いといとあさましくめづらかに、尽きもせず、二人語らひしに、この侍、



いといと興あることをもうけ給はるかな。



さても、ものの覚えはじめは何事ぞや。



それこそ、まづ聞かまほしけれ。



語られよ。



と言へば、世継、



六七歳より見聞き侍りしことは、いとよく覚え侍れど、そのこととなきは、証のなければ、用ゐる人も候はじ。



九つに侍りし時の大事を申し侍らむ。



小松の帝の、親王にておはしましし時の御所は、皆人知りて侍り。



おのが親の候ひし所、大炊御門よりは北、町尻よりは西にぞ侍りし。



されば、宮の傍にて、つねに参りて遊び侍りしかば、いと閑散にてこそおはしまししか。



二月の三日、初午といへど、甲午の最吉日、常よりも世こぞりて、いたり事うで稲荷詣にののしりしかば、父の詣で侍りし供にしたひ参りて、さは申せど、幼きほどにて、坂のこはきを登り侍りしかば、困じて、えその日のうちに還向つかまつらざりしかば、父がやがて、その御社の禰宜大夫が後見つかうまつりて、いとうるさくて候ひし宿りにまかりて、一夜は宿りして、またの日帰り侍りしに、東洞院よりのぼりにまかるに、大炊御門より西ざまに、人々のさざと走れば、あやしくて見候ひしかば、わが家のほどにしも、いと暗うなるまで人立ちこみて見ゆるに、いとどおどろかれて、焼亡かと思ひて、上を見あぐれば、煙も立たず。



「さは、大きなる追捕か」など、かたがたに心もなきまでまどひ参りしかば、小野官のほどにて、上達部の御車や、鞍置きたる馬ども、冠、表の衣着たる人々などの見え侍りしに、心得ずあやしくて、「何事ぞ、何事ぞ」と、人ごとに問ひ候ひしかば、「式部卿の宮、帝にゐさせ給ふとて、大殿をはじめ奉りて、皆人参り給ふなり」とて、急ぎまかりしなどぞ、もの覚えたることにて見給へし。



また、七つばかりにや、元慶二年ばかりにや侍りけむ、式部卿の宮の侍従と申ししぞ、寛平の天皇、つねに狩を好ませおはしまして、霜月の二十余日のほどにや、鷹狩に、式部卿の宮より出でおはしましし御供に走り参りて侍りし。



賀茂の堤のそこそこなる所に、侍従殿、鷹使はせ給ひて、いみじう興に入らせ給へるほどに、俄かに霧たち、世間もかい暗がりて侍りしに、東西もおぼえず、暮の往ぬるにやとおぼえて、藪の中に倒れ伏して、わななきまどひ候ふほど、時中や侍りけむ。



後に承れば、賀茂の明神のあらはれおはしまして、侍従殿にもの申させおはしますほどなりけり。



そのことは、皆世に申しおかれて侍るなればなかなか申さじ。



知ろしめしたらむ。



あはそかに申すべきに侍らず。



さて後六年ばかりありてや、賀茂の臨時の祭はじまり侍りけむ。



位につかせおはしましし年とぞ覚え侍る。



その日、酉の日にて侍れば、やがて霜月の果ての酉の日にては侍るぞ。



はじめたる東遊びの歌、敏行の中将ぞかし。



ちはやぶる
賀茂の社の
姫小松
よろづ代までも
色はかはらじ
ちはやぶる
かものやしろの
ひめこまつ
よろづよまでも
いろはかはらじ
Пусть года пролетят —
вовек не изменит окраску
та девица-сосна,
что растет в святилище Камо,
пред очами богов могучих!..


Есть в Кокинсю, 1100 и в главе "император Уда".

Перевод взят из Кокинсю, Александр Аркадьевич Долин.
古今に入りて侍り。



皆人知るしめしたることなれど、いみじうよみ給へるぬしかな。



今に絶えずひろごらせ給へる御末とか。



帝と申せど、かくしもやはおはします。



八幡の臨時の祭、朱雀院の御時よりぞかし。



朱雀院生まれさせた率ひて三年は、おはします殿の御格子も参らず、夜昼火をともして、御帳のうちにておはしたてたて参らせ給ふ、北野に怖ぢ申させ給ひて。



天暦の帝は、いとさも守り奉らせ給はず。



いみじき折節に生れおはしましたりしぞかし。



朱雀院生れおはしまさずは、藤氏の御栄え、いとかくしも侍らざらまし。



さて位につかせ給ひて、将門が乱出できて、その御願にてとぞ承りし。



その東遊びの歌、貫之のぬしぞかし。



松もおひ
またも苔むす
石清水
ゆく末とほく
つかへまつらむ
まつもおひ
またもこけむす
いしきよみづ
ゆくすゑとほく
つかへまつらむ



Упомянуто ранее в главе Монах-император Судзаку
集にも書きて侍るぞかし。



と言へば、繁樹、



この翁も、あのぬしの申されつるがごとく、くだくだしきことは申さじ。



同じことのやうなれど、寛平、延喜などの御譲位のほどのことなどは、いとかしこく忘れず覚え侍るをや。



伊勢の君の、弘徴殿の壁に書きつけたうべりし歌こそは、そのかみに、あはれなることと人申ししか。



別るれど
あひも思はぬ
ももしきを
見ざらむことや
なにかかなしき
わかるれど
あひもおもはぬ
ももしきを
みざらむことや
なにかかなしき


法皇の御返し、



身ひとつの
あらぬほかりを
おしなべて
ゆきかへりても
などか見ざらむ
みひとつの
あらぬほかりを
おしなべて
ゆきかへりても
などかみざらむ


と言へば、かたはらなる人、



法皇の書かせ給へりけるを、延喜の、後に御覧じつけて、かたはらに書きつけさせ給へるともうけ給はるは、いづれかまことならむ。



同じ帝と申せど、その御時に生まれあひて候ひけるは、あやしの民の竃まで、やむごとなくこそ。



大小寒のころほひ、いみじう雪降り、冴えたる夜は、「諸国の民百姓いかに寒からむ」とて、御衣をこそ、夜の御殿より投げ出しおはしましければ、おのれまでも、恵みあはれびられ奉りて侍る身と、面立たしくこそは。



されば、その世に見給へしことは、なは末までもいみじきことと覚え侍るぞ。



人々聞し召せ。



この座にて申すは、はばかりあることなれど、かつは、若く候ひしほど、いみじと身にしみて思う給へし罪も、今に失せ侍らじ。



今日この伽藍にて、擬悔つかうまつりてむとなり。



六条の式部卿の宮と申ししは、延喜の帝の一つ腹の御はらからにおはします。



野の行幸せさせ給ひしに、この宮供奉せしめ給へりけれど、京のほど遅参せさせ給ひて、桂の里にぞ参りあはせ給へりしかば、御興とどめて、先立て奉らせ給ひしに、なにがしといひし犬飼の、大の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸に仕うまつり給へる人々、さながら興じ給はぬなく、帝も、労ありげに思し召したる御けしきにてこそ、見えおはしまししか。



さて山口入らせ給ひしほどに、しらせうといひし御鷹の、鳥をとりながら、御興の鳳の上に飛び参りて居て候ひし、やうやう日は山の端に入りがたに、光のいみじうさして、山の紅葉、錦をはりたるやうに、鷹の色はいと白く、雉は紺青のやうにて、羽うちひろげて居て候ひしほどは、まことに雪少しうち散りて、折節とり集めて、さることやは候ひしとよ。



身にしむばかり思う給へしかば、いかに罪得侍りけむ。



とて、弾指はたはたとす。



大方、延喜の帝、つねに笑みてぞおはしましける。



そのゆゑは、「まめだちたる人には、もの言ひにくし。



うちとけたるけしきにつきてなむ、人はものはいひよき。



されば、大小こと聞かむがためなり」とぞ仰せ言ありける。



それさることなり。



けにくき顔には、ものいひふれにくきものなり。



さて、「われいかで、七月.九月に死にせじ。



相撲の節、九日の節のとまらむが口惜しきに」と仰せられけれど、九月に失せさせ給ひて、九日の節はそれよりとどまりたるなり。



その日、左衛門の陣の前にて御鷹ども放たれしは、あはれなりしものかな。



とみにこそ飛び退かざりしか。



公忠の弁をば、おほかたの世にとりても、やむごとなきものに思し召したりし中にも、鷹のかたざまには、いみじう興ぜさせ給ひしなり。



日々に政を勤め給ひて、馬をいづこにぞや立て給うて、こと果つるままにこそ、中山へはいませしか。



官のつかさの弁の曹司の壁には、その殿の鷹のものはいまだ付きて侍らむ。



久世の鳥、交野の鳥の味ひ、参り知りたりき。



「かたへはそらごとを宣ふぞ。



こころみたいまつらむ」とて、みそかに二所の鳥をつくりまぜて、しるしをつけて、人の参りたりければ、いささかとりたがへず、「これは久世の、これは交野のなり」とこそ、参り知りたりけれ。



かかれば、「ひたぶるの鷹飼にて候ふものの、殿上に候ふこそ見苦しけれ」と、延喜に奏し申す人のおはしければ、「公事をおろそかにし、狩をのみせばこそは罪はあらめ、一度政をもかかで、公事をよろづ勤めて後に、ともかくもあらむは、なんでふことかあらむ」とこそ仰せられけれ。



いでまた、いみじく侍りしことは、やがて同じ君の、大井河の行幸に、富小路の御息所の御腹の親王、七歳にて舞せさせ給へりしはかりのことこそ侍らざりしか。



万人しはたれぬ人侍らざりき。



あまり御かたちの光るやうにし給ひしかば、山の神めでて、取り奉り給ひてしぞかし。



その御時に、いとおもしろきことども多く侍りきや。



お陰かた申し尽くすべきならず。



まづ申すべきことをも、ただ覚ゆることにしたがひて、しどけなく申さむ。



法皇の、ところどころの修行しあそばせ給うて、宮滝御覧ぜしほどこそいといみじう侍りしか。



その折、菅原のおとどのあそばしたりし和歌、



水ひきの
白糸はへて
織るはたは
旅のころもに
たちやかさねむ
みづひきの
しろいとはへて
おるはたは
たびのころもに
たちやかさねむ


大井の御幸も侍りしぞかし。



さてまた、「みゆきありぬべき所」と申させ給ふ、ことのよし秦せむとて、小一条のおほいまうちぎみぞかし、



をぐら山
紅葉の色も
心あらば
いまひとたびの
みゆき待たなむ
をぐらやま
もみぢのいろも
こころあらば
いまひとたびの
みゆきまたなむ



В Ямато-моногатари, 99 "Огураяма" и в антологии «Сюисю» [1128], а также в Огура хякунин иссю, 26, вторая строка みねのもみぢば
あはれ優にも候ひしかな。



さて行幸に、あまたの題ありて、やまと歌つかうまつりし中に、「猿叫峡猿、峡ニ叫ブ、躬恒」、



わびしらに
ましらな鳴きそ
あしひきの
山のかひある
今日にやはあらぬ
わびしらに
ましらななきそ
あしひきの
やまのかひある
けふにやはあらぬ


その日の序代は、やがて貫之のぬしこそはつかうまつり給ひしか。



さてまた、朱雀院も優におはしますとこそはいはれさせ給ひしかども、将門が乱など出できて、怖れ過ごさせおはしまししほどに、やがてかはらせ給ひにしぞかし。



そのほどのことこそ、いとあやしう侍りけれ。



母后の御もとに行幸せさせ給へりしを、「かかる御有様の思ふやうにめでたく嬉しきこと」など秦せさせ給ひて、「いまは、東宮ぞかくて見聞えまほしき」と申させ給ひけるを、心もとなく急ぎ思し召しける事にこそありけれとて、ほどもなく譲り聞えさせ給ひけるに、后の宮は、「さも思ひても申さざりし事を。



ただ行く末のことをこそ思ひしか」とて、いみじう嘆かせ給ひげり。



さて、おりさせ給ひて後、人々の嘆きけるを御覧じて、院より后の宮に聞えさせ給へりし、国譲りの日、



日のひかり
出でそふ今日の
しぐるるは
いづれの方の
山辺なるらむ
ひのひかり
いでそふけふの
しぐるるは
いづれのかたの
やまべなるらむ


后の宮の御返し、



白雲の
おりゐる方や
しぐるらむ
おなじみ山の
ゆかりながらに
しらくもの
おりゐるかたや
しぐるらむ
おなじみやまの
ゆかりながらに


などぞ聞え侍りし。



院は数月、綾綺殿にこそおはしまししか。



後は少し悔い思し召すことありて、位にかへりつかせ給ふべき御祈などせさせ給ひげりとあるは、まことにや。



御心いとなまめかしうもおはしましし。



御心地おもくならせ給ひて、太皇太后官の幼くおはしますを見奉らせ給ひて、いみじうしほたれおはしましけり。



くれ竹の
わが世はことに
なりぬとも
ねは絶えせずぞ
なほなかるべき
くれたけの
わがよはことに
なりぬとも
ねはたえせずぞ
なほなかるべき


まことにこそかなしくあはれに承りしか。



村上の帝、はた申すべきならず。



「なつかしうなまめきたる方は、延喜にはまさり申させ給へり」とこそ、人申すめかりしか。



「われをば人はいかがいふ」など、人に問はませ給ひけるに、「『ゆるになんおはします』と、世には申す」と奏しければ、「さてはほむるなんなり。



王のきびしうなりなば、世の人いかが堪へむ」とこそ仰せられけれ。



いとをかしうあはれに侍りし事は、この天暦の御時に、清涼殿の御前の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給ひしに、なにがしぬしの蔵人にていますがりし時、承りて、「若き者どもはえ見知らじ。



きむぢ求めよ」と宣ひしかば、一京まかり歩きしかども、侍らざりしに、西京のそこそこなる家に、色濃く咲きたる木の、様体うつくしきが侍りしを、掘りとりしかば、家あるじの、「木にこれ結ひつけて持て参れ」といはせ給ひしかば、あるやうこそはとて、持て参りて候ひしを、「なにぞ」とて御覧じければ、女の手にて書きて侍りける。



勅なれば
いともかしこし
うぐいすの
宿はと問はば
いかが答へむ
ちょくなれば
いともかしこし
うぐいすの
やどはととはば
いかがこたへむ


todo
とありけるに、あやしく思し召して、「何者の家ぞ」とたづねさせ給ひければ、貫之のぬしの御女の住む所なりけり。



「遺恨わざをもしたりけるかな」とて、あまえおはしましける。



繁樹今生の辱号は、これや侍りけむ。



さるは、「思ふやうなる木持て参りたり」とて、衣かづけられたりしも、辛くなりにき。



とて、こまやかに笑ふ。



繁樹また、



いとせちにやさしく思ひ給へしことは、この同じ御時の事なり。



承香殿の女御と申ししは、斎宮の女御よ。



「帝久しくわたらせ給はざりける秋の夕暮に、琴をいとめでたく弾き給ひければ、急ぎわたらせ給ひて、御かたはらにおはしましけれど、人やあるとも思したらで、せめて弾き給ふを、聞こし召せば、



秋の日の
あやしきほどの
夕暮に
荻吹く風の
おとぞ聞ゆる
あきのひの
あやしきほどの
ゆふぐれに
おぎふくかぜの
おとぞきゆる


と弾きたりしほどこせちなりしか」と御集に侍るこそ、いみじう候へ。



といふは、あまりかたじけなしやな。



ある人、



城外やし給へりし。



と言へば、



遠国にはまからず。



和泉国にこそ、貫之のぬしの御任に下りて侍りしか。



「ありとはしをば思ふべしやは」と、よまれしたびの供にも候ひき。



雨の降りしさま。



など語りしこそ、古草子にあるを見るは、ほど経たる心地し侍りしに、昔にあひにたる心地して、をかしかりしか。



この侍もいみじう興じて、



繁樹が女どもこそ、いま少しこまやかなる事どもは語られめ。



と言へば、



われは京人にも侍らず、高き宮仕へなどもし侍らず。



若くより、この翁に添ひ候ひにしかば、はかばかしき事をも見給へぬものをは。



といらふれば、



いづれの国の人ぞ。



と問ふ。



陸奥国安積の沼にぞ侍りし。



と言へば、



いかで京には来しぞ。



と間へば、



その人とは、え知り奉らず、歌詠み給ひし北の方おはせし守の御任にぞ、上り侍りし。



といふに、中務の君にこそと聞くもをかしくなりぬ。


??
いといたき事かな。



北の方をば誰とか聞えし。



よみ給ひけむ歌は覚ゆや。



と言へば、



その方に心も得で、覚え侍らず。



ただ上り給ひしに、逢坂の関におはして、よみ給へりし歌こそ、ところどころ覚え侍れ。



とて、



都には
待つらむものを
逢坂の
関まで来ぬと
告げややらまし
みやこには
まつらむものを
あふさかの
せきまでこぬと
つげややらまし


など、たどたどしげに語るさま、まことに男にたとしへなし。



繁樹、



この人をば人と覚えずかとよ。



さやうの方は覚ゆらむものぞ。



世間だましひはしも、いとかしこく侍るをとり所にて、え去りがたく思ひ給ふるなり。



といふに、世継、



いで、この翁の女人こそ、いとかしこくものは覚え侍れ。



いまひとめぐりがこのかみに候へば、見給へぬほどのことなども、あれは知りて侍るめり。



染殿の后の宮のすましに侍りけり。



母も上の刀自にて仕うまつりければ、幼くより参り通ひて、忠仁公をも見奉りけり。



童部がたちのほどの、いとものぎたなうも候はざりけるにや、やむごとなき君達も御覧じいれて、兼輔の中納言、良峯衆樹の宰相の御文なども持ちて侍るめり。



中納言はみちのくにがみに書かれ、宰相のは胡桃色にてぞ侍るめる。



この宰相ぞかし、五十までさせることなく、おぼやけに捨てられたるやうにていますがりけるが、八幡に参りたうびたるに、雨いみじう降る石清水の坂登りわづらひつつ参り給へるに、御前の橘の木の少し枯れて侍りけるに立ち寄りて、



ちはやぶる
神の御前の
橘も
もろきもともに
老いにけるかな
ちはやぶる
かみのおまへの
たちばなも
もろきもともに
をいにけるかな


とよみ給へば、神聞き、あはれびさせ給ひて、橘も栄え、宰相も思ひかけず頭になり給ふとこそは承りしか。



と言へば、侍、



賀茂の御前にとかや、はるかの世の物語に童べ申し侍るめるは。



といらふれば、



さもや侍りけむ。



ほど経て僻事も申し侍らむ。



宰相をば見たいまつりしかど、人となりてこそ尋ね承れ。



といらふ。



侍、



そはさなり。



その宰相は、五十六にて宰相になり、左近中将かけていませしか。



その折はなにともおほえ侍らざりしかど、この頃思ひ出で侍れば、見苦しかりけることかなと思ひ侍る。



この侍、



いかでさる有識をば、ものげなきわかうどにてはとりこめられしぞ。



と問へば、



さればこそ。



さやうに好き惚き候ひしものの、心にもあらず、世継が家にはまうで来よりては、恥にして、いかばかりのいさかひ侍りしかど、さばかりにこかけそめて、あからめせさせ侍りなむや。



さるほどに、ゐつき候ひては、翁をまた一夜もほかめせさせ侍らぬをや。



と、ほほゑみたる口つき、いとをこがまし。



また、この女どもも、世継も、しかるべきにて侍りけるぞ。



かの女、二百歳ばかりになりにて侍り。



兼輔の中納言、衆樹の宰相も、今まであとかはねだにいませず、いかがし侍らまし。



世継も、今様の若き女ども、さらに語らはれ侍らじ。



と言へば、



かかる命長の生きあはず侍らましかば、いと悪しく侍らまし。



とて、こころよく笑ふ。



げにと聞えてをかしくもあり、語るも現の事ともおぼえず。



あはれ、今日具して侍らましかば、女房たちの御耳に、いま少しとどまる事どもは、聞かせ給へてまし。



私の頼む人にては、兵衛内侍の御親をぞし侍りしかば、内侍のもとへは、時々まかるめりき。



といふに、「とは誰にか。



」といふ人ありければ、



いで、この高名の琵琶ひき。



相撲の節に玄上給はりて、御前にて「青海波」つかうまつられたりしは、いみじかりしものかな。



博雅の三位などだにおぼろげにはえ鳴らし給はざりけるに、これは承明門まで聞え侍りしかば、左の楽屋にまかりて、承りしぞかし。



かやうにもののはえ、うべうべしき事どもも、天暦の御時までなり。



冷泉院の御世になりてこそ、さはいへども、世は暗れふたがりたる心地せしものかな。



世のおとろふる事も、その御時よりなり。



小野宮殿も、一の人と申せど、よそ人にならせ給ひて、若くはなやかなる御舅達にまかせ奉らせ給ひ、また帝は申すべきならず。



あはれに候ひける事は、村上失せおはしまして、またの年、小野宮に人々参り給ひて、いと臨時客などはなけれど、嘉辰令月しなどうち誦ぜさせ給ふついでに、一条の左大臣、六条殿など拍子とりて、「席田」うち出でさせ給ひけるに、「あはれ、先帝のおはしまさましかば」とて、御笏もうち置きつつ、あるじ殿をはじめ奉りて、事忌もせさせ給はず、上の御衣どもの袖濡れさせ給ひにけり。



さることなりや。



何事も、聞き知り見分く人のあるはかひあり、なきはいと口惜しきわざなり。



今日かかることども申すも、わ殿の聞きわかせ給へは、いとどいま少しも申さまほしきなり。



と言へば、侍もあまえたりき。



藤氏の御事をのみ申し侍るに、源氏の御事もめづらしう申し侍らむ。



この一条殿、六条の左大臣殿たちは、六条の一品式部卿の宮の御子どもにおはしまさふ。



寛平の御孫なりとばかりは申しながら、人の御有様、有識におはしまして、いづれをも村上の帝ときめかし申させ給ひしに、いま少し六条殿をば愛し申させ給へりけり。



兄殿は、いとあまりうるはしく、公事よりほかのこと、他分には申させ給はで、ゆるぎたる所のおはしまさざりしなり。



弟殿は、みそかごとは無才にぞおはしまししかど、若らかに愛敬づき、なつかしき方はまさらせ給ひしかばなめりとぞ、人申しし。



父宮は出家せさせ給ひて、仁和寺におはしまししかば、六条殿、修理大夫にておはしまししほどなれば、仁和寺へ参らせ給ふゆき帰りの道を、一度は、東の大宮より上らせ給ひて、一条より西ざまにおはしまし、また一度は、西の大宮より下らせ給ひて、二条より東ざまなどに過ぎさせ給ひつつ、内裏を御覧じて、破れたる所あれば、修理せさせ給ひげり。



いと手ききたる御心ばへなりな。



また、一条殿の仰せられけるは、「親王たちのなかにて、世の案内も知らず、たづきなかりしかば、さるべき公事の折は、人より先に参り、こと果てても、最末にまかり出でなどして、見習ひしなり」とぞ宣はせける。



八幡の放生会には、御馬奉らせ給ひしを、御使などにも浄衣を給はせ、御みづからも清らせ給ひしかばにや、御前近き木に山鳩のかならず居て、ひき出づる折に飛び立ちければ、かひありと、よるこび興ぜさせ給ひげり。



御心いとうるはしくおはします人の、信をいたさせ給ひしかば、大菩薩のうけ申させ給へりけるにこそ。



ひととせの旱の御祈にこそ、東三条殿の御賀茂詣せさせ給ひしには、この一条殿も参らせ給ひき。



大臣にならせ給ひぬれば、さる例なけれども、天下の大事なりとて、御出立ちの所にはおはしまさで、わが御殿の前わたらせ給ひしほどに、引き出でて具し申させ給ひしなり。



この生には御数珠とらせ給ふ事はなくてただ毎日、「南無八幡大菩薩、南無金峯山金剛蔵王、南無大般若波羅蜜多心経」と、冬の御扇を数にとりて、一百遍づつぞ念じ申させ給ひける。



それよりほかの御勤せさせ給はず。



四条の大后の宮に、かくなむと申す人のありければ、聞かせ給ひて、「なつかしからぬ御本尊かな」とぞ仰せられける。



この殿こそ、「荒田に生ふる」をば、なべてのやうには謡ひ変へさせ給ひけれ。



一条院の御時、臨時の祭の御前のこと果てて、上達部たちの物見に出で給ひしに、外記の隅のほど過ぎさせ給ふとて、わざとはなく、口ずさみのやうに謡はせ給ひしが、なかなか優におぼえ侍りし。



「富草の花、手に摘みいれて、宮へ参らむ。



」のほどを、例には変はりたるやうに承りしかば、遠きほどに、老の僻耳にこそはと思ひ給へしを、この按察大納言殿もしか宣はせける。



「殿上人にてありしかば、遠くて、よくも聞かざりき。



変りたりしやうの、めづらしう、さまかはりておぼえしは、あの殿の御事なりしかばにや。



またも聞かまほしかりしかども、さもなくてやみにしこそ、今に口惜しくおぼゆれ」とこそ宣ふなれ。



このおほい殿達の御弟の大納言、優におはしましき。



大方六条の宮の御子どもの、皆めでたくおはしまさひしなり。



御法師子は、広沢の僧正、勧修寺の僧正二所こそはおはしまししか。



大方そのほどには、方々につけつつ、いみじき人々のおはしまししものをや。



と言へば、



この頃もさやうの人はおはしまさずやはある。



と、侍のいへば、



この四人の大納言たちよな。



斉信、公任、行成、俊賢など申す君達は、またさらなり。



さてまた、多くの見物し侍りし中にも、花山院の御時の石清水の臨時の祭、円融院の御覧ぜしばかり、興あること候はざりき。



その折の蔵人頭にては、今の小野宮の右大臣殿ぞおはしましし。



御前のこと果てけるままに、院はつれづれにおはしますらむかしと思し召して、参らせ給へりければ、さるべき人も候ひ給はざりけり。



蔵人、判官代ばかりして、いといとさうざうしげにておはします。



かく参らせ給へるを、いと時よう思し召したる御けしきを、いとあはれに心ぐるしう見参らせさせ給ひて、「もの御覧ぜよ」など、御けしき給はらせ給へば、「にはかにはいかがあるべからむ」と仰せられけるを、「かくて実資候へば、また、殿上に候ふ男どもばかりにてあへ侍りなむ。



」とそそのかし申させ給ふ。



御厩の御馬ども召して、候ひし限り、御前仕まつり、頭中将は束帯ながら参り給ふ。



堀河院なれば、ほど近く出でさせ給ふに、物見車ども二条大宮の辻に立ちかたまりて見るに、布衣、衣冠なる御前したる車の、いみじく人払ひ、なべてならぬ勢なる来れは、誰ばかりならむとあやしく思ひあへるに、頭中将、下襲の尻はさみて、移置きたる馬に乗りておはするに、院のおはしますなりけりと見て、車どもも、徒人も、てまどひし立ち騒ぎて、いとものさわがし。



二条よりは少し北によりて、冷泉院の築地づらに、御車立てつ。



御前どもおりて候ひ並み給ふほどに、内より見物しに、引きつづき出で給ふ上達部たちの見給ふに、大路のいみじうののしれば、あやしくて、「何事ぞ」と問はせ給ふに、「院のおはしますなり」と申しけるを、よにあらじと思すに、「頭中将もおはします」といふにぞ、まことなりけりとおぼえつつ、御車よりいそぎおりつつ、皆参り給ひし。



大臣二人は、左右の御車の筒うち押へて立たせ給へり。



東三条殿、一条の左大臣殿よ。



さて納言以下は、轅のこなたかなたに候ひ給ふ。



なかなかうるはしからむ、ことの作法よりも、めでたく侍りしものかな。



舞人、陪従は皆乗りてわたるに、時中の源大納言の、いまだ大蔵卿と申しし折ぞ、使にておはせし、御車の前近く立ちとどまりて、「求子」を袖のけしきばかりつかまつり給ひて、つい居給ひしままに、御はた袖を顔におしあてて候ひ給ひしかば、香なる御扇をさし出させ給ひて、「はやう」とかかせ給ひしかばこそ、少しおし拭ひて立ち給ひしか。



すべてさばかり優なる事また候ひなむや。



げにあはれなる事のさまなれば、人々も御けしきかはり、院の御前にも、少し涙ぐみおはしましけりとぞ、後に承りし。



神泉の丑寅の角の垣のうちにて見給へしなり。



また、若く侍りし折も、仏法うとくて、世ののしる大法会ならぬには、まかりあふ事もなかりしに、まして年積りては、動きがたく候ひしかども、参河の入道の入唐の馬のはなむけの講師、清照法橋のせられし日こそ、まかりたりしか。



さばかり道心なき者の、はじめて心起こる事こそ候はざりしか。



まづは神分の心経、表白のたうびて、鐘打ち給へりしに、そこぼく集まりたりし万人、さとこそ泣きて侍りしか。



それは道理の事なり。



また、清範律師の、犬のために法事しける人の講師に請ぜられていくを、清照法橋、同じほどの説法者なれば、いかがすると聞きに、頭つつみて、誰ともなくて聴聞しければ、「ただ今や、過去聖霊は蓮台の上にてひよと吠え給ふらむ」と宣ひければ、「さればよ。



こと人、かく思ひよりなましや。



なは、かやうのたましひあることは、すぐれたる御房ぞかし」とこそほめ給ひけれ。



まことに承りしに、をかしうこそ候ひしか。



これはまた、聴聞衆ども、さざと笑ひてまかりにき。



いと軽々なる往生人なりや。



また、無下のよしなしごとに侍れど、人のかどかどしく、たましひある事の興ありて、優におぼえ侍りしかばなり。



法成寺の五大堂供養は、師走には侍らずやな。



きはめて寒かりし頃、百僧なりしかば、御堂の北の庇にこそは、題名僧の座はせられたりしか。



その料にその御堂の庇はいれられたるなり。



わざとの僧膳はせさせ給はで、湯漬ばかり給ふ。



行事二人に、五十人づつ分たせ給ひて、僧の座せられたる御堂の南面に、鼎を立てて、湯をたぎらかしつつ、御ものを入れて、いみじう熱くて参らせ渡したるを、思ふにぬるくこそはあらめと、僧たち思ひて、ざふざふと参りたるに、はしたなき際に熱かりければ、北風はいと冷たきに、さばかりにはあらで、いとよく参りたる御房たちもいまさうじけり。



後に、「北向きの座にて、いかに寒かりけむ」など、殿の問はせ給ひければ、「しかじか候ひしかば、こよなく暖まりて、寒さも忘れ侍りにき」と申されければ、行事たちをいとよしと思し召されたりけり。



ぬるくて参りたりとも、別の勘当などあるべきにはあらねど、殿をはじめ奉りて、人にほめられ、ゆく末にも、「さこそありけれ」といはれたうばむは、ただなるよりはあしからず、よき事ぞかし。



いでまた、故女院の御賀に、この関白殿、「陵王」、春宮大夫殿、「納蘇利」舞はせ給へりしめでたさはいかにぞ。



「陵王」はいと気高くあてに舞はせ給ひて、御禄給はらせ給ひて、舞ひすてて、知らぬさなにて入りらせ給ひぬる御うつくしさ、めでたさに、並ぶことあらじ、と見参らするに、「納蘇利」のいとかしこく、また、かくこそはありけめと見えて舞はせ給ふに、御禄を、これはいとしたたかに御肩にひきかけさせ給ひて、今ひとかへり、えもいはず舞はせ給へりし興は、またかかるべかりけるわざかな、とこそおぼえ侍りしか。



御師の、「陵王」は必ず御禄は捨てさせ給ひてむぞ、同じさまにせさせ給はむ、目馴れたるべければ、さまかへさせ奉りたるなりけり。



心ばせまされりとこそはいはれ侍りしか。



女院かうぶ給はせば、大夫殿をいみじくかなしがり申させ給へばとぞ。



陵王の御師は賜はらで、いとからかりけり。



それにこそ、北の政所少しむづからせ給ひけれ。



さて後にこそ賜はすめりしか。



かたのやうに舞かせ給ふとも、悪しかるべき御年のほどにもおはしまさず、わろしと人の申すべきにも侍らざりしに、まことにこそ、二所ながら、この世の人とは見えさせ給はで、天童などの降り来たるとこそ見えさせ給ひしか。



また、この大宮の大原野行啓はいみじう侍りし。



ことに雨の降りしこそいと口惜しく侍りし事よ。



舞人には、たれたれ、それそれの君達など数へて、一の舞には、関白殿の君とこそはせさせ給ひしか。



試楽の日、掻練襲の御下襲に、黒半臂奉りたりしは、めづらしく候ひしものかな。



闕腋に人の着給へりしを、いまだ見侍らざりしかば。



行啓には、入道殿、それがしといふ御馬に奉りて、御随身四人と、らんもんにあげさせ給へりしは、軽々しかりしわざかな。



公忠が少し控へつつ、所おき申ししを、制せさせ給ひしかば、なほ少し怖り申してこそありしか。



かしこく京のほどは雨も降らざりしぞかし。



閑院の太政大臣殿の、西の七条より帰らせ給ひしをこそ、入道殿いみじう恨み申させ給ひけれ。



堀河の左大臣殿は、御社までつかまつらせ給ひて、御引出物御馬あり。



枇杷殿の宮、中宮とは、金造の御車にて、まうち君達の、やむごとなきかぎり選らせ給へる御前具し申させ給へりき。



御車のしりには、皇后宮の御乳母、維経のぬしの御母、中宮の御乳母、兼安、実任のぬしの御母、おのおのこそ候はれけれ。



殿の君達のまだ男にならせ給はぬ、童にて皆仕うまつらせ給へりき。



また、ついでなきことには侍れど、怪と人の申す事どもの、させる事なくてやみにしは、前の一条院の御即位の日、大極殿の御装束すとて人々集まりたるに、高御座のうちに、髪つきたるものの頭の、血うちつきたりけるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきと行事思ひあつかひて、かばかりの事を隠すべきかとて、大入道殿に、「かかる事なむ候ふ」と、某の主して申させけるを、いと眠たげなる御気色にもてなせ給ひて、ものも仰せられねば、もし聞こし召さぬにやとて、また御気色賜はれど、うち眠らせ給ひて、なほ御いらへなし。



いとあやしく、さまで大殿籠り入りたりとは見えさせ給はぬに、いかなればかくてはおはしますぞと思ひて、とばかり御前に候ふに、うちおどろかせ給ふさまにて、「御装束は果てぬるにや」と仰せらるるに、聞かせ給はぬやうにてあらむと、思し召しけるにこそと心得て、立ちたうびける。



げにかばかりの祝の御事、また今日になりてとまらむも、いまいましきに、やをらひき隠してあるべかりける事を、心肝なく申すかなと、いかに思し召しつらむと、後にぞ、かの殿もいみじう悔い給ひける。



さる事なりしかな。



されば、なでふ事かはおはします、よき事にこそありけれ。



また、大宮のいまだ幼くおはしましける頃、北の政所具し奉らせ給ひて、春日に参らせ給ひけるに、御前の物どもの参らせ据ゑたりけるを、俄かに辻風の吹きまろびて、東大寺の大仏殿の御前に落したりけるを、春日の御前なる物の源氏の氏寺に取られたるは、よからぬ事にや、これをも、その折、世の人申ししかど、ながく御末栄え給ふは吉相にこそはありけれ、とぞおぼえ侍るな。



夢も現も、「これはよきこと」と人申せど、させる事なくてやむやう侍り。



また、かやうに怪だちて見給へ聞ゆる事も、かくよき事も候ふな。



まことに、世の中にいくそばくあはれにもめでたくも、興ありて承り見給へ集めたる事の、数知らず積りて侍る翁どもとか、人々思し召す。



やむごとなくも、また下りても、間近き御簾、簾の内ばかりや、おぼつかなさ残りて侍らむ。



それなりとも、各宮、殿ばら、次々の人の御あたりに、人のうち聞くばかりの事は、女房、童べ申し伝へぬやうやは侍る。



されば、それも、不意に伝へ承らずしも候はず。



されど、それをば何とかは語り申さむずる。



ただ世にとりて、人の御耳とどめさせ給ひぬべかりし昔の事ばかりを、かく語り申すだにいとをこがましげに御覧じおこする人もおはすめり。



今日は、ただ殿のめづらしう興ありげに思して、あどをよくうたせ給ふにはやされ奉りて、かばかりも口あけそめて侍れば、なかなか残り多く、またまた申すべき事は、期もなく侍るを、もしまことに聞こし召しはてまほしくは、駄一疋を賜はせよ。



はひ乗りて参り侍らむ。



かつはまた、御宿りに参りて、殿の御才学のほども承らまはしう思う給ふるやうは、いまだ年頃、かばかりもさしいらへし給ふ人に対面給はらぬに、時々くはへさせ給ふ御ことばの、見奉るは、翁らが玄孫のほどにこそはとおぼえさせ給ふに、この知るしめしげなる事ども、思ふに古き御日記などを御覧ずるならむかしと心にくく下郎はさばかりの才はいかでか侍らむ。



ただ見聞き給へしことを心に思ひおきて、かくさかしがり申すにこそあれ。



まこと人にあひ奉りては、思し咎め給ふ事も侍らむと、はづかしうおはしませば、老の学問にも承りあかさまほしうこそ侍れ。



と言へば、繁樹もただ、



かうなり、かうなり。



さらむ折は、かならず告げ給ふべきなり。



杖にかかりても、必ず参りあひ申し侍らむ。



と、うなづき合はす。



ただし、さまでのわきまへおはせぬ若き人々は、そら物語する翁かなと思すもあらむ。



我が心におぼえて、一言にても、むなしき事加はりて侍らば、この御寺の三宝、今日の座の戒和尚に請ぜられ給ふ仏、菩薩を証とし奉らむ。



中にも、若うより、十戒のなかに、妄語をばたもちて侍る身なればこそ、かく命をばたもたれて候へ。



今日、この御寺のむねとそれを授け給ふ講の庭にしも参りて、あやまち申すべきならず。



大方の世のはじまりは、人の寿は八万歳なり。



それがやうやう減じもていきて、百歳になる時、仏は出でおはしますなり。



されど、生死の定めなき由を人に示し給ふとて、なほ今二十年を約めて八十と申しし年、入滅せさせ給ひにき。



その年より今年まで、一千九百七十三年にぞなり侍りぬる。



釈迦如来滅し給ふを期にて、八十には侍れど、仏、人の命を不定なりと見せさせ給ふにや、この頃も、九十、百の人、おのづから聞え侍るめれど、この翁どもの寿は希なること、「甚深甚深希有希有なり」とは、これを申すべきなり。



いと昔は、かばかりの人侍らず。



神武天皇をはじめ奉りて、二十余代までの間に、十代ばかりがほどは、百歳、百余歳までたもち給へる帝もおはしましたれど、末代には、けやけき寿もちて侍る翁なりかし。



かかれば、前生にも戒を受けたもちて候ひけると思ひ給ふれば、この生にも破らでまかりかへらむと思ひ給ふるなり。



今日、この御堂に影向し給ふらむ神明、冥道達も聞こし召せ。



とうちいひて、したり顔に、扇うちつかひつつ、見かはしたる気色、ことわりに、何事よりも、公私うらやましくこそ侍りしか。



さてもさても、繁樹が年かぞへさせ給へ。



ただなる折は、年を知り侍らぬが口惜しきに。



と言へば、侍、



いでいで。



とて、



「十三にておほき大殿に参りき。



」と宣へば、十ばかりにて、陽成院のおりさせ給ふ年はいますがりけるにこそ。



それにて推し思ふに、あの世継のぬしには、いま十余年が弟にこそあむめれば、百七十には少しあまり、八十にも及ばれにたるべし。



など、手を折りかぞへて、



いとかくばかりの御年どもをば、相人などに相せられやせし。



と問へば、



さる人にも見え侍らざりき。



ただ狛人のもとに、二人つれてまかりたりしかば、「二人長命」と申ししかど、いとかばかりまで候ふべしとは、思ひかけ候ふべき事か。



ことごと問はむ、と思ひ給へしほどに、昭宣公の君達三人おはしまして、え申さずなりにき。



それぞかし、時平のおとどをば、「御かたちすぐれ、心魂すぐれ賢うて、日本にはあまらせ給へり。



日本のかためと用ゐむにあまらせ給へり」と相し申ししは。



枇杷殿をば、「あまり御心うるはしくすなほにて、へつらひ飾りたる小国にはおはぬ御相なり」と申す。



貞信公をば、「あはれ、日本国のかためや。



ながく世をつぎ門ひらくこと、ただこの殿」と申したれば、「我を、あるが中に、才なく心諂曲なりと、かくいふ、はづかしきこと」と仰せられけるは。



されど、その儀にたがはせ給はず、門をひらき、栄花をひらかせ給へば、なほいみじかりけりと思ひ侍りて、またまかりたりしに、小野宮殿おはしまししかば、え申さずなりにき。



ことさらにあやしき姿をつくりて、下﨟の中に遠く居させ給へりしを、多かりし人の中より、のびあがり見奉りて、指をさしてものを申ししかば、何事ならむと思ひ給へりしを、後に承りしかば、「貴臣よ」と申しけるなりけり。



さるは、いと若くおはしますほどなりしかな。



いみじきあざれごとどもに侍れど、まことにこれは徳至りたる翁どもにて候ふ。



などか人のゆるさせ給はざらむ。



また、拙き下﨟のさる事もありけるはと聞し召せ。



亭主院の、河尻におはしまししに、白女といふ遊女召して、御覧じなどせさせ給ひて、「はるかに遠く候ふよし、歌につかうまつれ」と仰せ言ありければ、詠みて奉りし、



浜千鳥
飛びゆくかぎり
ありければ
雲立つ山を
あはとこそ見れ
はまちとり
とびゆくかぎり
ありければ
くもたつやまを
あはとこそみれ



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いといみじうめでさせ給ひて、物かづけさせ給ひき。



「命だに心にかなふものならば」も、この白女が歌なり。



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また、鳥飼院におはしましたるに、例の遊女どもあまた参りたる中に、大江玉淵が女の、声よく容貌をかしげなれば、あはれがらせ給ひて、上に召し上げて、「玉淵はいと労ありて、歌などいとよく詠みき。



この『とりかひ』といふ題を、人々の詠むに、同じ心につかうまつりたらば、まことの玉淵が子とは思し召さむ」と仰せ給ふを承りて、すなはち、



深緑
かひある春に
あふ時は
霞ならねど
たちのぼりけり
ふかみどり
かひあるはるに
あふときは
かすみならねど
たちのぼりけり



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など、めでたがりて、帝よりはじめ奉りて、ものかづけ給ふほどの事、南院の七郎君に後ろむべき事など仰せられけるほどなど、くはしくぞ語る。



延喜の御時に、古今抄せられし折、貫之はさらなり、忠岑や躬恒などは、御書所に召されて候ひけるほどに、四月二日なりしかば、まだ忍音の頃にて、いみじく興じおはします。



貫之召し出でて、歌つかうまつらしめ給へり。



こと夏は
いかが鳴きけむ
ほととぎす
この宵ばかり
あやしきぞなき
ことなつは
いかがなきけむ
ほととぎす
このよひばかり
あやしきぞなき


それをだに、けやけき事に思ひ給へしに、同じ御時、御遊びありし夜、御前の御階のもとに躬恒を召して、



『月を弓張といふ心はなにの心ぞ。これがよしつかうまつれ』と仰せ言ありしかば、



照る月を
弓はりとしも
いふことは
山辺をさして
いればなりけり
てるつきを
ゆみはりとしも
いふことは
やまべをさして
いればなりけり


と申したるを、いみじう感ぜさせ給ひて、大袿給ひて、肩にうちかくるままに、



白雲の
このかたにしも
おりゐるは
天つ風こそ
吹きてきぬらし
しらくもの
このかたにしも
おりゐるは
あまつかぜこそ
ふきてきぬらし


いみじかりしものかな。



さばかりの者に、近う召し寄せて、勅禄賜はすべき事ならねど、謗り申す人のなきも、君の重くおはしまし、また躬恒が和歌の道に許されたるとこそ、思ひ給へしか。



かの遊女どもの、歌詠み、感賜はるは、さぞ侍る。



院にならせ給ひ、都離れたる所なれば。



と優にこそ、あまりにおよすげたれ。



この侍問ふ、



円融院の紫野の子の日の日、曾禰好忠いかに侍りけるぞ。



と言へば、



それそれ、いと興に侍りし事なり。



さばかりの事に上下を撰ばず、和歌を賞せさせ給はむに、げに入らまほしき事に侍れど、かくろへて優なる歌を詠み出さむだに、いと無礼に侍るべき。



ことに、座に、ただ着きに着きたりし、あさましく侍りし事ぞかし。



小野宮殿、閑院の大将殿などぞかし、「引き立てよ、引き立てよ」と、おきてさせ給ひしは。



躬恒が別禄賜はるに、たとしへなき歌詠みなりかし。



歌いみじくとも、折節、切りめを見て、つかうまつるべきなり。



けしうはあらぬ歌詠みなれど、辛う劣りにし事ぞかし。



と言ふ。



侍、こまやかにうち笑みて、



いにしへのいみじき事どもの侍りけむは知らず。



なにがし物覚えて後、不思議なりし事は、三条院の大嘗会の御禊の出車、大宮、皇太后宮より奉らせ給へりしぞありしや。



大宮の一の車の口の眉に、香嚢かけられて、空薫物たかれたりしかば、二条の大路のつぶと煙満ちたりしさまこそめでたく、今にさばかりの見物またなし。



など言へば、世継、



しかしか、いかばかり御心に入れて、いどみせ給へりしかは。



それに、女房の御心のおほけなさは、さばかりの事を、簾おろして渡りたうびにしはとよ。



あさましかりし事ぞかしな。



ものけ賜はる口に乗るべしと思はれけるが、しりに押し下され給へりけるとこそは承りしか。



げに女房の辛き事にせらるれども、主の思し召さむ所も知らず、男はえしかあるまじくこそ侍れ。



大方、その宮には、心おぞましき人のおはするにや。



一品の宮の御裳着に、入道殿より、玉を貫き、岩を立て、水を遣り、えもいはず調ぜさせ給へる裳、唐衣を、よつ奉らせ給ひて、「中にも、とりわき思し召さむ人に給はせよ」と申させ給へりけるを、さりともと思ひ給へりける女房の、賜はらで、やがてそれ嘆きの病つきて、七日といふに失せ給ひにけるを、などいとさまで覚え給ひけむ。



罪深く、まして、いかにもの妬みの心深くいましけむ。



など言ふに、あさましく、「いかでかくよろづの事、御簾のうちまで聞くらむ」と恐ろしく。



かやうなる媼、翁なんどの古言するは、いとうるさく、聞かまうきやうにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返りあひたる心地して、またまたも言へかし、さしいらへごと、問はまほしき事多く、心もとなきに、「講師おはしにたり」と、立ち騒ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜しく、「こと果てなむに、人つけて、家はいづこぞと見せん」と思ひしも、講のなからばかりがほどに、その事となく、とよみとてかいののしり出で来て、居こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどに紛れて、いづれともなく見紛らはしてし口惜しさこそ。



何事よりも、かの夢の聞かまほしさに、居所も尋ねさせむと侍りしかども、一人びとりをだに、え見つけずなりにしよ。



まことまこと、帝の、母后の御もとに行幸せさせ給ひて、御輿寄する事は、深草の御時よりありける事とこそ。



それがさきは、降りて乗らせ給ひけるに、后の宮、「行幸の有様見奉らむ。



ただ寄せて奉れ」と申させ給ひければ、そのたび、さておはしましけるより、今は寄せて乗らせ給ふとぞ。