昔、京に人の娘ありけり。
昔、みやこに人の娘ありけり。


荒き風にも当てずして、深き里の内にかしづき養へり。



齢やうやう人となるほどに、父母、世にありつかんことをかせぎいとなむ。
よはひやうやう人となるほどに、父母ちちはは、世にありつかんことをかせぎいとなむ。


この人、これを聞きて、嬉しからず厭はしきさまになん思ひけるを、父母しひて恨み歎きけり。
この人、これを聞きて、嬉しからずいとはしきさまになん思ひけるを、父母しひて恨み歎きけり。


「我、もしこの道に入るべきならば、家を出で衣を染めて、世にもあらじ」など、まめやかに憂きことに言へりければ、親しき縁までも、限りなく恨み歎きけり。
「我、もしこの道に入るべきならば、家を出でころもを染めて、世にもあらじ」など、まめやかに憂きことに言へりければ、親しきゆかりまでも、限りなく恨み歎きけり。


かかれども、心強く思ひ立ちにければ、乳母子なりける者一人を具して、何方となく失せにけり。
かかれども、心強く思ひ立ちにければ、乳母子めのとごなりける者一人を具して、何方いづかたとなく失せにけり。


この乳母子も、いとをかしげにて、さても世にありぬべき身のほどをもかへりみず、同じ心にて鳥の声もせぬ深き山に居て、おのおの草の庵を引き結びつつ、住み渡りけるに、この女の父母、二つなき心ざしばかりをしるべにて、山・林を分けつつ尋ね来にけり。
この乳母子も、いとをかしげにて、さても世にありぬべき身のほどをもかへりみず、同じ心にて鳥の声もせぬ深き山に居て、おのおの草のいほりを引き結びつつ、住み渡りけるに、この女の父母、二つなき心ざしばかりをしるべにて、山・林を分けつつ尋ね来にけり。


うち見るままに血の涙を流せども、もろともに立ち帰るべき気色、さらになし。



誰も子を思ふ道は惑はぬ人なければ、さるべき物など営みやりけるを、「うるさし」とや思ひけん、「また住処を改めて、他へ逃げ失せん」など言ひければ、ただ二人の心に任せて、その後音もせざりけり。
誰も子を思ふ道は惑はぬ人なければ、さるべき物など営みやりけるを、「うるさし」とや思ひけん、「また住処すみかを改めて、他へ逃げ失せん」など言ひければ、ただ二人の心に任せて、その後音もせざりけり。


かくて、深き山の中に心を澄まして明かし暮すに、まだらなる犬の美しげなる、いづこよりとも見えで、この乳母子の家の前に居たりけるを、物など食はせて、撫で興じけるに従ひて、この犬、ことのほかに懐きにけり。


撫で=底本「なく」。諸本により訂正。
つれづれなるままに、懐になどうち臥せて、愛しもてあそびつつ明かし暮しけるに、いとむつかしく心乱れて、あらぬすぢにのみ物の思えければ、この犬にうちとけにけり。
つれづれなるままに、ふところになどうち臥せて、愛しもてあそびつつ明かし暮しけるに、いとむつかしく心乱れて、あらぬすぢにのみ物の思えければ、この犬にうちとけにけり。


さるべき先の世の契や深かりけん、犬の思はしさ限りなく思えけるを、我ながらあさましう心憂くぞ思ひ知られける。



かくて主の居どころに行きて、来し方行く末のことなむ、うち語らひて居たりけるに、夏の衣曇りなく透きたるより、乳母子の肩に犬の足跡あまた付きたりけるを、この人見つけてけり。
かくてしうの居どころに行きて、来し方行く末のことなむ、うち語らひて居たりけるに、夏のころも曇りなく透きたるより、乳母子の肩に犬の足跡あまた付きたりけるを、この人見つけてけり。


「それはいかなることぞ」と尋ね問ひければ、ありのままに言はんも心憂く思えて、何かと言ひまぎらはすを、しひて責め問ひければ、あらがふべきかたなくて、「我が居所をさりげなくて時々見給へ」と教ふるを、「あやし」と思ひて、その後常にうかがひ見るに、うち堪へで、この犬と二人寝たり。
「それはいかなることぞ」と尋ね問ひければ、ありのままに言はんも心憂く思えて、何かと言ひまぎらはすを、しひてせため問ひければ、あらがふべきかたなくて、「我が居所をさりげなくて時々見給へ」と教ふるを、「あやし」と思ひて、その後常にうかがひ見るに、うち堪へで、この犬と二人寝たり。


この人、これを見るに、すべて絶ゆべくも思えず侍るを、まづも心もとなく、侘しかりければ、たちまちにその犬を呼び取りて、合ひにけり。



思はしく悲しくぞ思えける。



あさましや
など獣に
うち解くる
さこそ昔の
契なりとも
あさましや
などけだものに
うちとくる
さこそむかしの
ちぎりなりとも


人の身にして、犬に契を結びける、たぐひなきほどのことなれば、ものの心を知れらん人は、これをも恨むべからず。



「いかばかりかは。この道に入らじ」と思ひとりしかど、契の深きに会ひぬれば、かしこきもはかなきも、さながら逃れ難きことにや。



この犬の名をば、雪々とぞいひける。