今昔、聖徳太子、此の朝に生れ給ひて、「仏法を弘めて、此の国の人を利益せむ」と思給ければ、太子の御伯父敏達天皇の御代に申し行て、国の内に仏法を崇めて、堂塔を造り、他国より来れる僧を帰依する間、守屋の大臣*と云ふ者有て、此の事を請けずして、天皇に仏法崇むる事を申止む。
* 物部守屋
而る間、「此の二人の人、天皇を呪ひ奉るぞ」と云ふ事、世に聞えて、蘇我の大臣、太子に申して、共に軍を引将て、守屋が家に行て責るに、守屋、軍を□□□□□□□□□□□*。
* 底本頭注「軍ヲノ下本巻一条発テ城ヲ固メテ禦ギ戦フトアリ」
其の軍、猛くして、御方の軍、惶怖れて三度退き□□□□□□□□□□□□□□*して、軍の後に打立て、軍の政人、秦の川勝に示して宣はく、「汝ぢ、忽に木を取て四天王の像を刻て、髪の上に指し、鉾の崎に捧げて、願を発て」宣はく、「我等を此の軍に勝たしめたらば、当に四天王の像を顕し奉り、寺塔を起む」と。
* 底本頭注「退キノ下同条(本巻一条)返ル其ノ時ニ太子ノ御年十六歳也軍ノ後ニ云々トアリ」