松風・波の音、身に染む夕べ、愁への涙いと抑へがたく、小夜も更けゆくほど、空澄み渡る月の光、波に随へるを見ても、「我身一人は沈まざりけり」と思ひ乱れつつ、人もなぎさを物心細くて歩み行くに、波の上遥かに琵琶の調べ様々に聞こえて、掻き合はせなどのありさま、世にたぐひなきほどなり。
松風・波の音、身に染む夕べ、愁への涙いと抑へがたく、小夜 も更けゆくほど、空澄み渡る月の光、波に随 へるを見ても、「我身一人は沈まざりけり」と思ひ乱れつつ、人もなぎさを物心細くて歩み行くに、波の上遥かに琵琶の調べ様々に聞こえて、掻き合はせなどのありさま、世にたぐひなきほどなり。
なぎさ=「渚」と「無き」を懸けている
「海人・武士より他に、誰かはまた情けあるべき」と思えければ、声をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに、「我はこれ商人の妻なり。昔、齢十三にて琵琶を習ひ得たること、世に優れたりき。御門の御前にて、一度調めしに、百の御引出物を賜ひき。また、色・形にめでて、見る人、聞く人、さながら思ひを懸け、心を尽せりき。しかれども、春過ぎ、秋暮れて、みめかたちありしにもあらず衰へにしかば、世にふる力失せ果てて、せんかたなくなりにしより、商人に契を結びて、この国の民となれり。商人、情けなければ、我を惜しむこといと浅し。われを懇ろにせねば、出でて去ぬる後、立ち帰る思ひ怠りぬ。帰るほど遅ければ、みづから待たずしもあらず。かかるままには、ただ空しき船を守りつつ、秋の月のすさまじきをのみ見る」と言へり。
「海人 ・武士 より他に、誰かはまた情けあるべき」と思えければ、声をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに、「我はこれ商人 の妻 なり。昔、齢 十三にて琵琶を習ひ得たること、世に優れたりき。御門 の御前にて、一度 調 めしに、百 の御引出物 を賜ひき。また、色・形にめでて、見る人、聞く人、さながら思ひを懸け、心を尽せりき。しかれども、春過ぎ、秋暮れて、みめかたちありしにもあらず衰へにしかば、世にふる力失せ果てて、せんかたなくなりにしより、商人に契を結びて、この国の民となれり。商人、情けなければ、我を惜しむこといと浅し。われを懇 ろにせねば、出でて去ぬる後、立ち帰る思ひ怠りぬ。帰るほど遅ければ、みづから待たずしもあらず。かかるままには、ただ空しき船を守りつつ、秋の月のすさまじきをのみ見る」と言へり。
白楽天、「我、琵琶の声を聞きて愁へ深し。また、この語らひを聞くに、取り重ねたる心地す。我も君も愁への心同じからずや。必ずその愁への尽きせぬことを思ひ知るべし。我、去むじ年の秋より、司遁れ、京を離れて、この所に沈めり。また、病の筵に臥して、立ち居ることたやすからず。もとも、心細き海つらの波風より他に立ち交じる人もなき住処に、葦の上葉を渡る嵐、おちこち人の船よばふ音のみ聞こへて、いまた楽の声を聞かず。今宵、君が琵琶の声を聞くに、ほとおと天の楽を聞くがごとし」。
白楽天、「我、琵琶の声を聞きて愁へ深し。また、この語らひを聞くに、取り重ねたる心地す。我も君も愁への心同じからずや。必ずその愁への尽きせぬことを思ひ知るべし。我、去 むじ年の秋より、司 遁れ、京 を離れて、この所に沈めり。また、病 の筵 に臥して、立ち居ることたやすからず。もとも、心細き海つらの波風より他に立ち交じる人もなき住処 に、葦の上葉 を渡る嵐、おちこち人の船よばふ音 のみ聞こへて、いまた楽 の声を聞かず。今宵、君が琵琶の声を聞くに、ほとおと天の楽を聞くがごとし」。
白楽天=白居易