この大臣は、九条殿の三郎君、東三条の大臣におはします。



御母は、一条摂政に同じ。



冷泉院、円融院の御舅、一条院、三条院の御祖父、東三条の女院、贈皇后宮の御父。



公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、摂政にて五年、太政大臣にて二年、世をしらせ給ふ、栄えて五年ぞおはします。



出家せさせ給ひてしかば、後の御いみななし。



内に参らせ給ふには、さらなり、牛車にて北の陣まで入らせ給へば、それよりうちはなにばかりのほどならねど、紐解きて入らせ給ふこそ。



されど、それはさてもあり、相撲の折、内、春宮のおはしませば、二人の御前に、なにをもおしやりて、汗とりばかりにて候はせ給ひけるこそ、世にたぐひなくやむごとなきことなれ。



末には、北の方もおはしまさざりしかば、男住みにて、東三条殿の西の対を清涼殿づくりに、御しつらひよりはじめて、住ませ給ふなどをぞ、あまりなることに人申すめりし。



なほ、ただ人にならせ給ひぬれば、御果報のおよばせ給はぬにや。



さやうの御身持ちにひさしうはたもたせ給はぬとも、定め申すめりき。



その時は、夢解も巫女も、かしこきものどもの侍りしぞとよ。



堀河の摂政のはやり給ひし時に、この東三条殿は御官どもとどめられさせ給ひて、いと辛くおはしまし時に、人の夢に、かの堀河院より、箭をいと多く東ざまに射るを、いかなることぞと見れば、東三条殿に皆落ちぬと見けり。



よからず思ひ聞えさせ給へる方よりおはせ給へば、あしきことかな、と思ひて、殿にも、申しければ、おそれさせ給ひて、夢解に問はせ給ひければ、いみじうよき御夢なり。



世の中の、この殿にうつりて、あの殿の人の、さながら参るべきが見えたるなり」と申しけるが、当てざらざりしことかは。



また、その頃、いとかしこき巫女侍りき。



賀茂の若宮のつかせ給ふとて、伏してのみものを申ししかば、「うち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍りし。



大入道殿に召して、もの問はせ給ひけるに、いとかしこく申せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思し召しけるに、かなはせ給ふことどもの出でくるままに、後々には、御装束奉り、御冠せさせ給ひて、御膝に枕をせさせてぞ、ものは問はせ給ひける。



それに一事として、後後のこと申しあやまたざりけり。



さやうに近く召し寄するに、いふがひなきほどのものにあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。



この殿、法興院におはしますことをぞ、こころからよからぬ所と,人は、うけ申さざりしかど、いみじう興ぜさせ給ひて、聞きも入れで、わたらせ給ひて、ほどなく失せさせおはしましにき。



「東山などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり」とぞ仰せられける。



御物忌の折は、わたり給はむとて、「おはしましてはいかがある」と、占せさせ給ひて、そのたび、法興院にて病づきて失せ給ひにき。



「御厩の馬に御随身乗せて、粟田口へつかはししが、あらはにはるばると見ゆる」など、をかしきことに仰せられて、月のあかき夜は、下格子もせで、ながめさせ給ひけるに、目にも見えぬものの、はらはらと参りわたしければ、候ふ人々は怖ぢさわげど、殿は、つゆおどろかせ給はで、御枕上なる太刀をひき抜かせ給ひて、「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。



いと便なし。



もとのやうにあげわたせ。



さらずは、あしかりなむ」と仰せられければ、やがて参りわたしなど、おほかた落ち居ぬことども侍りけり。



さて、つひに殿ばらの領にもならで、かく御堂にはなさせ給へるなめり。



この大臣の君達、女君四所、男君五人、おはしましき。



女二所、男三所、五所は、摂津守藤原中正のぬしの女の腹におはします。



三条院の御母の贈皇后宮と、女院、大臣三人ぞかし。



この御母、いかに思しけるにか、いまだ若うおはしける折、二条の大路にいでて、夕占問ひ給ひれば、白髪いみじう白き女のただ一人ゆくが、立ちとまりて、「なにわざし給ふ人ぞ。



もし夕占問ひ給ふか。



何事なりとも、思さむことかなひて、この大路よりも広くながく栄えさせ給ふべきぞ」と、うち申しかけてぞまかりにける。



人にはあらで、さるべきものの示し奉りけるにこそ侍りけめ。



女君は、女院の后の宮にておはしましし折の宣旨にておはしき。



また、対の御方と聞えし御腹の女、大臣いみじうかなしくし聞えさせ給ひて、十一におはせし折、尚侍になし奉らせ給ひて、内住みせさせ奉らせ給ひし。



御かたちいとうつきしうて、御ぐしも十一二のほどに、糸をよりかけたるやうにて、いとめでたくおはしませば、ことわりとて、三条院の東宮にて御元服せさせ給ふ夜の御添臥しに参らせ給ひて、三条院もにくからぬものに思し召したりき。



夏いと暑き日わたらせ給へるに、御前なる氷をとらせ給ひて、「これしばし持ち給ひたれ。



まろを思ひ給はば、『今は』といはざらむ限りは、置く給ふな」とて、持たせ聞えさせ給ひて御覧じければ、まことに、かたの黒むまでこそ持ち給ひたりけれ。



「さりとも、しばしぞあらむと思ししに、あはれさすぎて、うとましくこそおぼえしか」とぞ、院は仰ぎせられける。



あやしき事は、源宰相頼定の君の通ひ給ふと、世に聞えて、里に出で給ひにきかし。



ただならずおはすとさへ、三条院聞かせ給ひて、この入道殿に、「さる事のあなるは、まことにやあらむ」と仰せられければ、「まかりて見て参り侍らむ」とて、おはしましたりければ、例ならずあやしく思して、几帳ひき寄せさせ給ひけるを、押しやらせ給へれば、もとはなやかなるかたちに、いみじう化粧じ給へれば、常よりもうつくしう見え給ふ。



「春宮に参りたりつるに、しかじか仰せられつれば、見奉りに参りつるなり。



そらごとにもおはせむに、しか聞し召され給はむが、いと不便なれば」とて、御胸をひきあけさせ給ひて、乳をひねり給へりければ、御顔にさとはしりかかるものか。



ともかくも宣はで、やがて立たせ給ひぬ。



春宮に参り給ひて、「まことに候ひけり」とて、し給ひつる有様を啓せさせ給へれば、さすがに、もと心ぐるしう思し召しならはせ給へる御中なればにや、いとほしげにこそ思し召したりけれ。



「尚侍は、殿帰らせ給ひて後に、人やりならぬ御心づから、いみじう泣き給ひけり」とぞ、その折見奉りたる人語り侍りし。



春宮に候ひ給ひしほども、宰相は通ひ参り給ふ。



ことあまり出でてこそは、宮も聞し召して、「帯刀どもして蹴させやせましと思ひしかど、故大臣のことを、なきかげにもいかがと、いとほしかりしかば、さもせざりし」とこそ仰せられけれ。



この御あやまちより、源宰相、三条院の御時は殿上も給まはで、地下の上達部にておはせしに、この御時にこそは殿上し、検非違使の別当などになりて、失せ給ひにしか。



いま一つの御腹の大君は、冷泉院の女御にて、三条院、弾正の宮、帥の宮の御母にて、三条院位につかせ給ひしかば、贈皇后宮と申しき。



この三人の宮たちを、祖父殿ことのほかにかなしうし申し給ひき。



世の中の少しのことも出でき、雷も鳴り、地震もふるときは、まづ春宮の御方に参らせ給ひて、舅の殿ばら、それならぬ人々などを、「内の御方へは参れ。



この御方にはわれ候はむ」とぞ仰せられける。



雲形といふ高名の御帯は、三条院にこそは奉らせ給へれ。



かこの裏に、「春宮に奉る」と、刀のさきにて、自筆に書かせ給へるなり。



この頃は、一品の宮にとこそ承れ。



この春宮の御弟の宮達は、少し軽々にぞおはしましし。



帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部の君とあひ乗らせ給ひて御覧ぜしさまも、いと興ありきやな。



御車の口の簾を中より切らせ給ひて、我が御方をば高う上げさせ給ひ、式部が乗りたる方をばおろして、衣ながう出させて、紅の袴に赤き色紙の物忌いとひろきつけて、地とひとしうさげられたりしかば、いかにぞ、物見よりは、それをこそ人見るめりしか。



弾正尹の宮の、童におはしましし時、御かたちのうつくしげさは、はかりも知らず、かかやくとこそは見えさせ給ひしか。



御元服おとりのことのほかにせさせ給ひにしをや。



この宮達は、御心の少し軽くおはしますこそ、一家の殿ばらうけ申させ給はざりしかど、さるべきことの折などは、いみじうもてかしづき申させ給ひし。



帥の宮、一条院の御時の御作文に参らせ給ひしなどには、御前などにさるべき人多くて、いとこそめでたく参らせ給ふめりしか。



御前にて御襪のいたうせめさせ給ひけるに心地もたがひて、いとたへがたうおはしましければ、この入道殿にかくと聞えさせ給ひて、鬼の間におはしまして、御襪をひき抜き奉らせ給へりければこそ、御心地なほらせ給へりけれ。



贈后の御一つ腹の、いま一所の姫君は、円融院の御時、梅壺の女御と申して、一の皇子生まれ給へりき。



その皇子五つにて春宮にたたせ給ひ、七つにて位につかせ給ひにしかば、御母、女御殿、寛和二年七月五日、后にたたせ給ひて、中宮と申しき。



この帝を一条院と申しき。



その母后、入道せさせ給ひて、太上天皇とひとしき位にて、女院と聞えさせき。



一天下をあるままにしておはしましし。



この父大臣の御太郎君、女院の御一つ腹の道隆の大臣、内大臣にて関白せさせ給ひき。



二郎君、陸奥守倫寧のぬしの女の腹におはせし君なり。



道綱と聞えし。



大納言までなりて、右大将かけ給へりき。



この母君、きはめたる和歌の上手におはしければ、この殿の通はせ給ひけるほどのこと、歌など書き集めて、『かげろふの日記』と名づけて、世にひろめ給へり。



殿のおはしましたりけるに、門をおそくあけければ、たびたび御消息いひ入れさせ給ふに、女君、



嘆きつつ
ひとり寝る夜の
あくるまは
いかにひさしき
ものとかはしる
なげきつつ
ひとりねるよの
あくるまは
いかにひさしき
ものとかはしる


いと興ありと思し召して、



げにやげに
冬の夜ならぬ
槙の戸も
おそくあくるは
苦しかりけり
げにやげに
ふゆのよならぬ
まきのとも
おそくあくるは
くるしかりけり


されば、その腹の君ぞかし、この道綱の卿の、後には東宮傅になり給ひて傅の殿とぞ申すめりし。



いとあつくして、大将をも辞し給ひてき。



その殿、今の入道殿の北の政所の御はらからに住み奉らせ給ひて、生れ給へりし君、宰相中将兼経の君よ。



父大納言は失せ給ひにき、御年六十六とぞ聞き奉りし。



大入道殿の三郎、粟田殿。



また、四郎は、外腹の治部少輔の君とて、世のしれものにて、まじらひもせでやみ給ひぬとぞ、聞え侍りし。



五郎君、ただいまの入道殿におはします。



女院の御母北の方の御腹の君達三所の御有様、申し侍らむ。



昭宣公の御君達、「三平」と聞えさすめりしに、この三所をば、「三道」とや世の人申しけむ、えこそ承らずなりにしか。



とて、ほほゑむ。