えける。
ただ天人などの、暫しあま下れるとぞ見えける。


かかりければ、上、内裏の内にたちまちに出で湯を掘らせて、この人に浴せ給ふ。
かかりければ、上、内裏の内にたちまちに出で湯を掘らせて、この人にあむせ給ふ。


湯より出でたる姿、まことに心苦しく、薄物の衣、なほ重げになむ見えける。



色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。
色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄ものがら、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。


上、これを見給ふ度に、嬉しく喜ばしく思さるることたぐひなし。
上、これを見給ふたびに、嬉しく喜ばしく思さるることたぐひなし。


ただ、みめ・形の人に優れ、為態・有様の世に並びなきのみにあらず。
ただ、みめ・形の人に優れ、為態しわざ・有様の世に並びなきのみにあらず。


よろづにつきて暗からず、事に触れて情け深くなむものし給ひける。



また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理と思へり。
また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、ことはりと思へり。


同じ車一つ床にあらねば、行幸し、寝ね給ふことなし。
同じ車一つゆかにあらねば、行幸みゆきし、ね給ふことなし。


三千人の女御・后、我も我もとさぶらひ給へど、御目のつてにだにかけ給はず。



ただこの人をのみぞ、月日にそへて、たぐひなきものに思しける。



驪山の宮に行幸し給ひて、霓裳羽衣の舞ひを奏せさせ給ふ。



舞の袖、風に翻る度に、玉の飾り庭に落ち積りて、「極楽世界の瑠璃の地もかくやあらん」と思えたり。



おほよそ驪山宮の秋の夕べに心をとめぬ人なし。



春は春の遊びに従ひ、夜は夜の短かきことを歎き給ひける。



かくて、夜もすがら、ひめもすに時を分かず、これより他の御いとなみなかりければ、国の政の澄み濁れるを、いかにも知らせ給はざりけり。



すべてこの楊貴妃のはぐくみによりて、世の苦しきことを忘れつつ、誇り驕れる人、その数を知らず。



また天の下の人、高きも卑しきも、「心に違はじ」と思へる気色なべてならず。
またあめの下の人、高きも卑しきも、「心に違はじ」と思へる気色なべてならず。


見る人、聞く人、羨みめづるさま、言ひ尽すべからす。



これによりて、女子を産める者は、喜びかしづきて、かかるたぐひを心にかけけるも、をこがましくこそ。
これによりて、女子をんなごを産める者は、喜びかしづきて、かかるたぐひを心にかけけるも、をこがましくこそ。


また、御門の御弟に寧王と申す人、御かたはらを離れず間近く床を並べて、夜昼を分かぬ御遊びにも、必ずさぶらひ給ひけり。



この親王、瑠璃の玉の笛を帳の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。
この親王、瑠璃の玉の笛をちやうの内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。

笛=底本「ふみ」。諸本により訂正
御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。
御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼をあやまてり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。


これによりて、楊貴妃、痛み思す心や深かりけん。



鬢の髪、一房を切りて、御門に奉り給ふ。
びむの髪、一房ひとふさを切りて、御門に奉り給ふ。


「我が身の肌、頭の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。
「我が身のはだへかしらの髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。

御門=底本「帝」
初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女・彦星の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。
初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女たなばた彦星ひこぼしの絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。


「形は六の道に変るとも、逢ひ見んことは絶ゆる時あらじ」と契り給ひても、



姿こそ
はかなき世々に
変るとも
契りは朽ちぬ
ものとこそ聞け
すがたこそ
はかなきよよに
かはるとも
ちぎりはくちぬ
ものとこそきけ


などのたまひつつ、御手を取りかはして、涙を流し給ひけるを、末の世に聞く人さへ袖の上露けし。



かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。
かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人せうとにて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。

2
その中に楊貴妃の養子、左大臣安禄山と聞こゆる人、勢ひを争ひて、心のうち憤り深けれども、これをあやむる人さらになし。



これによりて、たちまちに兵十五万人集めて、つひに楊国忠を亡ぼすに、世の中乱れて騒ぎののしりあへり。
これによりて、たちまちにつはもの十五万人集めて、つひに楊国忠を亡ぼすに、世の中乱れて騒ぎののしりあへり。


百敷の内までも、その恐れ深ければ、御門、外へ逃げさせ給ふ。
百敷ももしきの内までも、その恐れ深ければ、御門、ほかへ逃げさせ給ふ。


東宮・楊貴妃、御かたはらにさぶらひ給ふ。


東宮=底本「春宮」
楊国忠・高力士・陳玄礼・韋見素、また御供にさぶらふ。



かくて、蜀といふ国へ退き去らせ給ふに、「いかならむ野の末・山の中なりとも、この人だに二人あらば、生けらん限り思ふことあらじ」と思さるるに、人の気色、思はずに変りて、はしたなく見えければ、御門、怪しみ問はせ給ふ。



陳玄といふ人、東宮に申していはく、「はやく楊国忠、政事を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。
陳玄といふ人、東宮に申していはく、「はやく楊国忠、政事まつりごとを乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。

東宮=底本「春宮」
東宮、これを許し給ふにより、楊国忠、目の前にはかなくなりぬ。


東宮=底本「春宮」
御門、あさましくはかなく思されながら、この後行かんとし給ふに、兵ども、立ち廻りつつ、「なほ心よからぬ乱れの根やあらん」と申す気色ありけり。



この時、上、楊貴妃の免るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。
この時、上、楊貴妃のまぬがるまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。


この世に楊貴妃、いかならん巌の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。
この世に楊貴妃、いかならんいはほの中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮のくれなゐよりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。

御門=底本「帝」
撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏ひつつ、ついにはかなくなし奉る。
撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引きまつひつつ、ついにはかなくなし奉る。

太液=底本「大液」
物のあはれを知らぬ草木までも色変り、情けなき鳥・獣さへ涙を流せり。
物のあはれを知らぬ草木までも色変り、情けなき鳥・けだものさへ涙を流せり。


物事に
変らぬ色ぞ
なかりける
緑の空も
四方の梢も
ものことに
かはらぬいろぞ
なかりける
みどりのそらも
よものこずゑも


御ともにさぶらひける人、心あるも心なきも、猛きも猛からぬも、涙におぼれて行き方もしらず。
御ともにさぶらひける人、心あるも心なきも、たけきも猛からぬも、涙におぼれて行き方もしらず。


御門の御心のうちには、


御門=底本「帝」
何せんに
玉のうてなを
磨きけん
野辺こそつゆの
宿りなりけれ
なにせんに
たまのうてなを
みがきけん
のべこそつゆの
やどりなりけれ


ただ御袖の下より、血の涙ぞ流れ出づる。



御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧に疲れて、御門に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。
御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、かてに疲れて、御門に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。

御門=底本「帝」
かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。
かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟はらからにも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木いはきならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。

3
兄弟=底本「はらか」。諸本により補う
この御事を承はる者、皆涙を抑へて申していはく、「命の終らんまでは、ただ身に従ひ奉るべし」。


身に=「君に」か
かくて日も夕暮になるほどに、御かたはら寂しきにつけても、「いかなる中有の旅の空に、一人や闇に迷ふらむ」など、思し乱れたる心苦しさ、あはれに悲しなどいふも愚かなり。



夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。
夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡るかりがねを聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。


蜀山といふ山険しくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。
蜀山といふ山険さがしくて、途絶へがちなる雲の架け橋歩み渡らせ給ふ御気色、よそにだになほ忍び難し。


百官人数衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。
百官もものつかさ人数ひとかず衰へ、勢ひいかめしかりし旗などさへ、雨に濡れ、露にしほれて、その物とも見えず。


御供にさぶらふ人々、何事につけても、物心細く思えて、鳥の声もせぬ深山に、仮の宮いとあやしきさまなり。



月の影より他に光なき心地のみして、あるにもあらず、あさましきほどなれど、所につけたる住居は、様変りて、かからぬ折ならば、をかしくもありぬべし。



これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理なり。
これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことにことはりなり。


かかるほとに東宮は譲りを受けて位につかせ給ひぬ。


東宮=底本「春宮」
荒き心ある者を失ひぬ。



世中を静めて、太上天皇を迎へ取り奉らせ給ふ。


世中=底本「世なる」。諸本により訂正
「間近く内裏を並べて、よろづを申し合せつつ御政あるべし」と聞こえさせ給へど、この御物思ひのあまりにさるべきこととも思されず、世も平ぎ御心も静まりて後は、御歎きも分く方なく一筋になりぬ。



時移り事終り、楽しび尽き悲しみ来る。



池の蓮夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。
池のはちす夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。


絶え入りぬべくぞ思しける。



もろともに
重ねし袖も
朽ちはてて
いづれの野辺の
露結ぶらん
もろともに
かさねしそでも
くちはてて
いづれののべの
つゆむすぶらん


かやうに思ひつつ、涙を抑へて帰らせ給ふ御有様の弱々しさも、言はば愚かになりぬべし。



別れにし
道のほとりに
尋ね来て
かへさは駒に
まかせてぞ行く
わかれにし
みちのほとりに
たづねきて
かへさはこまに
まかせてぞゆく


春の風に花の開きたる朝、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面に咲き乱れ、色々の紅葉、階の上に散り積む。
春の風に花の開きたるあした、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭のおもに咲き乱れ、色々の紅葉、はしの上に散り積む。


昔、楊貴妃の間近く仕へ給ひし女房など、月くまなき夜は、昔を恋ひ涙にむせびつつ、琴を調べ琵琶を弾きけるにも、いとど御袖の上、隙なく見ゆる心苦しさ、よその袂までもせきかぬる心地す。



忘れてもまどろませ給ふ時なければ、夢のうちにも逢ひ見給ふことはあり難し。



夜の蟋蟀、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。
夜の蟋蟀きりぎりす、枕にすだく声にも御涙勝り、夕べの蛍の汀に渡る思ひにも、御胸の苦しさ抑へ難し。


壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。
壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古きふすまむなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。


かくて二年ばかりにもなりぬるに、幻といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。
かくて二年ふたとせばかりにもなりぬるに、まぼろしといふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。

4
嬉しく思さるること限りなくて、御物思ひ、たちまちにおこたりぬ。



幻、空に昇り地に入りて、至らぬ所なく求むるに、そのしるしなし。



雲に乗りつつ、なほ東ざまへ飛び行くに、わたつうみの中にいと高き山あり。



その上に玉の台、黄金の殿ども、軒を並べ、甍を連ねたるよそほひ有様、すべてこの世のたぐひにあらず。
その上に玉のうてな、黄金の殿ども、軒を並べ、いらかを連ねたるよそほひ有様、すべてこの世のたぐひにあらず。


また、そのうちに仙女あまた遊び戯ぶる。



この所に行き向ひて、玉の戸ざしを打ち叩くに、言ひ知らずこの世ならぬ人出でて、幻に会へり。



「楊貴妃の生まれ給へる蓬莱宮これなり」と言ふを聞くに、嬉しさ限りなくて、「唐の玄宗の御使ひなり」と聞こえさす。



「楊貴妃、ただ今寝給へり。朝を待つべし」と言ひて返り入りぬる後、心もとなくて、一人立てり。
「楊貴妃、ただ今寝ゐね給へり。あしたを待つべし」と言ひて返り入りぬる後、心もとなくて、一人立てり。


夕べの嵐音なくて、波の上遥かに入り日さすほど、折からにや、あはれに心細くて、やうやう夜も半ば過ぐるほどに、花のとぼそに白露隙なく置けるを見るにも、



明けやらぬ
花のとぼその
露けさに
あやなく袖の
そぼちぬるかな
あけやらぬ
はなのとぼその
つゆけさに
あやなくそでの
そぼちぬるかな


かかる程に、夜も明け日も出でぬれば、楊貴妃出で給へり。



黄金の簪光鮮かに、玉の飾り目も輝くほどなり。
黄金のかむざし光鮮かに、玉の飾り目も輝くほどなり。


幻にあひ向ひて、しばしは言葉に出だし給はず、まづ落つる涙をぞ所狭きに思さる。



方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。
方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかりたへなる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。


方士、御門の御心のうちを知れりければ、ありのままに聞こえさせつ。



互ひに心のいぶせさをはるけて、方士、帰りなんとするに、楊貴妃、黄金の簪を折りつつ、「我が物とて御門に奉れ」と宣はす。



方士、これを取りて、こと浅くや思ひけん、「黄金の簪は、たぐひなき物にもあらず。そのかみ、さだめて人知れぬ御契りありけんものを、願はくは承りて奏せしめん」と言ふに、楊貴妃、気色変り、涙まさりて、思し乱るることありと見ゆ。



「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨おびたり。
「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女たなばた・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨はるあめおびたり。


光さす
玉のかほばせ
しほたれて
なほそのかみの
心地こそすれ
ひかりさす
たまのかほばせ
しほたれて
なほそのかみの
ここちこそすれ


方士帰り参りて、このよしを奏せしむるに、御心日を経て悩みまさり給ひて、生まれ給はんほどをも心もとなくや思しけん、その年の夏四月に、みづからはかなくならせ給ひにけり。



知らざりし
玉の台を
知り得てぞ
夜半の煙と
君もなりにし
しらざりし
たまのうてなを
しりえてぞ
よはのけぶりと
きみもなりにし


これ一人君のみにあらず。



人、生まれて木石ならねば、皆おのづから情けあり。



いにしへより今に至るまで、高きも卑しきも、かしこきもはかなきも、この道に入らぬ人はなし。



入りとし入りぬれば、迷はずといふことなし。



しかし、ただ心を動かす色にあはざらんには、おほよそこの世は皆夢幻のごとし。



八苦逃るることなければ、厭ひても厭ふべし。



天上の楽しみ限りなけれども、五つの衰へ去ることなければ、願ふべきにも足らず、生まれてもよしなし。



ただ、心一つにして三界を厭ひ、九品を願ふべし。



極楽を願ふとも、この世に執を留めば、纜を解かで舟を出ださんがごとし。
極楽を願ふとも、この世に執を留めば、ともづなを解かで舟を出ださんがごとし。

解かで=底本、「とひて」とあり、「ひ」に「か歟」と傍書。傍書に従う。
極楽を願はずば、轅をそむきて車を走らしめんがごとし。
極楽を願はずば、ながえをそむきて車を走らしめんがごとし。


この世を厭ひ極楽を願はば、苦しみを集めたる海を渡りて、楽を極めたる国に至らんことは、疑ふべからず。



ゆめゆめ、出で難き悪道に返らずして、行きやすき浄土に至るべし。