今昔、元明天皇の失給へりける時、陵取らむが為に、大織冠の御一男定恵和尚と申ける人を差して、大和国へ遣しけり。



然れば、吉野の郡蔵橋山の峰、多武の峰の岸重れるが後に峰有り。



前へに七の谷、向て有り。



定恵和尚、此れを見給て、「哀れ、微妙かるべき止事無き地かな。但し、天皇の御墓所にては、左右は下れり。□□の人、有らじ。前々も狭きに依て、取らざりける也けり」とて、取らざりぬ。



然て、其の麓に、戌亥の方に広き所有り。



其れを取りつ。



軽寺の南也。



此れ、元明天皇の檜前の陵也。



石の鬼形共を廻□池辺陵の墓様に立て、微妙く造れる石など、外には勝れたり。



然て、峰には、大織冠*・淡海公*も御墓をしたる也。


* 藤原鎌足
* 藤原不比等
其の骨をば、舂篩て蒔てけり。



然れば、馬牛に踏ませじとて、廻には壍を遠くして、敢て人寄せず。



其れに、大織冠・淡海公の御流れ、国の一の大臣として、于今栄え給ふ。



而るに、天皇の御中と吉らぬ事出来らむとては、其の大織冠の墓、必ず鳴り響く也。



然れば、此れを怪しまずと云ふ事無し。



多武峰と云ふ所此れ也となむ語り伝へたるとや。