昔、元和十五年の秋、白楽天、罪なくして江州といふ所に流されぬ。


元和=底本「元倭」
白楽天=白居易
次の年の秋、入江のほとりに、夜、友を送りけり。



松風・波の音、身に染む夕べ、愁への涙いと抑へがたく、小夜も更けゆくほど、空澄み渡る月の光、波に随へるを見ても、「我身一人は沈まざりけり」と思ひ乱れつつ、人もなぎさを物心細くて歩み行くに、波の上遥かに琵琶の調べ様々に聞こえて、掻き合はせなどのありさま、世にたぐひなきほどなり。
松風・波の音、身に染む夕べ、愁への涙いと抑へがたく、小夜さよも更けゆくほど、空澄み渡る月の光、波にしたがへるを見ても、「我身一人は沈まざりけり」と思ひ乱れつつ、人もなぎさを物心細くて歩み行くに、波の上遥かに琵琶の調べ様々に聞こえて、掻き合はせなどのありさま、世にたぐひなきほどなり。

なぎさ=「渚」と「無き」を懸けている
声を聞くに、あやしき心抑へがたし。



「海人・武士より他に、誰かはまた情けあるべき」と思えければ、声をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに、「我はこれ商人の妻なり。昔、齢十三にて琵琶を習ひ得たること、世に優れたりき。御門の御前にて、一度調めしに、百の御引出物を賜ひき。また、色・形にめでて、見る人、聞く人、さながら思ひを懸け、心を尽せりき。しかれども、春過ぎ、秋暮れて、みめかたちありしにもあらず衰へにしかば、世にふる力失せ果てて、せんかたなくなりにしより、商人に契を結びて、この国の民となれり。商人、情けなければ、我を惜しむこといと浅し。われを懇ろにせねば、出でて去ぬる後、立ち帰る思ひ怠りぬ。帰るほど遅ければ、みづから待たずしもあらず。かかるままには、ただ空しき船を守りつつ、秋の月のすさまじきをのみ見る」と言へり。
海人あまびと武士もののふより他に、誰かはまた情けあるべき」と思えければ、声をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに、「我はこれ商人あきびとなり。昔、よはひ十三にて琵琶を習ひ得たること、世に優れたりき。御門みかどの御前にて、一度ひとたび調しらめしに、もも御引出物ひきいでものを賜ひき。また、色・形にめでて、見る人、聞く人、さながら思ひを懸け、心を尽せりき。しかれども、春過ぎ、秋暮れて、みめかたちありしにもあらず衰へにしかば、世にふる力失せ果てて、せんかたなくなりにしより、商人に契を結びて、この国の民となれり。商人、情けなければ、我を惜しむこといと浅し。われをねんごろにせねば、出でて去ぬる後、立ち帰る思ひ怠りぬ。帰るほど遅ければ、みづから待たずしもあらず。かかるままには、ただ空しき船を守りつつ、秋の月のすさまじきをのみ見る」と言へり。


白楽天、「我、琵琶の声を聞きて愁へ深し。また、この語らひを聞くに、取り重ねたる心地す。我も君も愁への心同じからずや。必ずその愁への尽きせぬことを思ひ知るべし。我、去むじ年の秋より、司遁れ、京を離れて、この所に沈めり。また、病の筵に臥して、立ち居ることたやすからず。もとも、心細き海つらの波風より他に立ち交じる人もなき住処に、葦の上葉を渡る嵐、おちこち人の船よばふ音のみ聞こへて、いまた楽の声を聞かず。今宵、君が琵琶の声を聞くに、ほとおと天の楽を聞くがごとし」。
白楽天、「我、琵琶の声を聞きて愁へ深し。また、この語らひを聞くに、取り重ねたる心地す。我も君も愁への心同じからずや。必ずその愁への尽きせぬことを思ひ知るべし。我、むじ年の秋より、つかさ遁れ、みやこを離れて、この所に沈めり。また、やまひむしろに臥して、立ち居ることたやすからず。もとも、心細き海つらの波風より他に立ち交じる人もなき住処すみかに、葦の上葉うはばを渡る嵐、おちこち人の船よばふおとのみ聞こへて、いまたがくの声を聞かず。今宵、君が琵琶の声を聞くに、ほとおと天の楽を聞くがごとし」。


これを聞く人、皆、涙を流せり。



その中にも、白楽天一人、袂朽ちぬと見えけり。
その中にも、白楽天一人、たもと朽ちぬと見えけり。


いにしへに
ありへしことを
尽さずば
袖に涙の
かからましやは
いにしへに
ありへしことを
つかさずば
そでになみだの
かからましやは


この人は、世の中の人の心の皆濁れるを、「憂し」とや思ひけん、一人すまして、常は京に跡をなん留めざりける。
この人は、世の中の人の心の皆濁れるを、「憂し」とや思ひけん、一人すまして、常はみやこに跡をなん留めざりける。