関寺牛間事

О воле в храме Сэкидэра
今は昔、左衛門の大夫、平の義清が父、越後の守、その国より白き牛を得たり。
今は昔、左衛門の大夫、平の義清のりきよが父、越後の守、その国より白き牛を得たり。
Давным-давно был начальник Левой стражи ворот, ему Тайра Ёсикиё приходился отцом, и вот управитель провинции Этиго оттуда послал ему белого вола.
越後の守=平中方
年ごろ乗りて歩くほどに、清水なる僧に取らせて、また関寺の聖の関寺造るに、空車を持ちて、牛のなかりければ、この牛を聖に取らせつ。
年ごろ乗りてありくほどに、清水なる僧に取らせて、また関寺の聖の関寺造るに、空車むなぐるまを持ちて、牛のなかりければ、この牛を聖に取らせつ。
Несколько лет ездил он на нём, и отдал его монаху из Киёмидзу, а он отдал его монаху для восстановления храма Сэкидзи, так как у того была повозка, а вола не было.

聖、このよしを言ひて、寺の木を引かす。

Монах стал возить брёвна для храма.

木のある限り引き果てて後に、三井寺の前大僧正、夢に関寺に参り給ひけるに、御堂の前に白き牛繋ぎてあり。

После того как вол перетаскал все брёвна, какие только смог, бывшему распорядителю общины храма Миидэра во сне привиделось, как он пришёл в храм Сэкидзи и перед храмом был привязан белый вол.

僧正、「こはなんぞの牛ぞ」と問ひ給へば、

Распорядитель спросил: "Что это за вол?"

牛の言ふやう、「己は迦葉仏なり。しかるを、『この寺の仏を助けむ』とて、牛になりたるなり」と見て、夢覚めぬ。

А вол и отвечает: "Я будда Кашьяпа, увидел просьбу спасти будду этого храма, и стал волом!", — тут распорядитель и проснулся.

「心得ぬ夢かな」とおぼして、僧一人をもちて、関寺に「寺の木引く牛やある」と問ひに遣り給ふ。

"Что за невероятный сон!", — и, отправил одного монашка проверить, есть ли в храме Сэкидзи вол, который таскает брёвна.

使ひの僧、帰りて、「白き大きなる牛、角少し平みたるなむ、聖の傍らに立てて飼ふ。『こは何ぞの牛ぞ』と問へば、『この寺の木引く料にまうけたるなり』といふ」。

Этот монашек, вернулся: "Большой белый вол, и рога чуть-чуть плоские, ходит рядом с монахом. И когда я спросил, что это за вол, он ответил, что он таскает брёвна для восстановления храма."

そのよしを申せば、驚き尊び給ひて、三井寺より多くの僧ども引き具して、関寺へ参り給ふ。

Услышав это и удивившись, собрал распорядитель много монахов с собой, и отправился в храм Сэкидзи.

牛を尋ね給ふに、見えず。

Пришли посмотреть на вола, а его нет.

問ひ給へば「飼ひに山の方へ遣はしつ。取りに遣はさむ」と言ひて、童を遣りつ。

Когда спросили, где он: "Увели к горам пастись, сейчас попрошу привести", — и отправил мальчика за волом.

牛、童に違ひて、御堂の後ろの方に来たり。
牛、童にちがひて、御堂の後ろの方に来たり。
Вол, разминувшись с мальчиком, пришёл к задней стороне храма.

「取りて率てこ」とのたまへば、取られず。

На просьбу: "Приведи его!", не давался.

僧正のかたじけながりて、「な取りそ。離れて歩かむを拝むべし」とて、拝み給ふと、僧どもも拝む。

Распорядитель в благоговении: "Не надо вести, мы просто походим за ним на расстоянии и помолимся!", и стал молиться, и монахи, пришедшие с ним, тоже стали молиться.

その時に、牛、御堂を三巡り巡りて、仏の方に向ひて寄り臥しぬ。
その時に、牛、御堂を三巡みめぐり巡りて、仏の方に向ひて寄り臥しぬ。
И в это время вол три раза обошёл вокруг храма и, обратившись мордой к будде, приблизился и лёг.

「稀有の事なり」と言ひて、聖はじめて、泣くこと限りなし。

— Чудо-то какое! — местный монах впервые безудержно расплакался.

それより後、世に広ごりて、京中の人、こぞりて詣でずといふことなし。

После того слава о быке разлетелась по миру, и даже из столицы все хотели к нему сходить.

入道殿より始め奉りて、殿ばら、上達部、参らぬなきに、小野宮右の大臣のみぞ参り給はざりける。

Не было ни одного человека из высшего света, начиная с Вступившего на Путь [Фудзивара Митинага], который бы не пришёл сюда. Разве что правый министр, Оно-но мия [Фудзивара Санэсукэ], не пришёл.
入道殿=藤原道長
小野宮右の大臣=藤原実資
閑院のおほき大殿、参り給ひて、下衆のやんごとなく多かりければ、車より降りて歩まむ。


閑院のおほき大殿=藤原公季
軽々におぼしければ、この寺に車に乗りながら入り給ふを、罪得がましくやおぼしけむ、縄を引き切りて、山ざまへ逃げて往ぬ。
軽々きやうきやうにおぼしければ、この寺に車に乗りながら入り給ふを、罪得がましくやおぼしけむ、縄を引き切りて、山ざまへ逃げて往ぬ。


大殿、下りゐて、「乗りながらありつるを、『無礼なり』とおぼして、この牛は逃げぬるなめり」と、悔い悲しみ給ふこと限りなし。
大殿、下りゐて、「乗りながらありつるを、『無礼むらいなり』とおぼして、この牛は逃げぬるなめり」と、悔い悲しみ給ふこと限りなし。


その時に、かく懺悔し給ふを、「あはれ」とやおぼしけむ、やをら山から下り来て、牛屋の内に寄り臥しぬ。
その時に、かく懺悔さんくゑし給ふを、「あはれ」とやおぼしけむ、やをら山から下り来て、牛屋の内に寄り臥しぬ。


その折に大殿、草を取りて牛に食はせ給ふ。
その折に大殿おとど、草を取りて牛に食はせ給ふ。


牛、異草は食はぬ心に、この草をくぐめば、大殿、直衣の袖を顔にふたぎて、泣き給ふ。
牛、異草ことくさは食はぬ心に、この草をくぐめば、大殿、直衣なをしの袖を顔にふたぎて、泣き給ふ。


見る人も貴がりて泣く。



鷹司殿の上、大殿の上も、皆参り給へり。


鷹司殿の上=藤原道長室源倫子
大殿の上=藤原公季室
かくのごとく、四五日がほど、こぞりて参り集ふほどに、聖の夢に、この牛言ふやう、



「今はこの寺の事し果てつ。明後日の夕方帰りなんず」と言ふ。
「今はこの寺の事し果てつ。明後日あさての夕方帰りなんず」と言ふ。


夢覚めて、泣き悲しみて、僧正候ふ房に参りて申すに、



「この寺にも、かかる夢見て語る人ありつ。あはれなることかな」と言ひて、いみじう貴がり給ふ。


貴がり=底本「たうかり」
その時に、よろづの人聞きつきて、いよいよ参ること、道の隙さりあふることなし。



その日になりて、山・三井寺・奈良の僧、参り集まりて、阿弥陀経を誦むこと、山響くばかりなり。



やうやう夕暮れになるほどに、牛つゆなづむことなし。



「かくて、死なでやみなんずるなめり」と言ひ笑ふ、さはふ物どもあり。



やうやう暮れ方になるほどに、臥したる牛、立ち走りて、御堂ざまに参りて三巡り舞ふ。



苦しがりて、臥しては起き、臥しては起きしつつ、汗になりて、たしかに三巡りして、牛屋に帰りて、北枕に臥して四つの足をさし延べて、寝入るがごとくして死ぬ。
苦しがりて、臥しては起き、臥しては起きしつつ、汗になりて、たしかに三巡りして、牛屋に帰りて、北枕に臥してつの足をさし延べて、寝入るがごとくして死ぬ。


その時に参り集まりたる、そこそばくの道俗男女、声も惜しまず泣きあひたり。
その時に参り集まりたる、そこそばくの道俗男女たうぞくなむによ、声も惜しまず泣きあひたり。


阿弥陀経誦むこと、念仏申すこと、限りなし。
阿弥陀経誦むこと、念仏ねぶつ申すこと、限りなし。


その後七日七日の経仏、四十九日、またの年の果てに至るまで、よろづの人、とりどりに行ふ。
その後七日七日なぬかなぬかの経仏、四十九日、またの年の果てに至るまで、よろづの人、とりどりに行ふ。


牛をば、牛屋の上の方に少し上りて、土葬し奉りつ。



その後、卒塔婆を立てて、釘ぬきして、上に堂を造る。



この三井寺の仏は弥勒におはす。



居丈は三尺なり。



昔の仏は堂もこぼれ、仏も朽ち失せて、「昔の関寺の跡」など言ひて、御めしばかりを見て、昔の関寺の跡、知りたる人もあり、知らぬ人もあり。



横川の源信僧都、「もとのやうに造り建てむ。



跡形もなくて、かくおはする、悲しきことなり。



関の出で果てにおはすれば、よろづの国の人、拝まであるべきやうもなし。



仏に向かひ奉りて、少し頭を傾けたる人、かならず仏になる。
仏に向かひ奉りて、少しかうべを傾けたる人、かならず仏になる。


いかにいはむや、左右の掌を合はせて、額に当てて、一善の心を起して拝む人は、当来の弥勒の世にかならず生まるべし。
いかにいはむや、左右のたなごころを合はせて、額に当てて、一善の心を起して拝む人は、当来の弥勒の世にかならず生まるべし。


釈迦仏、かへすがへす説き給ふことなれば、仏の御法を信ぜん人は、疑ふべきにもあらず。要須の寺なり」とおぼして、
釈迦仏、かへすがへす説き給ふことなれば、仏の御法を信ぜん人は、疑ふべきにもあらず。要須えうすの寺なり」とおぼして、


横川にえきうといひて、たううある僧に言ひつけて、知識引かせて、やうやう仏の御形に刻み奉る間、僧都失せ給ひて、このえきう聖、「故僧都の仰せ給ひしことなり」と言ひて、仏師かう上にも懇ろに語らひて造らせ給へる。
横川にえきうといひて、たううある僧に言ひつけて、知識引かせて、やうやう仏の御形に刻み奉る間、僧都失せ給ひて、このえきう聖、「故僧都の仰せ給ひしことなり」と言ひて、仏師かう上にも懇ろに語らひて造らせ給へる。


僧都の仰せられしままに、二階に造りて、上の階から御顔は見え給へば、よろづの人、拝み奉る。
僧都の仰せられしままに、二階かいに造りて、上のこしから御顔は見え給へば、よろづの人、拝み奉る。


やうやう造るに、材木なども、はかばかしくも出で来ず、仏の御箔も、押し果てられ給はぬに、この牛仏拝み奉ると、よろづの物を具しつつ、この御寺に奉る物を取り集めて、堂並びに大門、また、余りたる物をば、僧房を造りて、その後にも、また物の余りたりければ、供養を設けて大会を行ひつ。



それより後、にしきをひきつつ誦経を加ふ。



おほよそ、その寺の仏を拝み奉らぬ人なし。



一度も心をかけて拝む人は、かならず弥勒の世に生るべき業を作りかためつ、となむ。