昔、朱買臣、会稽といふ所に住みけり。



世に貧しくわりなくて、せんかたなかりけれど、文を読み、物を習ふこと怠らず、そのひまには薪をこりて、世を渡るはかりごとをしけり。
世に貧しくわりなくて、せんかたなかりけれど、ふみを読み、物を習ふこと怠らず、そのひまには薪をこりて、世を渡るはかりごとをしけり。


かくて年月を経るに、あひ具したりける女、限りなく貧しき住居を堪へ難くや思ひけん、「我も人もあらぬさまになりて、世を試みん」など、細やかにうち語らひければ、「かくてしもやあり果つべき。今年ばかり心強くあひ念ぜよ」と、よろづこしらへけれど、つひに聞かで、その年のうちに離れにけり。


」と=底本「と」なし
夫、恋ひ悲しめどもいふかひなくて、次の年にもなりぬるに、この人の才覚、世に優れたることを御門聞かせ給ひて、その国の守になされぬ。



初めて国に下りける有様、心言葉も及ばずめでたかりけり。



かかれども、なほありし妻のことを心にかけて、一国のうちを尋ね求めさすれど、似たる人なくて明かし暮らす。
かかれども、なほありし妻のことを心にかけて、一国ひとくにのうちを尋ね求めさすれど、似たる人なくて明かし暮らす。


園に出でて狩りし遊びけるとき、こともなのめならず、あやしく侘しげなる賤の女が、筐といふ物を肘にかけて、菜を摘みてゐざり歩くを、「ゆゆしげなる者の姿かな」と見るほどに、我が昔のともに見なしてけり。
そのに出でて狩りし遊びけるとき、こともなのめならず、あやしく侘しげなる賤の女が、かたみといふ物を肘にかけて、菜を摘みてゐざり歩くを、「ゆゆしげなる者の姿かな」と見るほどに、我が昔のともに見なしてけり。

菜を摘みて=底本「猶つみて」。尊経閣文庫本「なをつみて」。底本に従えば「なほ積みて」となるが、菜摘みに男女の出会いの意味があるため、「菜を摘みて」と解する。
なほ、「僻目にや」と目をとめて見けるに、いかにも違ふ所なかりければ、人知れず悲しく思えて、暮るるや遅きと呼び取りてけり。
なほ、「僻目ひがめにや」と目をとめて見けるに、いかにも違ふ所なかりければ、人知れず悲しく思えて、暮るるや遅きと呼び取りてけり。


女、「我過つこともなきに、いかなることに当りなんずるにか」と、恐れ惑ひけれど、ありし昔のことなどを細やかに語らひければ、女、あさましく思えて、この夫をうち見るより、いかが思ひけん、いたく悩み煩ひて、暁方に絶え入りにけり。



もろともに
錦を着てや
帰らまし
憂きに堪へたる
心なりせば
もろともに
にしきをきてや
かへらまし
うきにたへたる
こころなりせば


心短かきは、何事につけても恨みを残さずといふことなし。


残さず=底本「のみさす」で「み」に「こ歟」と傍書。尊経閣文庫本「のこさす」。傍書及び尊経閣文庫本に従う。
錦を着て故郷に帰るといふ。


故郷=底本「古郷」
この人のことなり。