昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天の下穏しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。
昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天 の下穏 しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。
1
御門も、色にめで香にのみ耽り給へる御心の暇なさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政怠らせ給ひけり。
御門も、色にめで香 にのみ耽 り給へる御心の暇 なさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政 怠らせ給ひけり。
その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅の蓮初めて開けたるにや」と見ゆ。
その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅 の蓮 初めて開けたるにや」と見ゆ。
色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。
色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄 、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。
また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理と思へり。
また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理 と思へり。
この親王、瑠璃の玉の笛を帳の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。
この親王、瑠璃の玉の笛を帳 の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。
笛=底本「ふみ」。諸本により訂正
御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。
御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過 てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。
「我が身の肌、頭の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。
「我が身の肌 、頭 の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。
御門=底本「帝」
初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女・彦星の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。
初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女 ・彦星 の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。
かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。
かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人 にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。
2
かくて、蜀といふ国へ退き去らせ給ふに、「いかならむ野の末・山の中なりとも、この人だに二人あらば、生けらん限り思ふことあらじ」と思さるるに、人の気色、思はずに変りて、はしたなく見えければ、御門、怪しみ問はせ給ふ。
陳玄といふ人、東宮に申していはく、「はやく楊国忠、政事を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。
陳玄といふ人、東宮に申していはく、「はやく楊国忠、政事 を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。
東宮=底本「春宮」
この時、上、楊貴妃の免るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。
この時、上、楊貴妃の免 るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。
この世に楊貴妃、いかならん巌の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。
この世に楊貴妃、いかならん巌 の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅 よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。
御門=底本「帝」
撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏ひつつ、ついにはかなくなし奉る。
撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏 ひつつ、ついにはかなくなし奉る。
太液=底本「大液」
御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧に疲れて、御門に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。
御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧 に疲れて、御門に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。
御門=底本「帝」
かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。
かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟 にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木 ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。
3
兄弟=底本「はらか」。諸本により補う
兄弟=底本「はらか」。諸本により補う
夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。
夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁 を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。
これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理なり。
これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理 なり。
池の蓮夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。
池の蓮 夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。
春の風に花の開きたる朝、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面に咲き乱れ、色々の紅葉、階の上に散り積む。
春の風に花の開きたる朝 、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面 に咲き乱れ、色々の紅葉、階 の上に散り積む。
壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。
壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾 むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。
かくて二年ばかりにもなりぬるに、幻といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。
かくて二年 ばかりにもなりぬるに、幻 といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。
4
方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。
方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙 なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。
方士、これを取りて、こと浅くや思ひけん、「黄金の簪は、たぐひなき物にもあらず。そのかみ、さだめて人知れぬ御契りありけんものを、願はくは承りて奏せしめん」と言ふに、楊貴妃、気色変り、涙まさりて、思し乱るることありと見ゆ。
「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨おびたり。
「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女 ・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨 おびたり。