今昔、信誓阿闍梨と云ふ人有けり。



安房の守高階の兼博の朝臣の子也。



天台の観命律師の弟子也。



幼稚の時より法花経を受持して、日夜に読誦す。



亦、真言を受け習て、朝暮に修行す。



而る間、堅固に道心発ければ、永く現世の名聞利養を棄て、偏に後世の仏果菩提を願ひけり。



然れば、本山を去て、忽に丹波の国船井の郡□棚波の滝と云ふ所に行て、其に籠り居て、法花経を誦し真言を満て、専に菩提を祈る。



而る間、形貌端正なる童子、阿闍梨の前に出来れり。



此れを何より此れる人と知らずして、怪び思ふ程に、童子、阿闍梨に向て、微妙の音を挙て誦して云く、「我来聴法花。遂果四弘願。当従其口出。栴檀微妙香。」と誦して、暫く阿闍梨の法花経誦するを聞て、即ち見えず。



阿闍梨、奇異く思て、「何こへ行ぬるぞ」と思て求るに、更に無し。



遂に誰と知らざるに依て、「天童の下て、我れを讃むる也けり」と知て、涙を流して貴ぶ事限無し。



而る間、父兼博、国司として安房の国に下向す。



而るに、阿闍梨、父母の懃の言に依て、其の国に下向す。



国に有る間、威勢限無くして、国人頭を低て敬ふ事限無し。



爰に阿闍梨、心の内に思はく、「我れ、年来多の法花経を読誦し、法を修行して、必ず其の功徳無量ならむ。其れに、世に久く有らば、罪業を造て生死に輪廻せむ事、疑ひ有らじ。然れば、如かじ、疾く死て悪業を造らじ」と思て、必ず死ぬべき毒を尋て食はむと為るに、初は附子を食ふに死なず。



次には「和多利と云ふ茸、必ず死ぬる物也」と聞て、山より取り持来て、密に食つ。



其れにも尚死なねば、「此れ希有の事也。我れ、毒薬を食ふと云へども、法花経の力に依て死なぬ也」と思ふに、「刀杖不加。毒不能害」の文、思ひ合せられて、哀れに悲き事限無し。



其の後、夢に人来て、告て云く、「聖人の信力清浄也。吉く法花経を誦すべし」と。



其の人を慥に見れば、普賢菩薩の形也。



夢覚て後、弥よ信を凝て法花経を読誦す。



而る間、天下に疫病発て、阿闍梨、病を受つ。



亦、父母共に病を受て、病み悩む間、阿闍梨の夢に五色の鬼神集会して、□□□□*云く、退て冥途に行く程に、鬼神の云く、「阿闍梨をば免せ。此れは法花の持者也」と云て、免すと見て夢覚ぬ。


* 底本頭注「集会シテノ下一本駈立テ冥途ニ云々ニ作ル」
然れば、阿闍梨の病止て、本の如くに成ぬ。



但し、父母は既に死たり。



阿闍梨、此れを見て、涙を流して泣々く法花経を誦して、父母を蘇生せしむと祈る間、阿闍梨、夢に、法花経の第六巻空より飛び下り給ふ。



其の経に文を副て下れり。



其の文を開て見れば、文に云く、「汝が法花経を誦して、父母を蘇生せしめむと祈るが故に、忽に父母の命を延べて、此の度は返し送る也。此れ、閻魔の御書也」と。



夢覚て、父母を見るに、共に蘇生せり。



阿闍梨、冥途の事を語る。



父母、此れを聞て、喜び貴ぶ事限無し。



此れを見聞く人、皆涙を流して貴びけり。



阿闍梨、一生の間に読む所の法花経一万部。



其の他の勤め、日毎に怠らず。



現世の利益、既に此如し。



後世の菩提、疑ふべからずとなむ、語り伝へたるとや。