昔、平原君と聞こゆる人、三千人のつかはれ人を集めて、これをあはれみ、ねんころに思ひけるに、この主の思ひ妻、高き楼の上に居て四方を見渡しけるに、足萎えたる者の、這ふ這ふゐざりつつ水を汲みに行きけり。
昔、平原君と聞こゆる人、三千人のつかはれ人を集めて、これをあはれみ、ねんころに思ひけるに、このあるじの思ひ妻、高き楼の上に居て四方よもを見渡しけるに、足萎えたる者の、這ふ這ふゐざりつつ水を汲みに行きけり。

平原君=底本「平元君」。諸本も同じだが、出典により訂正。
これを=底本「たれを」。諸本により訂正
左右の膝よりも、頭なほ引き入りて、人の姿に似ず。
左右の膝よりも、かしらなほ引き入りて、人の姿に似ず。


世にをかしげなりければ、この女、思ひわくこともなくて、うち笑ひてけり。



声を聞きて、「我かかる病に煩ひて、年久しくなりぬ。今初めて人の笑ひ嘲るべきにあらず。これひとへに、君の色を好みて、つかはれ人を軽しめ給ふゆへなり。もし我を捨てぬ御心ならば、笑ひつる人を失なひ給ふべし」と強ひて主に愁ふるに、「おのれが愁へをやすむべし」とは言ひながら、さすがにあるべくもなきことなれば、その後月日を経るに、三千人のつかはれ人、やうやう数少なくなりゆくを、「我、いささかも過つことなし。しかれども、恨みをいだきて遁れ去るも心知り難し」と、おのおのに言ひ下せり。



この中に、殊に詳らかなる者、申していはく、「君、この片輪人をすかし給へり。これ我らが身の上にあらずや。もし、かくのごときならば、なにを頼もしと思ひてか、身を捨て心を励まして、君に仕へ奉るべき」と言へり。
この中に、ことつまびらかなる者、申していはく、「君、この片輪人をすかし給へり。これ我らが身の上にあらずや。もし、かくのごときならば、なにを頼もしと思ひてか、身を捨て心を励まして、君に仕へ奉るべき」と言へり。


主、これを聞きて、浅からぬ年ごろのむつまじさをもかへりみず、この女をたちまちに殺してけり。



片輪人これを見て心ゆきぬ。
片輪人かたはびとこれを見て心ゆきぬ。


また、その外のつかはれ人ども、元のごとく帰りにけり。



思ひきや
ただうち笑みし
言の葉の
死出の山路に
散らんものとは
おもひきや
ただうちえみし
ことのはの
しでのやまぢに
ちらんものとは


足萎えたるつかはれ人一人に、顔美しき人を代へけるも、いと情けなきしわざなりや。


代へ=底本「かつ」で「つ」に「へ歟」と傍書。諸本及び傍書により訂正
おほかたこれならず、唐国の習ひにて、賤しき武士なれど、言ひ立ちぬることを、御門もその心ざしをば、やぶらせ給はぬにや。
おほかたこれならず、唐国からくにの習ひにて、あやしき武士もののふなれど、言ひ立ちぬることを、御門もその心ざしをば、やぶらせ給はぬにや。