昔、後漢の代に荀爽といふ人ありけり。
昔、後漢のに荀爽といふ人ありけり。


心かしこく、顔美しき娘をぞ持ちたりける。



みめ心のたぐひなきのみにあらず、ざえ才覚並びなくて、せぬ様々なかりけり。



これによりて、父母もいつきかしづくこと限りなし。
これによりて、父母ちちははもいつきかしづくこと限りなし。


かかりければ、高き卑しき、さながら心をかけてねんごろに挑み言はせける中に、隠瑜と聞こゆる人、心に足れることやありけん、この娘にあはせてけり。



夫、心ざし深くて、またなきものに思ひけるも、まことにことはり深く見えけり。



三年ばかりになりぬれば、月日の過ぐるままには、いとどたぐひなくのみ思えて、さまざまに浅からず契りおきけることども、あまたたびになりぬ。
三年みとせばかりになりぬれば、月日の過ぐるままには、いとどたぐひなくのみ思えて、さまざまに浅からず契りおきけることども、あまたたびになりぬ。


かかるほどに、この男、病にわづらひて後、いくほどなくて、つゐにはかなくなりぬ。



女の気色、あるにもあらぬ心地して、悲しさのあまりにや、命も絶えぬとぞ見えける。



よそにみる人さへ、いとはしたなきほどに思えけり。



月日はあらたまれども、別れの涙は乾く時なかりけり。



父母、「いかにして忘るる草の種を取りてしがな」と思へど、さらにかなふべくも見えず。



この時に同じ里に住みける郭奕といふ人、世に取りて卑しからず。



時に用ゐられたり。



この男、思ひの他に年ごろ住み渡りける妻はかなくなりて、歎きやうやうおこたるほどに、この女を、「あはれ、いかでか」と、思ふに堪へぬ気色、色に出でぬ。
この男、思ひの他に年ごろ住み渡りけるはかなくなりて、歎きやうやうおこたるほどに、この女を、「あはれ、いかでか」と、思ふに堪へぬ気色、色に出でぬ。


これによりて、父母、煩ひなく許してけり。



この女、「悲し」と思ひて、様々にあるまじきよしをねんごろに言ひけれど、「親の心に従はぬは、限りなき罪とは知らずや。みづからの心にこそ、ふさはしからずは思ふとも、いかでか親の本意をば違ふべき」など、なほ言ひけるに、昔の男よりも生まれける父のことは愚かに思ゆ理に負けて、なまじひに出で立ちつつ、今の男のもとへ行く行くも、袖のしづく乾く間もなかりけり。
この女、「悲し」と思ひて、様々にあるまじきよしをねんごろに言ひけれど、「親の心に従はぬは、限りなき罪とは知らずや。みづからの心にこそ、ふさはしからずは思ふとも、いかでか親の本意をば違ふべき」など、なほ言ひけるに、昔の男よりも生まれける父のことは愚かに思ゆことはりに負けて、なまじひに出で立ちつつ、今の男のもとへ行く行くも、袖のしづく乾く間もなかりけり。


かかりけれど、男の家近くなりければ、色形をあらためて、喜びたる気色になりぬ。



車より降りつつ、なづらかに歩み入りぬ。



帳の前に火白くかきたててうち居たる、事柄・気色を見るに嬉しく思ゆること限りなし。



また、物なと見たる言葉につけても、恥かしくつつましくのみ思えて、たちまちに間近かく寄るべき心地もせず。



臆せられて、やや久しくなるほどに、鐘も打ち、鳥さへ鳴きぬれば、この女、何となくすべきことあり顔にもてなして、身親しき女房、一人二人を具して、端の妻戸の内に入りぬ。



かくて後、いたくうち泣きて、女房に語りていはく、「我、昔の契を思ふに、時の間も堪へ忍ぶべき心地せず。さりながら、父に背ける罪を恐りて、なまじひにここまては来たれど、生きながら二人の人に契を結ぶべき理なければ、いまは限りの我が身とは知らずや」とて、
かくて後、いたくうち泣きて、女房に語りていはく、「我、昔の契を思ふに、時の間も堪へ忍ぶべき心地せず。さりながら、父にそむける罪を恐りて、なまじひにここまては来たれど、生きながら二人の人に契を結ぶべきことはりなければ、いまは限りの我が身とは知らずや」とて、


親にこそ
背かぬ道に
入りぬとも
古き契を
いかが忘れん
おやにこそ
そむかぬみちに
いりぬとも
ふるきちぎりを
いかがわすれん


「『生きては、一つ床の交はり絶ゆることなく、死なば、また同じ塚の塵にもなりなん』と誓ひしことは、中有の旅の空までも覚えん。我もまた忘れめや」と言ひはつれば、らうたきまなじりより紅の涙流れ出づる気色、まことに匂ひ異なる八重紅梅の春の朝の雨にしほれて、よそほひ久しきにかよひたり。
「『生きては、一つ床の交はり絶ゆることなく、死なば、また同じ塚の塵にもなりなん』と誓ひしことは、中有の旅の空までも覚えん。我もまた忘れめや」と言ひはつれば、らうたきまなじりよりくれなゐの涙流れ出づる気色、まことに匂ひ異なる八重紅梅やへこうばいの春のあしたの雨にしほれて、よそほひ久しきにかよひたり。


かくて、しばしばかりあるに、身の有様をや思ひさだめけん、指より血を出だして、妻戸の上に書きていはく、「我がかばねをば、隠瑜が墓のかたはらに置け」と書き付くるに、人の気色のしければ、騒ぎて、はての文字二三をば書きさしつ。



みづからの帯を解きて、首を引き纏ひて、みづからはかなくなりぬ。



紅の
涙にまがふ
みづぐきの
末をだにこそ
書きもながさね
くれなゐの
なみだにまがふ
みづぐきの
すゑをだにこそ
かきもながさね


しばしあれば、絶え入りぬ。



女房かかへて泣き居れども、いふかひなくて、明けぬれば、男入り来て見るに、いかが思えけん、しばしばかり死に入りて、起きもあがらず。
女房かかへて泣きれども、いふかひなくて、明けぬれば、男入り来て見るに、いかが思えけん、しばしばかり死に入りて、起きもあがらず。


時の人、泣き悲しみけり。



この女は、穎川の荀爽が娘、南陽の隠瑜か妻なり。
この女は、穎川の荀爽が娘、南陽の隠瑜かなり。


今の夫は、太子師郭奕といふ人なり。