今昔、弘法大師*、真言教、諸の所に弘め置給て、年漸く老に臨給ふ程に、数の弟子に皆所々の寺々を譲り給て後、「我が唐にして擲げし所の三鈷、落たらむ所を尋む*」と思て、弘仁七年と云ふ年の六月に、王城を出て尋ぬるに、大和国宇智の郡に至て、一人の猟人に会ぬ。


其の形、面赤くして長八尺許也。



青き色の小袖を着せり。



骨高く筋太し。



弓箭を以て身に帯せり。



大小の二の黒き犬を具せり。



即ち、此の人、大師を見て過ぎ通るに云く、「何ぞの聖人の行き給ふぞ」と。



大師の宣はく、「我れ、唐にして三鈷を擲て、『禅定の霊穴に落よ』と誓ひき。今、其の所を求め行く也」と。



猟者の云く、「我れは是南山の犬飼也。我れ其の所を知れり。速に教奉るべし」と云て、犬を放て走らしむる間、犬失ぬ。



大師、其より紀伊国の堺、大河の辺に宿しぬ。



此に一人の山人に会ぬ。



大師、此の事を問給ふに、「此より南に平原の沢有り。是其の所也」。



明る朝に、山人、大師に相具して行く間、密に語て云く、「我れ、此の山の王也。速に此の領地を奉るべし」と。



山の中に百町許入ぬ。



山の中は直しく鉢を臥たる如くにして、廻に峰八立て登れり。



檜の云む方無く大なる、竹の様にて生並たり。



其の中に、一の檜の中に、大なる竹胯有り。



此の三鈷、打立てられたり。



是を見るに、喜び悲ぶ事限無し。



「是禅定の霊崛也」と知ぬ。



「此の山人は誰人ぞ」と問へば、「丹生の明神となむ申す。今の天野の宮是也。犬飼をば、高野の明神となむ申す」と云て失ぬ。



大師、返給て、諸の職、皆辞して、御弟子に所々を付く。



東寺をば実恵僧都に付く。



神護寺をば真済僧正に付く。



神言院をば真雅僧正に付く。



高雄を棄て南山に移り入給ぬ。



堂塔房舎を其の員造る。



其の中に、高さ十六丈の大塔を造て、丈六の五仏を安置して、御願として名づけて金剛峰寺とす。



亦、入定の所を造て、承和二年と云ふ年の三月廿一日の寅時に、結跏趺坐して、大日の定印を結て、内にして入定す。



年六十二。



弟子等、遺言に依て弥勒実号を唱ふ。



其の後、久く有て、此の入定の峒を開て、御髪剃り御衣を着せ替奉けるを、其の事絶て久く無かりけるを、般若寺の観賢僧正と云ふ人、権の長者にて有ける時、大師には曾孫弟子にぞ当ける。



彼の山に詣て、入定の峒を開たりければ、霧立て暗夜の如くにて、露見えざりければ、暫く有て霧の閑まるを見れば、早く、御衣の朽たるが、風の入て吹けば、塵に成て吹立てられて見ゆる也けり。



塵閑まりければ、大師は見え給ける。



御髪は一尺許生て在ましければ、僧正自ら水を浴び、浄き衣を着て入てぞ、新き剃刀を以て、御髪を剃奉ける。



水精の御念珠の緒の朽にければ、御前に落散たるを拾ひ集めて、緒を直ぐ揘て、御手に懸奉てけり。



御衣、清浄に調へ儲て、着奉て、出ぬ。



僧正、自ら室を出づとて、今始て別れ奉らむ様に、覚えず無き悲れぬ。



其の後は、恐れ奉て、室を開く人無し。



但し、人の詣づる時は、上ぐる堂の戸、自然ら少し開き、山に鳴る音有り。



或る時には金打つ音有り。



様々に奇き事有る也。



鳥の音そら希なる山中と云へども、露恐しき思ひ無し。



坂の下に丹生・高野の二の明神は、鳥居を並べて在す。



誓の如く山を守る。



「奇異なる所也」とて、于今人参る事絶えず。



女、永く登らず。



「高野の弘法大師と申す是也」となむ、語り伝へたるとや。