巌を以て穴を覆へるに、湯荒く涌て、巌の辺より涌出づるに、大なる巌動ぐ。
而るに、昔より伝へ云ふ様、「日本国の人、罪を造て、多く此の立山の地獄に堕つ」と云へり。
其れに、三井寺に有ける僧、仏道を修行するが故に、所々の霊験所に詣でて、難行苦行するに、彼の越中の立山に詣でて、地獄の原に行て廻り見けるに、山の中に一人の女有り。
僧、女を見て、恐ぢ怖れて、「若し此れ鬼神か。人無き山中に此の女の出来れり」と思て、逃むと為るに、女、僧を呼て云く、「我れ鬼神に非ず。更に恐るべからず。申すべき事の有る也」と。
其の時に、僧、立ち留て聞くに、女の云く、「我れは、此れ近江の国蒲生の郡に有し人也。我が父母、于今其の郡に有り。我が父は木仏師也。只仏の直を以て世を渡りき。我れ、生たりし時、仏の直を以て衣食とせし故に、死て此の小地獄に堕て、堪難き苦を受く。汝ぢ、慈の心を以て、此の事を我が父母に伝へ告げよ。『我が為に、法花経を書写供養し奉て、我が苦を救へ』と。此の事を申さむが為に、我れ出来れる也」と。
僧の云く、「君、地獄に堕て苦を受くと云ふに、此如く心に任せて出来る事、何に」と。
我れ、生たりし時、『観音に仕らむ』と思ひ、亦、『観音経を読み奉らむ』と思ひき。
然か思ひきと云へども、『今々』と思ひし程に、其の事を遂げずして死にき。
然れども、十八日に只一度精進して観音を念じ奉たりし故に、月毎の十八日に観音此の地獄に来給て、一日一夜我れに代て苦を受け給ふ也。
然れば、我れ此く此れる也」と云て後、掻消つ様に失ぬ。
僧、此れを奇異に恐しく思て、立山を出でて、此の事の実否を尋むが為に、彼の近江の国蒲生の郡に行て尋ぬるに、父母有り。
其の後、父の夢に、彼の女子、微妙の衣服を着て掌を合せて、父に申さく、「我れ、威力観音の御助に依て、立山の地獄を出でて、忉利天に生れぬ」とぞ告げける。
僧、此の事を告むが為に、父母の家に行て夢の事を語るに、父、亦我が見る所の夢を語るに、其の夢亦同くして違ふ事無し。