今昔、奈良の京の大安寺に弁宗と云ふ僧住けり。



天性弁へ有て、自ら人に知られたるを以て、事として多の檀越有て、普く衆望を得たりけり。



而るに、阿倍の天皇*の御代に、此の弁宗、其の寺の大修陀羅供の銭、卅貫を借仕て、久く返し納る事無し。


* 孝謙天皇
然れば、維那の僧、常に此れを責むと云へども、弁宗、身貧くして、返し納るに力無し。



維那の僧は日を経て弥よ責る事堪へ難し。



此れに依て、弁宗、長谷に参て、十一面観音に向ひ奉て、観音の御手に縄を繋て、此れを引て、白して言く、「我れ、大安寺の大修多羅供の銭、卅貫を借仕て、維那、此れを徴り責むるに、身貧くして、返し納るに便無し。願くは、観音、我に銭の財を施し給へ」と云て、御名を念じ奉て後、維那、責るに、弁宗、答て云く「汝ぢ、暫く待て。我れ、菩薩に申して返納すべし。敢て久しかるべからず」と。



其の時に、船の親王*と云ふ人、彼の山に参て、法事を調へて行ふ間、此の弁宗、観音の御手に縄を繋て引て、「速に我れに銭を施し給へ」と責め申すを、親王聞きて、「此れは何なる事ぞ」と問ふに、弁宗、其の故を答ふ。


* 船親王
親王、此れを聞て、忽に哀びの心を発して、弁宗に銭を給ふ。



弁宗、此れを得て、「此れ観音の給ふ也」と思て、礼拝して返り去ぬ。



即ち、彼の修多羅供の銭を償て返し納つ。



「此れ、偏に弁宗が実の心を至せるに依て、観音の助け給ふ也」と知て、弥よ信を発しけり。



此れを聞く人、観音の霊験を貴びけりとなむ、語り伝へたるとや。