今昔、伝教大師*、比叡山を建立して、根本中堂に自ら薬師の像を造り安置し奉れり。
其の後、弘仁三年と云ふ年の七月に、法華三昧堂を造て、一乗を読ましむる事、昼夜に絶えずして、法螺吹かしめて十二時を継ぐ。
亦、弘仁十三年と云ふ年、天皇に奏して、官符を給りて、初めて大乗戒壇を起つ。
「昔し、此の朝に声聞戒を伝へて、東大寺に起たり。而るに、大師、唐に渡て、菩薩戒を受伝へて、返来れり。我が宗の僧は、此の戒を受くべし。南岳・天台の二人の大師、此の菩薩戒を受たり。然れば、此の山に別に戒壇院を起む」と申すに、免さるる事無し。
其の時に、大師、筆を振ひ文を飛して、顕戒論三巻を造り天皇に奉れり。
梵網経に云く、「菩薩戒を受けざる者は、是畜生道に異らず。名づけて外道と為すべし」と。
「若し、僧有て、一の人を教て、菩薩戒を受けしめたる功徳は、八万四千の塔を起たるには増れり」と。
然れば、大師、一人に非ず、二人に非ず、若干の人を、一年に非ず、二年に非ず、若干の年を経て、度せしめ給はむ功徳、幾許ぞや。
亦、大師、年毎の十一月の廿一日に、講堂にして多の僧を請じて、法華経を講じて法会を行ふ事五箇日、此れ唐の天台大師の忌日也。
而る間、弘仁十三年と云ふ年、六月の四日、大師入滅す。
遠き人、是を見て怪むで、「今日、山に必ず故有らむ」と疑ひけり。
其の後も、堂塔を造り、東西南北の谷に房舎を造り、若干の僧を住ましめて、天台の法文を学び、仏法盛にして、霊験殊に勝たり。
彼の宇佐の給へりし小袖の脇の綻びたるに、薬師仏の御削り鱗付て、于今根本の御経蔵に有り*。
亦、大師の自筆に書給へる法華経、筥に入て、禅唐院*に置奉れり。
若し、女に少も触ぬる人は、永く是を礼し奉る事無しとなむ語り伝へたるとや。