晦日に里に出でて、九月四五日のほどに、尼崎といふ所に行くに、京を夜深く出でて、
晦日に里に出でて、九月四五日のほどに、尼崎といふ所に行くに、みやこを夜深く出でて、


鳥羽殿ちかき程にて、夜やう〳〵明け行く空に、木々の梢も色づきそむる比なれば、艷なるほどにて、なか〳〵面白し。



舟に乘らむとするに、數知らずさりあへぬまで舟多きに、聞き知らぬ樣に、おそろしげなる聲したる者ども、



ひしめくを聞くにつけても、引きかへたるしきも哀にて、北山殿おもひ出でられて、如何にとだにいひ合はする人もなし。



はる〴〵漕ぎ行くに、河霧立ちて、來しかた行先も見えず。



禁野、*といふ所過ぐるに、音にのみ聞きわたるを、と思ひてしばし見るに、
禁野きんや、といふ所過ぐるに、音にのみ聞きわたるを、と思ひてしばし見るに、

* 河内國交野郡にあり
遠ければさだかにはあらねど、芝野の中より鳥の立つを、「雉にやあらむ。」などいへば、
遠ければさだかにはあらねど、芝野の中より鳥の立つを、「きゞすにやあらむ。」などいへば、


いにしへも
ありとばかりは
おとに聞く
交野の雉
今日見つるかな
いにしへも
ありとばかりは
おとにきく
かたののきぢ
けふみつるかな


また橋多く過ぎぬる中に、「これなむ天の*に侍る。」といふを見れば、


* 河内國交野郡にあり
橋やぶれて、その形ばかりぞ僅に殘れる。
橋やぶれて、そのかたばかりぞはづか
ママ
に殘れる。


これやこの
七夕づめの
こひわたる
あまのかはらの
かささぎの橋
これやこの
たなばたづめの
こひわたる
あまのかはらの
かささぎのはし


かくて日の入る程に行き著きぬ。



日は水の下に入るとのみ見えて、河より海になるけぢめ*波あらく立ち、遙かなる沖に漕ぐ舟は、繪に書きたらむやうなり。


* 境
丑寅の方を見やれば、住吉の松むら立ち、絶え〴〵に霞みて見ゆ。



立ちかへる波風も、うらならねどもいたう烈しき心地ぞする。



晝きぶねの*といふ方に出でて見れば、浦の松風波に通ひて、入海心すごく神さびて、いとたふとし。
晝きぶねのといふ方に出でて見れば、浦の松風波に通ひて、入海心すごくかんさびて、いとたふとし。

* 山城國か
濱に蜑どもの貝拾ひ、また沖に釣するもあり。



栲繩**、網などいふ干し置きたるを見れば、ほす暇もありけるをと、
栲繩たくなは、網などいふ干し置きたるを見れば、ほすひまもありけるをと、

* ママ
* に用ふる栲布にて作れる繩
うちはへて
苦しきものと
思ひしに
あまのたく繩
ほすひまもあり
うちはへて
くるしきものと
おもひしに
あまのたくなは
ほすひまもあり


夕日の影おもしろきに、沖より、蜑の釣舟ども多くかへるも哀なり。



暮るれば、遊女が舟ども、歌うたひ、物かずへなどするもをかし。



一方ならず都のみ心とまりしに、海山へだたりぬる心細さを思ふに、面影ばかりかたみとて、



波路はるかに、月をながむるさへ、よそに隈なき影も、我からは、猶くもらぬ夜半もなし。



かくて心もとなくかずへられつる日數も、程なくてのぼるは、



又立ち歸りあかぬ心地して、さすが馴れぬる浦風に、心は靡くからと、我ながらあやにくにて、思ひ知らるゝ。



來し方も、遙になりぬるも心細く、梢をかへり見れども、隔りかすむ雲井ばかりをながめて、



來し方を
かへり見れども
はるばると
霞へだてて
そこはかとなし
こしかたを
かへりみれども
はるばると
かすみへだてて
そこはかとなし


遲く出でて、「明日も日暮れぬべし」といへば、夜もすがら、舟を漕ぐに、二十日の月なれば、更くるまゝに澄み増りておもしろきに、皆人寢ぬれば、一人起き居て見るに、影も流るゝと見ゆる月は、猶こそおくれざりけれ。



よろづを思ひつゞくるに、はては物おそろしき心地して心細し。



むしあけの迫門*に、といひけむ昔物語さへぞ、あはれにおもひ出でらるゝ。
むしあけの迫門せとに、といひけむ昔物語さへぞ、あはれにおもひ出でらるゝ。

* 「むしあけの迫門の曙見る折ぞ都の事も忘られにけり」
人おどろきて、「遙にも來にけるかな、と道も怖しかンなるを、何處にかとまるべき。」などいふ。



橋本といふ所に著きぬ。



あさまし、をかしげなる家ども、川の面に作りつゞけたる所にとまりぬ。
あさまし、をかしげなる家ども、川のつらに作りつゞけたる所にとまりぬ。


かくする住居は如何ならむなど思ふも哀なり。



明けぬといへば、また舟に乘る。



夜もすがら一人ながめし月は、あけ行く霧に光も冴えにけり。



ほのかに消え殘りたる景色に心つくしける秋の空なるは、物悲しき心地するに、あまり夜ぶかく出でて、遭ふ舟もなきに、霧に霞みてほのかに來るを、近くなるまゝに見れば、はかなき木を組みて、乘りて行くものあり。



「なにぞ。」と問へば、「筏と申す物に侍る。」といふ。



あだなる樣も、はかなく哀なり。



朝霧も
晴れて川瀬に
うきながら
過ぎ行くものは
いかだなりけり
あさぎりも
はれてかはせに
うきながら
すぎゆくものは
いかだなりけり


水瀬*といふ所を過ぐるに、
水瀬みなせといふ所を過ぐるに、

* 攝津國島上郡にあり
「これなむむかし*にて、いみじかりしも、今かくなりぬる。哀に侍る。」と古めかしき物語するものあれば、
「これなむむかしにて、いみじかりしも、今かくなりぬる。哀に侍る。」と古めかしき物語するものあれば、

* 後鳥羽帝の離宮なりし所
あさからぬ
むかしのゆゑを
思ふにも
みなせの川に
袖ぞぬれぬる
あさからぬ
むかしのゆゑを
おもふにも
みなせのかはに
そでぞぬれぬる


還りて後、あはれなりしすさびも戀しくも忘れがたく、御所より人々、御文あり。



とり立ててはなけれど、心地なやましくて、日數つもるに、さらでもはかなくもはかなきに、いつか浮世の風に誘はれむなど思ふも、心細く覺ゆる比なンめれば、珍しさも嬉しさも一方ならず。



いつしか御所ざまのさし木もゆかしく、悲しきに枯れゆく花も、同じ別の秋の色に、哀も深き御文は、何時よりありがたかりぬべし、と心一つにはかなく頼まるゝぞ哀なる。



花鳥の
色にも音に
もしのぶやと
ありのすさびも
あらばあらまし
はなとりの
いろにもおとに
もしのぶやと
ありのすさびも
あらばあらまし


さりともと、おなじ心の頼にも待るゝ人の、久しく絶えて、かゝるをなどか、と思ふも恨めしくて、
さりともと、おなじ心のたのみにも待るゝ人の、久しく絶えて、かゝるをなどか、と思ふも恨めしくて、


身のうさも
いのちもかぎる
この秋を
哀れとばかり
人の問へかし
みのうさも
いのちもかぎる
このあきを
あはれとばかり
ひとのとへかし