而る間、無動寺の慶命座主の未だ年若かりける時、阿闍梨にて有けるに、此の尊睿律師、慶命阿闍梨を見て、「和君は殊に止事無き相の限り有る人かな。必ず此の山の仏法の棟梁と成すべき相顕也。然れば、己は年も老ぬれば、世に有ても益有らじ。此の己が僧綱の位、和君に譲申むに、和君は関白殿に親く仕つりて思え御なる人也。此の由を申し給へ」と云ければ、阿闍梨、心に「喜」と思て、其の由を殿に申てけり。
其の後、尊睿、道心を発して、本山を去て、多武の峰に籠居て、偏に後世を思て念仏を唱へて有けるに、多武の峰、本より御廟は止事無けれども、顕密の仏法は無かりけるに、此の尊睿、多武の峰に住して真言の密法を弘め、天台の法文を教へ立て、学生数出来にければ、法花の八講を行はせ、卅講を始め置て、仏法の地と成にけるに、尊睿、「此の所、此く仏法の地とは成しつと云へども、指せる本寺無し。同くは此れを我が本山の末寺と寄せ成てむ」と思ひ得て、尊睿、彼の慶命座主の、関白殿の思へ殊にして親く参けるを以て、殿に御気色を取ければ、殿、此れを聞食して、「尤も吉き事也」と仰せられて、「速やかに寄すべし」と仰下されにければ、多武峰を妙楽寺と云ふ名を付て、比叡の山の末寺に寄成しけり。