観音経変化地身輔鷹生事


Кондзяку 16-6
Удзисюи 6-5
今は昔、鷹を役にて過ぐる者ありけり。

Давным-давно жил человек, который выращивал соколов.

「鷹の放れたるを取らん」とて、鷹の飛ぶに従ひて行きけるほどに、遥かに往にけり。



「鷹を取らん」とて見れば、遥かなる奥山の谷の片岸に、高き木に鷹の巣食ひたるを見置きて、「いみじきこと見置きたる」と思ひて、「今はよきほどになりぬらん」と思ふほどに、この鷹の子、下しに往にけり。



えもいはぬ奥山の、深き谷、底ひも知らぬに、谷の上に、いみじく高き榎の木の、枝は谷に指しおほをりたるが、上に巣を食ひて子を生みたり。



この子を生みたるが、この巣のめぐりにし歩く。



見るに、えもいはずめでたき鷹にてあれば、「子もよかるらん」と思ひて、よろづも知らず登る。



やうやうかき登りて、いま巣のもとに登らんとするほどに、踏まへたる木の枝折れて、谷に落ち入りぬ。



谷の底に、高き木のありける枝に落ちかかりて、その木の枝をとらへてありければ、生きたる心地もせず。



我にもあらず、すべき方もなし。



見下せば、底ひも知らず。



深き谷なり。



見上ぐれば、遥かに高き木なり。



かき登るべき方もなし。



供にある従者どもは、谷に落ち入りぬれば、「疑ひなく死ぬる」と思ふ。
供にある従者ずさどもは、谷に落ち入りぬれば、「疑ひなく死ぬる」と思ふ。


さるにても、「いかがあると見む」と思ひて、岸のもとに寄りて、わりなく爪立てて、恐しければ、わづかに見入るれど、底ひも知らぬ谷の底に、木の葉繁き下枝にあれば、さらに見ゆべきやうもなし。
さるにても、「いかがあると見む」と思ひて、岸のもとに寄りて、わりなくつま立てて、恐しければ、わづかに見入るれど、底ひも知らぬ谷の底に、木の葉繁き下枝にあれば、さらに見ゆべきやうもなし。


目くるめく心地すれば、しばしもえ見ず。



すべき方なければ、さりとて、あるべきならねば、家に行きて、「かうかう」と言へば、妻子ども泣き惑へどもかひもなし。
すべき方なければ、さりとて、あるべきならねば、家に行きて、「かうかう」と言へば、子ども泣き惑へどもかひもなし。


会はぬまでも、見に行かまほしけれど、



「さらに道もおぼえず。また、おはしたりと、底ひも知らぬ谷底にて、さばかり覗き、よろづは見しかども、見え給はざりき」と言へば、「まことにさぞあらん」と人々も言へば、え行かず。



あの谷には、すべき方もなくて、石の稜の、折敷の広さにてさし出でたる片稜に、尻をかけて、木の枝を取らへて、少しも身じろぐべき方もなし。
あの谷には、すべき方もなくて、石のそばの、折敷の広さにてさし出でたる片稜かたそばに、尻をかけて、木の枝を取らへて、少しも身じろぐべき方もなし。


いささかも動かば、谷に落ち入りぬべし。
いささかもはたらかば、谷に落ち入りぬべし。


いかにもいかにも、すべき方なし。



かくてぞ、鷹飼ふを役にて世を過せど、幼くより観音経を誦み奉り、持ち奉りたりければ、「助け給へ」と思ひ入りて、ひとへに頼み奉りて、この経を夜昼いくらともなく誦み奉る。
かくてぞ、鷹飼ふを役にて世を過せど、幼くより観音経を誦み奉り、たもち奉りたりければ、「助け給へ」と思ひ入りて、ひとへに頼み奉りて、この経を夜昼いくらともなく誦み奉る。


弘誓深如海と申すわたりを誦むほどに、谷の奥の方より、物のそよそよと来る心地のすれば、「何にかあらん」と思ひてやをら見れば、えもいはず大きなる蛇なりけり。
弘誓深如海ぐぜいしんにょかいと申すわたりを誦むほどに、谷の奥の方より、物のそよそよと来る心地のすれば、「何にかあらん」と思ひてやをら見れば、えもいはず大きなるじやなりけり。


長さ二丈ばかりなるが、臥し丈三尺ばかりなる。
長さ二丈ばかりなるが、臥したけ三尺ばかりなる。


顔、肩先へさしにさして来れば、「我はこの蛇に食はれなむずるなめり。悲しきわざかな。観音助け給へとこそ思ひつれ。こはいかにしつることにか」と思ひて、



念じ入りてあるほどに、ただ来に来て、我が膝のもとより過ぐれど、我を飲まむとさらにせず。



ただ谷の上ざまへ登らんとする気色なれば、



「いかがはせん。ただこれに取り付きたらばしも、登りなむかし」と思ひて、腰に差したる刀をやをら抜きて、この蛇の背中に突き立てて、それを捕へて背中にすがれて、蛇の行くままに引かれて行けば、谷より岸の上ざまにこそろと登りぬ。



その折にこの男、離れて退く。



この刀を取らんとすれど、強く立ちにければ、え抜かぬほどに、引きはづして、背中に刀刺しながら、蛇はこそろと渡りて、向かひの谷に渡りぬ。



この男、「うれし」と思ひて、出でて急ぎて行かんとすれど、この二三日にしろぎ、動きもせず、あからさまにうち臥す事もせず、物食ふことはまして知らず過ぐしたれば、かつかつと影のやうにて、やうやう家に行き着きぬれば、妻子ども従者どもなど、見てあさましがり、泣き騒ぐ。



かくて三四日になりにければ、「さのみいひてあるべきことかは」とて、経仏のことなどして、仏師に物取らせんなどするほどになりにけり。


この段落は鷹飼いの男が帰ってくる前の家の様子を描いている。
かうかうとことのさまを語りて「観音の御徳に、かく生きたるとぞ思ふ」とてあさましかりつることも泣く泣く語りて、物など食ひて、その夜は休みて、つとめて、とく起きて、手洗ひて、誦み奉りし経のおはするを、「誦み奉らん」とて引き開けたれば、あの谷にて蛇の背中に我突き立てし刀、この経に「弘誓深如海」といふ所に立ちたり。



見るに、いとあさましなどはおろかなり。



「さは、この経の蛇になりて、我を助けにおはしましたりけり」と思ふに、あはれに貴く、「かなしう、いみじ」とおぼゆること限りなし。



そのわたりの人は、これを聞きつきて、見あさみけり。



今始め申すべきことならねど、観音頼み奉らんに、その験なしといふことは、あるまじきなりけり。
今始め申すべきことならねど、観音頼み奉らんに、そのしるしなしといふことは、あるまじきなりけり。