昔、眄々といふ人、張尚書に契を結びて、幾年経れども、露塵誰も心に違ふことなかりけり。
昔、眄々といふ人、張尚書にちぎりを結びて、幾年いくとせ経れども、露塵つゆちり誰も心に違ふことなかりけり。


花の春の朝、月の秋の夜も、もろともに舞を見、歌を聞きて、遊び戯ぶるるよりほかのいとなみなし。
花の春のあした、月の秋の夜も、もろともに舞を見、歌を聞きて、遊び戯ぶるるよりほかのいとなみなし。


かかれども、若き老ひたる定めなき世のうらめしさは、思ひのほかに、この夫はかなくなりにけり。



この女、立ち後れたることを「悲し」と思ひて、別れの涙乾くことなし。



みめ・形・心ばせなども、いとめづらかなるほどに、世に聞こへたりければ、御門より始めて、色を好む人々、懇ろに挑み言ひけるを、かぎりなく「憂し」と思ひけり。
みめ・形・心ばせなども、いとめづらかなるほどに、世に聞こへたりければ、御門より始めて、色を好む人々、懇ろにいどみ言ひけるを、かぎりなく「憂し」と思ひけり。


秋の夜、くまなき月を見ても、まづ昔の影のみ思ひ出でられて、



もろともに
見しに光や
まさりけむ
今はさびしき
秋の夜の月
もろともに
みしにひかりや
まさりけむ
いまはさびしき
あきのよのつき

* ひかり=底本「ひとり」。諸本により訂正
「命は限りありといひながら、かくても生ける身のつれなさよ」などぞ、思ひ乱れける。



かくしつつ月日を過ぎゆけば、燕子楼の内荒れはてて、床の上、傍らさびしく思えけるままには、手づから身づから裁ち着せたりける唐衣を、取り重ねつつ身に触るれど、ありしばかりの匂ひだになかりければ、いとど涙を添ふるつまとなりにけり。
かくしつつ月日を過ぎゆけば、燕子楼のうち荒れはてて、ゆかの上、傍らさびしく思えけるままには、手づから身づからち着せたりける唐衣からころもを、取り重ねつつ身に触るれど、ありしばかりの匂ひだになかりければ、いとど涙を添ふるつまとなりにけり。


見るたびに
うらみぞ深き
唐衣
たちし月日を
へだつと思へば
みるたびに
うらみぞふかき
からころも
たちしつきひを
へだつとおもへば


かくしつつ十二年の春秋を送りて、つひにはかなくなりにけり。