八講畢て後ち、給はりたりける捧物の物共を少し分て、大和国に有る母の許に、「此くなむ、后の宮の御八講に参て給はりたる。始めたる物なれば、先づ見せ奉る也」とて遣たれば、母の返事に云く、「遣せ給へる物共は、喜て給はりぬ。此く止事無き学生に成り給へるは、限無く喜び申す。但し、此様の御八講に参りなどして行き給ふは、法師に成し聞えし本意には非ず。其には、微妙く思さるらめども、嫗の心には違ひにたり。嫗の思ひし事は、女子は数有れども、男子は其一人也。其れを元服をも為しめずして、比叡の山に上ければ、『学問して、身の才吉く有て、多武の峰の聖人*の様に、貴くて、嫗の後世をも救ひ給へ』と思ひし也。其れに、此く名僧にて花やかに行き給ふは、本意に違ふ事也。我れ、年老ひぬ。『生たらむ程に、聖人にして御せむを、心安く見置て死なばや』とこそ思ひしか」と書たり。
* 増賀
僧都、此れを披て、見るにも涙を流して、泣々く即ち亦返事を遣て云く、「源信は更に名僧せむの心無し。只、『尼君の生き給へる時、此の如く止事無き宮原の御八講などに参て聞かせ奉らむ』と思ふ心深くして、怱ぎ申しつるに、此く仰せられたれば、極て哀れに悲くて、喜しく思ひ奉る。然れば、仰せに随て、山籠りを始て、聖人に成む。今は、『値はむ』と仰せられむ時にぞ参るべき。然らざらむ限りは山を出づべからず。但し、母と申せども、極たる善人にこそ御ましけれ」と書て遣りつ。
「告げざらむ限りは、来べからず」と云ひ遣せたりしかども、怪く心細く思て、母の俄に恋く思えければ、「若し、尼君の失せ給ふべき尅の近く成にたるか。亦、我が死すべきにや有らむ」と哀れに思えて、「然はれ、『来べからず』とは宣ひしかども、詣でむ」と思ひて、出立て行くに、大和国に入て、道に、男、文を持て値へり。
僧都、「何へ行く人ぞ」と問へば、男の云く、「然々の尼君の、横川に坐する子の御房の許へ遣す文也」と云へば、「然は我れ也」と云て、文を取て、馬に乗り乍ら、行々く披て見れば、尼君の手には非で、賤の様に書かれたり。
胸塞りて、「何なる事の有にか」と思えて読めば、「日来何とも無く、『風の発たるか』と思つるに、年の高き気にや有らむ、此の二三日弱くて、力無く思ゆる也。『申さざらむ限りは出給ふべからず』とは心強く聞えしかども、限の尅に成ぬれば、『今一度、見進らでや止なむずらむ』と思ふに、限無く恋く思え給へば申す也。疾々く御せ」と書たるを見るに、「怪く、心に此く思えつるは、此く有ければにこそ有けれ。祖子の契は哀なる事とは云乍ら、仏の道に強に勧め入れ給ふ母なれば、此くは思えける也けり」と思ひ次くるに、涙雨の如く落て、弟子なる学生共、二三人許具したりければ、其れ等にも、「此る事の有ければ也けり」と云て、馬を早めて行ければ、日暮にぞ行き着たりける。