ことに触れて、情け深き人なりければ、月の光清くすさまじき夜、一人起きゐて、なぐさめがたくや思えけん、高瀬舟に竿差しつつ、心にまかせて戴安道を尋ね行くに、道のほど遥かにて、夜も明け、月も傾きぬるを、本意ならずや思ひけむ、かくとも言はで、門のもとより立ち帰りけるを、「いかに」と問ふ人ありければ、
ことに触れて、情け深き人なりければ、月の光清くすさまじき夜、一人起きゐて、なぐさめがたくや思えけん、高瀬舟に竿差しつつ、心にまかせて戴安道を尋ね行くに、道のほど遥かにて、夜も明け、月も傾 きぬるを、本意 ならずや思ひけむ、かくとも言はで、門 のもとより立ち帰りけるを、「いかに」と問ふ人ありければ、
戴安道=戴逵
松風・波の音、身に染む夕べ、愁への涙いと抑へがたく、小夜も更けゆくほど、空澄み渡る月の光、波に随へるを見ても、「我身一人は沈まざりけり」と思ひ乱れつつ、人もなぎさを物心細くて歩み行くに、波の上遥かに琵琶の調べ様々に聞こえて、掻き合はせなどのありさま、世にたぐひなきほどなり。
松風・波の音、身に染む夕べ、愁への涙いと抑へがたく、小夜 も更けゆくほど、空澄み渡る月の光、波に随 へるを見ても、「我身一人は沈まざりけり」と思ひ乱れつつ、人もなぎさを物心細くて歩み行くに、波の上遥かに琵琶の調べ様々に聞こえて、掻き合はせなどのありさま、世にたぐひなきほどなり。
なぎさ=「渚」と「無き」を懸けている
「海人・武士より他に、誰かはまた情けあるべき」と思えければ、声をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに、「我はこれ商人の妻なり。昔、齢十三にて琵琶を習ひ得たること、世に優れたりき。御門の御前にて、一度調めしに、百の御引出物を賜ひき。また、色・形にめでて、見る人、聞く人、さながら思ひを懸け、心を尽せりき。しかれども、春過ぎ、秋暮れて、みめかたちありしにもあらず衰へにしかば、世にふる力失せ果てて、せんかたなくなりにしより、商人に契を結びて、この国の民となれり。商人、情けなければ、我を惜しむこといと浅し。われを懇ろにせねば、出でて去ぬる後、立ち帰る思ひ怠りぬ。帰るほど遅ければ、みづから待たずしもあらず。かかるままには、ただ空しき船を守りつつ、秋の月のすさまじきをのみ見る」と言へり。
「海人 ・武士 より他に、誰かはまた情けあるべき」と思えければ、声をしるべにて、「誰の人にか」と尋ね問ふに、「我はこれ商人 の妻 なり。昔、齢 十三にて琵琶を習ひ得たること、世に優れたりき。御門 の御前にて、一度 調 めしに、百 の御引出物 を賜ひき。また、色・形にめでて、見る人、聞く人、さながら思ひを懸け、心を尽せりき。しかれども、春過ぎ、秋暮れて、みめかたちありしにもあらず衰へにしかば、世にふる力失せ果てて、せんかたなくなりにしより、商人に契を結びて、この国の民となれり。商人、情けなければ、我を惜しむこといと浅し。われを懇 ろにせねば、出でて去ぬる後、立ち帰る思ひ怠りぬ。帰るほど遅ければ、みづから待たずしもあらず。かかるままには、ただ空しき船を守りつつ、秋の月のすさまじきをのみ見る」と言へり。
白楽天、「我、琵琶の声を聞きて愁へ深し。また、この語らひを聞くに、取り重ねたる心地す。我も君も愁への心同じからずや。必ずその愁への尽きせぬことを思ひ知るべし。我、去むじ年の秋より、司遁れ、京を離れて、この所に沈めり。また、病の筵に臥して、立ち居ることたやすからず。もとも、心細き海つらの波風より他に立ち交じる人もなき住処に、葦の上葉を渡る嵐、おちこち人の船よばふ音のみ聞こへて、いまた楽の声を聞かず。今宵、君が琵琶の声を聞くに、ほとおと天の楽を聞くがごとし」。
白楽天、「我、琵琶の声を聞きて愁へ深し。また、この語らひを聞くに、取り重ねたる心地す。我も君も愁への心同じからずや。必ずその愁への尽きせぬことを思ひ知るべし。我、去 むじ年の秋より、司 遁れ、京 を離れて、この所に沈めり。また、病 の筵 に臥して、立ち居ることたやすからず。もとも、心細き海つらの波風より他に立ち交じる人もなき住処 に、葦の上葉 を渡る嵐、おちこち人の船よばふ音 のみ聞こへて、いまた楽 の声を聞かず。今宵、君が琵琶の声を聞くに、ほとおと天の楽を聞くがごとし」。
この人は、世の中の人の心の皆濁れるを、「憂し」とや思ひけん、一人すまして、常は京に跡をなん留めざりける。
この人は、世の中の人の心の皆濁れるを、「憂し」とや思ひけん、一人すまして、常は京 に跡をなん留めざりける。
この女、かばかり醜き人とも知らず、あひそめにければ、くやしき事取り返すばかりに思えけれど、いふかひなくて明かし暮らすに、良き事、悪しきこと、すべて物いはず、えも笑はで、世の常はむすぼほれてのみ過ぐしけるを、男、たぐひなく「憂し」と思ひて、「この女に物言はせ、うち笑ませばや」としけれども、いかにもかひなくて三年にもなりにけるに、春、野辺に出でて、もろともに遊び侍りけり。
この女、かばかり醜き人とも知らず、あひそめにければ、くやしき事取り返すばかりに思えけれど、いふかひなくて明かし暮らすに、良き事、悪しきこと、すべて物いはず、えも笑はで、世の常はむすぼほれてのみ過ぐしけるを、男、たぐひなく「憂し」と思ひて、「この女に物言はせ、うち笑ませばや」としけれども、いかにもかひなくて三年 にもなりにけるに、春、野辺に出でて、もろともに遊び侍りけり。
雉子といふ鳥の沢のほとりに立ち居侍りけるを、この夫、弓矢を取りて名を得たりければ、この雉子をたちどころに射殺してけり。
この孟光、世にたぐひなくみめ悪くて、これを見る人、心を惑はして騒ぐほどなりけれど、この夫をまたなきものに思ひて、かしづき敬ふこと、思ふにも過ぎたりけり。
この孟光、世にたぐひなくみめ悪 くて、これを見る人、心を惑はして騒ぐほどなりけれど、この夫をまたなきものに思ひて、かしづき敬ふこと、思ふにも過ぎたりけり。
朝な夕なに飯匙取りて、笥子の器物に盛りつつ、眉の上に捧げて、懇ろに勧めければ、「斉眉の礼」とぞ、今は言ひ伝へたる。
朝な夕なに飯匙 取りて、笥子 の器物 に盛りつつ、眉の上 に捧げて、懇 ろに勧めければ、「斉眉 の礼」とぞ、今は言ひ伝へたる。
世にたぐひなきほどに貧しくて、わりなかりけれど、よろづの事を知り、才学並びなうして、琴をぞめでたく弾きける。
世にたぐひなきほどに貧しくて、わりなかりけれど、よろづの事を知り、才学並びなうして、琴 をぞめでたく弾きける。
гуцинь
卓王孫といふ人のもとに行きて、月の明かき夜、夜もすから琴を調べて居たるに、この家主の娘に、卓文君と聞こゆる人、あはれにいみじく思えて、常はこれをのみ賞で興じけるを、この文君が父母、相如に近づくことを厭ひ憎みけれど、琴の音をやあはれと思ひ染みにけん、この男に会ひにけり。
гуцинь
かかれども、このわび人にあひ具したることを、いと心づきなきさまに思ひとりて、いかにも娘の行方を知らざりけれど、露塵苦しと思はでなん、年月を過ぐしける。
かかれども、このわび人にあひ具したることを、いと心づきなきさまに思ひとりて、いかにも娘の行方 を知らざりけれど、露塵 苦しと思はでなん、年月を過ぐしける。
このうちに緑珠と聞こゆる舞姫なん、あまたの中にも優れたりければ、身に代ふばかり浅からず思へりけり。
このうちに緑珠と聞こゆる舞姫なん、あまたの中にも優れたりければ、身に代 ふばかり浅からず思へりけり。
浅からず=底本、「ら」に「か歟」と傍書。諸本「あさからす」
かくて月日を送るに、時の政を執れる人孫秀、この緑珠がたぐひなきありさまを聞く度に、人伝ならざらんことを懇ろに思へりければ、堪へかねて、色に出でぬ。
かくて月日を送るに、時の政 を執れる人孫秀、この緑珠がたぐひなきありさまを聞く度 に、人伝 ならざらんことを懇 ろに思へりければ、堪へかねて、色に出でぬ。
石季倫、「身をはかなきになすとも、心弱はからじ」と思へるを、この人、負けじ心のいちはやさに、兵を集め、勢ひをきはめて、心ざしをやぶる。
石季倫、「身をはかなきになすとも、心弱はからじ」と思へるを、この人、負けじ心のいちはやさに、兵 を集め、勢ひをきはめて、心ざしをやぶる。
石季倫、かの人の手に従ひて行く行く、目を見合はせて、「誰ゆゑにかは、かくなりぬ」と言ひけるに、堪へ忍ぶへき心地せざりけりければ、楼の上より身を投げて死なんとするを、「身に勝る物やはある」と諫むる人、あまたありけれど、つひに聞かず。
石季倫、かの人の手に従ひて行く行く、目を見合はせて、「誰ゆゑにかは、かくなりぬ」と言ひけるに、堪へ忍ぶへき心地せざりけりければ、楼の上より身を投げて死なんとするを、「身に勝 る物やはある」と諫 むる人、あまたありけれど、つひに聞かず。
この宋玉を「いかでも」と思ふ心の忍びがたさに、東の垣に、夜昼立ち添ひて伺ひけれど、三年まで目をだに見遣らざりければ、恋ひ侘びて、つひに逢ふこと知らぬ涙に沈みはてにけり。
この宋玉を「いかでも」と思ふ心の忍びがたさに、東の垣 に、夜昼立ち添ひて伺 ひけれど、三年 まで目をだに見遣 らざりければ、恋ひ侘びて、つひに逢ふこと知らぬ涙に沈みはてにけり。
ゆかしからずはなかりけめど、あまり心の優にて、「人に物を思はせん」と思へりけるにや、また、さもやなかりけん、心の内知りがたし。
ゆかしからずはなかりけめど、あまり心の優 にて、「人に物を思はせん」と思へりけるにや、また、さもやなかりけん、心の内知りがたし。
みめ・形・心ばせなども、いとめづらかなるほどに、世に聞こへたりければ、御門より始めて、色を好む人々、懇ろに挑み言ひけるを、かぎりなく「憂し」と思ひけり。
みめ・形・心ばせなども、いとめづらかなるほどに、世に聞こへたりければ、御門より始めて、色を好む人々、懇ろに挑 み言ひけるを、かぎりなく「憂し」と思ひけり。
かくしつつ月日を過ぎゆけば、燕子楼の内荒れはてて、床の上、傍らさびしく思えけるままには、手づから身づから裁ち着せたりける唐衣を、取り重ねつつ身に触るれど、ありしばかりの匂ひだになかりければ、いとど涙を添ふるつまとなりにけり。
かくしつつ月日を過ぎゆけば、燕子楼の内 荒れはてて、床 の上、傍らさびしく思えけるままには、手づから身づから裁 ち着せたりける唐衣 を、取り重ねつつ身に触るれど、ありしばかりの匂ひだになかりければ、いとど涙を添ふるつまとなりにけり。
かかるままには、寝ても覚めても、このことの忍びがたきを、また言ひ合はする人だになかりけれど、芹を摘み地に臥して、年ごろになりぬれば、さるべきことにや、浅からぬ心の内をそらに知らせ給ひにける。
かかるままには、寝ても覚めても、このことの忍びがたきを、また言ひ合はする人だになかりけれど、芹 を摘み地に臥して、年ごろになりぬれば、さるべきことにや、浅からぬ心の内をそらに知らせ給ひにける。
あはれにいみじくは思されながら、心に任せぬ御身のふるまひなれば、慰む方さらになくて明かし暮らすに、いかなるひまかありけむ、夢に夢見る御心地して、下紐解けさせ給ひにけり。
あはれにいみじくは思されながら、心に任せぬ御身のふるまひなれば、慰む方さらになくて明かし暮らすに、いかなるひまかありけむ、夢に夢見る御心地して、下紐 解けさせ給ひにけり。
唐国の習ひにて、かやうの事世に聞こえぬれば、いみじき大臣・公卿なれども、たちどころに命を召さるる事なれば、またも逢ひ見給はず、后もあはれにたぐひなく思されながら、雲のかけ橋途絶えがちにて、文伝ふばかりの道だになければ、この男、七夕の年に一夜の契をさへ羨みて、人知れぬ涙のみぞ絶ゆる時なかりける。
公卿=底本「しし」。諸本も同じだが、「公卿」を「志々」と誤ったものと見て訂正
思され=底本「おほそれ」。諸本により訂正
思され=底本「おほそれ」。諸本により訂正
形、いとをかしげにて、心ばへなど思ふさまなりければ、互ひに浅からず思ひかはしつつ年月を経るに、思のほかに世の中乱れて、ありとある人、高きも賤しきも、さながら山林に隠れまどひぬ。
形、いとをかしげにて、心ばへなど思ふさまなりければ、互ひに浅からず思ひかはしつつ年月を経るに、思のほかに世の中乱れて、ありとある人、高きも賤しきも、さながら山林 に隠れまどひぬ。
さりがたき親兄弟も四方に立ち別れて、おのが様々逃げさまよへる中に、この人、別れを惜しむ心誰にも優れたりければ、人知れずもろともあひ契りけり。
さりがたき親兄弟 も四方 に立ち別れて、おのが様々逃げさまよへる中に、この人、別れを惜しむ心誰にも優れたりければ、人知れずもろともあひ契りけり。
「我も人も、いづ方となく失せなん後、おのづから世の中静まりて、またもあひ見る事ありなんものを、そのほどの有様をば、いかでか互ひに知るべき」と聞こえさするに、女の年ごろ持ちたりける鏡を中より切りて、おのおのその片々を取りて、月の十五日ごとに市に出だして、この鏡の半ばを尋ねさするものならば、必ずあひ見て、互ひにその有様を知るべし」と言ひつつ、いといたううち泣きて別れ去りぬ。
「我も人も、いづ方となく失せなん後、おのづから世の中静まりて、またもあひ見る事ありなんものを、そのほどの有様をば、いかでか互ひに知るべき」と聞こえさするに、女の年ごろ持ちたりける鏡を中より切りて、おのおのその片々 を取りて、月の十五日ごとに市 に出だして、この鏡の半ばを尋ねさするものならば、必ずあひ見て、互ひにその有様を知るべし」と言ひつつ、いといたううち泣きて別れ去りぬ。
かやうに思ひやりけるにしも、色・形のなまめかしく、花やかなるにやめで給ひけん、時の親王にておはしける人に限りなく思ひかしづかれて、年月を経るに、ありしには似るべくもなき有様なれど、この鏡の片々を市に出だしつつ、昔の契りをのみ心にかけて、世の常はしたもえにてのみ過しけるに、鏡の割れ持ちたる人とて尋ねあひて、男女の有様、互ひにおぼつかなからず知りかはしつ。
かやうに思ひやりけるにしも、色・形のなまめかしく、花やかなるにやめで給ひけん、時の親王にておはしける人に限りなく思ひかしづかれて、年月を経るに、ありしには似るべくもなき有様なれど、この鏡の片々を市に出だしつつ、昔の契りをのみ心にかけて、世の常はしたもえにてのみ過しけるに、鏡の割れ持ちたる人とて尋ねあひて、男女 の有様、互ひにおぼつかなからず知りかはしつ。
女、これを聞きけるより、思えず悩ましき心地うち添ひて、うつし心ならぬ気色を見咎めて、親王、怪しみ問ひ給ふを、さすがに覚えて、しばしは言ひ紛らはしけれど、しひてのたまはすれば、侘しながらありのままに聞こえさせ給ふ。
女、これを聞きけるより、思えず悩ましき心地うち添ひて、うつし心ならぬ気色を見咎 めて、親王、怪しみ問ひ給ふを、さすがに覚えて、しばしは言ひ紛らはしけれど、しひてのたまはすれば、侘しながらありのままに聞こえさせ給ふ。
世のあさましきことに思ひ謗りけれど、いかにも苦しと思えず、ただもろともに台の上にて簫を吹き、月をのみ眺め給ふこと二心なし。
世のあさましきことに思ひ謗 りけれど、いかにも苦しと思えず、ただもろともに台 の上にて簫を吹き、月をのみ眺め給ふこと二心 なし。
世の=「世の人」か
月やうやく西に傾きて、山の端近くなるほどに、心やいさぎよかりけん、簫史・弄玉二人の人を具して、むなしき空に飛び上りぬ。
月やうやく西に傾 きて、山の端 近くなるほどに、心やいさぎよかりけん、簫史・弄玉二人の人を具して、むなしき空に飛び上りぬ。
その後、涙に沈みて、あるにもあらず思えけるを、「我も、我も」と懇ろに挑み言ふ人ありけれど、いかにも許さざりけり。
その後、涙に沈みて、あるにもあらず思えけるを、「我も、我も」と懇 ろに挑み言ふ人ありけれど、いかにも許さざりけり。
その後、二人の后、紅の涙を流し給ひて、古きを思せりければ、籬の呉竹も御涙に染まりて、まだらになりにけり。
その後、二人の后 、紅 の涙を流し給ひて、古きを思せりければ、籬 の呉竹も御涙に染まりて、まだらになりにけり。
年若かりけるとき、女御にいつきかしづかれて、内裏に参りけるに、親しき疎き、「楊貴妃・李夫人の例にも勝りなん」と思へりけるを、あまたの御方々、めざましきことになむ思しける。
年若かりけるとき、女御にいつきかしづかれて、内裏 に参りけるに、親しき疎き、「楊貴妃・李夫人の例 にも勝りなん」と思へりけるを、あまたの御方々、めざましきことになむ思しける。
親しき疎き=底本「したきうとき」。諸本により訂正
この御憤りにや、様々の無きことに沈みて、陵園といふ深き山宮に閉ぢ込められて、あくるめもなき物思ひにやつれつつ、眉目形もありしにもあらずなりにけり。
この御憤 りにや、様々の無きことに沈みて、陵園といふ深き山宮に閉ぢ込められて、あくるめもなき物思ひにやつれつつ、眉目形 もありしにもあらずなりにけり。
かくしつつ、やうやう春にもなりゆけば、四方の山辺に霞たなびき、野辺の早蕨朝の雨に萌えて、心地よげなるも、我身のためは羨しく思えて、花の匂ひ薫り渡るにも、独り寝の床の上、心とどめきせられつつ、あはれを添へたる朧月夜のみ差し入れども、問ふに音無き影ばかりほのかにて、明かし暮らすに、春過ぎ夏たけて、暮れにし秋も廻り来にけり。
かくしつつ、やうやう春にもなりゆけば、四方 の山辺に霞 たなびき、野辺の早蕨 朝 の雨に萌えて、心地よげなるも、我身のためは羨 しく思えて、花の匂ひ薫り渡るにも、独り寝の床の上、心とどめきせられつつ、あはれを添へたる朧月夜のみ差し入れども、問ふに音無き影ばかりほのかにて、明かし暮らすに、春過ぎ夏たけて、暮れにし秋も廻り来にけり。
さまざま咲き乱れたる白菊の夕露に濡れたるを見るにも、昔の重陽の宴といひしこと思ひ出でられて、落つる涙、いとど抑へがたかりけり。
さまざま咲き乱れたる白菊 の夕露 に濡れたるを見るにも、昔の重陽の宴といひしこと思ひ出でられて、落つる涙、いとど抑へがたかりけり。
御門、「あやし」と思して、このよしを問はせ給ふに、「わが君に慣れつかうまつりしほど、つゆちり気色に違ひ奉らざりき。また、御心ざし浅からねば、恨みを残すこともなし。しかれとも病に沈み、形変はりて後、身を背く罪あるべけれども、また、思ふ所なきにあらず。紫の草のゆかりまで恵み給ひ、哀れみをかうぶる事は、ただ君の御心ざしの改まらざるほど也。しかるを、今の形、昔の御心変りなば、はかなきあとにも愁への涙色まさることを思ふに、衰へ姿、いと見え奉り申し」と聞こえさす。
御門、「あやし」と思して、このよしを問はせ給ふに、「わが君に慣れつかうまつりしほど、つゆちり気色に違 ひ奉らざりき。また、御心ざし浅からねば、恨みを残すこともなし。しかれとも病に沈み、形変はりて後、身を背く罪あるべけれども、また、思ふ所なきにあらず。紫の草のゆかりまで恵み給ひ、哀れみをかうぶる事は、ただ君の御心ざしの改まらざるほど也。しかるを、今の形、昔の御心変りなば、はかなきあとにも愁への涙色まさることを思ふに、衰へ姿、いと見え奉り申し」と聞こえさす。
ただこの世にて、今一度会ひ見んことを、強ひてのたまはすれども、遂に聞かではかなくなりにければ、御門、御心に恨み深し。
ただこの世にて、今一度 会ひ見んことを、強ひてのたまはすれども、遂に聞かではかなくなりにければ、御門、御心に恨み深し。
また、亡き人の魂返す香を焚きて、夜もすがら待たせ給ふに、九重錦の帳の内、かすかにて、夜の灯火の影ほのかなる、やうやく小夜更けゆくほど、嵐すさまじく、夜静かなるに、「反魂香の験あるにや」と思え給ひけれど、李夫人の形、有るにもあらず、無きにもあらず、夢幻のごとくまがひて、束の間に消え失せぬ。
また、亡き人の魂返す香を焚きて、夜もすがら待たせ給ふに、九重 錦の帳の内、かすかにて、夜の灯火の影ほのかなる、やうやく小夜 更けゆくほど、嵐すさまじく、夜静かなるに、「反魂香の験 あるにや」と思え給ひけれど、李夫人の形、有るにもあらず、無きにもあらず、夢幻 のごとくまがひて、束の間に消え失せぬ。
幻と聞こゆる仙人に仰せて、蓬莱不死の薬取りに遣はしつつ、はかなき御遊び・戯れにも、この世にながらへておはせんことをぞ、いとなみ給ひける。
おほよそ人の好み願ふことは、必ずむなしからねば、この御時、東方朔といふ人、仙宮より罪犯して、暫く人間に下されたりけるを、御門、間近く召し使ひて、よろづおぼつかなく思されけることをば、まづこの人にぞ問はせ給ひける。
かかるほどに、宮の内に、色黄なる雀の例の色にも似ずあやしきさましたる、飛び遊びけるを、御門、「日ごろかかる鳥見えず。いかなることにか」と問ひ給ふに、東方朔、申していはく、「君、長生不死の道を好み給ふにより、御心にめでて、『西王母と申す仙女、参りて遊び奉らん』と告げ知らする由の使ひなり」と聞こえさするに、御門、嬉しく思さるること限りなし。
かかるほどに、宮の内に、色黄なる雀の例の色にも似ずあやしきさましたる、飛び遊びけるを、御門、「日ごろかかる鳥見えず。いかなることにか」と問ひ給ふに、東方朔、申していはく、「君、長生不死の道を好み給ふにより、御心にめでて、『西王母と申す仙女、参りて遊び奉らん』と告げ知らする由 の使ひなり」と聞こえさするに、御門、嬉しく思さるること限りなし。
御門=底本「帝」
「いかなる有様にて、その人を待つべきぞ」とのたまはするに、「宮の内静かにて、庭の面を浄め、香を焚き、様々の床を設け給ふべし」と申しけり。
「いかなる有様にて、その人を待つべきぞ」とのたまはするに、「宮の内静かにて、庭の面 を浄め、香を焚き、様々の床 を設 け給ふべし」と申しけり。
かくて、頼めしほどにもなりぬれば、御門、御心すみやきつつ、床のもとに、東方朔を隠し置きて、人知れず、「今や、今や」と待たせ給ふに、秋八月ばかり、月の光くまなき夜、香ばしき風うち吹きて、晴の空のどかなるに、紫の雲一群たなびきけり。
かくて、頼めしほどにもなりぬれば、御門、御心すみやきつつ、床のもとに、東方朔を隠し置きて、人知れず、「今や、今や」と待たせ給ふに、秋八月ばかり、月の光くまなき夜、香ばしき風うち吹きて、晴の空のどかなるに、紫の雲一群 たなびきけり。
御門=底本「帝」
これを御口に触れ給ひけるより、御身も軽く御心地も涼しくならせ給ひて、空にも飛び昇りぬべく、生死・罪障も解けぬべくや思しけん、「この桃、我園に移し植ゑて種をも取りてしがな」とのたまひけるに、西王母うち笑ひて、「天上の木の実の、人間に留まり難くや」となん言ふにも、足らずげに思せり。
これを御口に触れ給ひけるより、御身も軽く御心地も涼しくならせ給ひて、空にも飛び昇りぬべく、生死・罪障も解けぬべくや思しけん、「この桃、我園に移し植ゑて種をも取りてしがな」とのたまひけるに、西王母うち笑ひて、「天上の木 の実の、人間に留まり難くや」となん言ふにも、足らずげに思せり。
夜、やうやう明け方になるほどに、「その御床下に隠れ居て侍りける東方朔は、仙宮の人なり。しかも、かの三千年に一度なる桃を三度まで盗める罪によりて、しばらく人間に下されたる。咎を贖ひて後は、また天上に返り来たるべきなり」とのたまひて、紫の雲立ち返りぬ。
夜、やうやう明け方になるほどに、「その御床下 に隠れ居て侍りける東方朔は、仙宮の人なり。しかも、かの三千年 に一度 なる桃を三度 まで盗める罪によりて、しばらく人間に下されたる。咎 を贖 ひて後は、また天上に返り来たるべきなり」とのたまひて、紫の雲立ち返りぬ。
異腹の親王に、趙の隠王と申す人を、御心ざしのあまりにや、御門、東宮に立てんと思しける御気色を、呂后見給ひて、あさましう心憂きことに思して、陳平・張良と聞こゆる二人の臣下を召し寄せて、「かかるいみじきことなんある。いかにしてかこの恨みをやすむべき」とのたまひあはするを、「げに」とや思ひけん、「かなはざらんまでも、はからひ侍るべし」と答えて返りぬ。
「商山といふ山に、世を遁れ、御門の召するにも参らで、籠り居たる賢人四人あり。それをこしらへ出だして、この恵太子に付け奉りたらば、さりとも恥づる心おはしなん物を」と思ひよりて、この山のなかに尋ね行きにけり。
四人の人、うち見つつ驚きていはく、「何事にいとかくあやしげなる住処には渡り給へるにか」と聞こえさする。
四人の人、うち見つつ驚きていはく、「何事にいとかくあやしげなる住処 には渡り給へるにか」と聞こえさする。
「世の中乱れんとつかまつれば、我らが身までも歎き深くて、この山に隠れ居むと思ふ心侍り。しかれども、世の中の亡び治まらざらむことは、ただその御心なり」と言へるに、この人うち笑ひて、「君も、我に所置き恥ぢ給はんこと、いとありがたかるべけれど、むなしう返し奉らんもむげに情けなき様なれば、後のことをかへりみず、今日ばかりは御送りに参るべし」と言へりければ、限りなく嬉しく思えて、四人の人を具しつつ、東宮の御もとへ参りぬ。
聞こえさする=諸本「聞こえさするに」
たちまちに、学士といふ官になりて、ふるまひ給ふべき有様など、細やかに教へ奉るに、頼もしく思さるること限りなし。
たちまちに、学士といふ官 になりて、ふるまひ給ふべき有様など、細やかに教へ奉るに、頼もしく思さるること限りなし。
かくて、年立ちかへる朝、東宮、内に参り給へる御供に、この人ども四人、いとやうやうしくふるまひ、気高きさまにて御供に侍りけるを、御門より始め、つかうまつる人どもも、おのおのあやしげに思へり。
かくて、年立ちかへる朝 、東宮、内に参り給へる御供 に、この人ども四人、いとやうやうしくふるまひ、気高きさまにて御供に侍りけるを、御門より始め、つかうまつる人どもも、おのおのあやしげに思へり。
これによりて、御門、四皓にのたまはく、「我、昔より汝に国の政を任せんと思へりしかども、あへて聞かざりき。しかるを、若くいとけなき東宮に従へる心知りがたし」。
これによりて、御門、四皓にのたまはく、「我、昔より汝に国の政 を任せんと思へりしかども、あへて聞かざりき。しかるを、若くいとけなき東宮に従へる心知りがたし」。
御門=底本「春宮」
東宮=底本「春宮」
東宮=底本「春宮」
四皓、申していはく、「君は御心かしこくて、世中を平らげ、国を治め給へども、人を侮り、かしこきをも軽め給ふ誤ちおはします。東宮は若くおはすれども、御心をきて情け深く礼儀を正しくし給ふと聞こえ侍るによりて、参りつかうまつれり」と聞こえさせければ、「東宮は我よりも心かしこきにや」と思して、このことを思ひ止まらせ給ひにけり。
四皓、申していはく、「君は御心かしこくて、世中を平らげ、国を治め給へども、人を侮 り、かしこきをも軽 め給ふ誤ちおはします。東宮は若くおはすれども、御心をきて情け深く礼儀を正しくし給ふと聞こえ侍るによりて、参りつかうまつれり」と聞こえさせければ、「東宮は我よりも心かしこきにや」と思して、このことを思ひ止まらせ給ひにけり。
東宮=底本「春宮」
礼儀=底本「礼義」
礼儀=底本「礼義」
この趙隠王の母に、戚夫人と聞こゆる人は、御門を恨み妬み奉り給ひけるを、呂后いやましく心憂きことにぞ思しける。
この趙隠王の母に、戚夫人と聞こゆる人は、御門を恨み妬 み奉り給ひけるを、呂后いやましく心憂きことにぞ思しける。
かかるほどに、御門はかなくなり給ひにけれは東宮、位につきて、よろづ御心に任せたりけれども、呂后、年ごろの御憤りにや、いつしか戚夫人を捕へて、髪を剃り、形をやつして、あさましく心憂き様になし給ひつるを、御門、「かからで侍りなむ。このこと、定めて先帝の御心に背くらん」など、様々に諫め奉り給へども、いかにもかなはざりければ、心苦しくおはしつつ過し給ふに、この趙隠王さへ失なはんとし給ひければ、御門と夜も御傍に放たず起き臥し給ひけり。
かかるほどに、御門はかなくなり給ひにけれは東宮、位 につきて、よろづ御心に任せたりけれども、呂后、年ごろの御憤りにや、いつしか戚夫人を捕へて、髪を剃り、形をやつして、あさましく心憂き様 になし給ひつるを、御門、「かからで侍りなむ。このこと、定めて先帝の御心に背くらん」など、様々に諫 め奉り給へども、いかにもかなはざりければ、心苦しくおはしつつ過 し給ふに、この趙隠王さへ失なはんとし給ひければ、御門と夜も御傍 に放たず起き臥し給ひけり。
東宮=底本「春宮」
御門と=「と」は衍字か
御門と=「と」は衍字か
かやうに人知れずねんごろにし給ひけれど、いかなる隙かありけん、たぐひなく力強き女房二三人ばかりを遣はして、御門の御傍に臥し給へる人を、情けなく把み殺してけり。
かやうに人知れずねんごろにし給ひけれど、いかなる隙かありけん、たぐひなく力強き女房二三人ばかりを遣はして、御門の御傍 に臥し給へる人を、情けなく把 み殺してけり。
御門=底本「帝」
さて、この戚夫人、月隈なかりける夜、心憂く悲しきにつけても、昔の有様や思ひ出でられけん、そのよしの詩を、何となく口ずさみたりけり。
さて、この戚夫人、月隈なかりける夜、心憂く悲しきにつけても、昔の有様 や思ひ出でられけん、そのよしの詩を、何となく口ずさみたりけり。
耳癖ありける者、これを聞き咎めて、「かかることなん侍り」と呂后に申したりけるに、今ひとしほの憎さ勝りて、足・手を切りつつ、その骸には漆を塗りて、世に穢らはしく汚なき溝にひたして、置かれたる有様のその物とも見えず、哀れに悲しげなり。
これより先に商山四皓は、御門の御有様を心安く見なし奉りて後、暇を申して、もとの住処に帰りぬるを、世の人、喩へをとりて讃めていはく、「世の中の日照りにあひて、草木も枯れ、土さへ裂けて、人の命も絶えぬべきに、一度雨降りつつ四方の木末を潤し、門田の稲葉も露しげく結びぬる後、八重の雨雲山に帰り居るなるべし」となむ言ひけるこそ、まことにさもと思ゆれ。
これより先に商山四皓は、御門の御有様を心安く見なし奉りて後、暇 を申して、もとの住処 に帰りぬるを、世の人、喩へをとりて讃めていはく、「世の中の日照りにあひて、草木も枯れ、土さへ裂けて、人の命も絶えぬべきに、一度 雨降りつつ四方 の木末 を潤し、門田 の稲葉も露しげく結びぬる後、八重 の雨雲山に帰り居るなるべし」となむ言ひけるこそ、まことにさもと思ゆれ。
end=>底本、ここで改行
また、周文王と申ける御門の御時、公望と聞こゆる賢人、御門に召し出だされて後、官位身に余れるに喜びて、帰る思ひなかりけり。
また、周文王と申ける御門の御時、公望と聞こゆる賢人、御門に召し出だされて後、官位 身に余れるに喜びて、帰る思ひなかりけり。
公望=呂尚・太公望。底本、「コウハウ」と傍書。
尭と申す御門、許由に位を譲らんとて、三度まて召しけるを、「汚なきことを聞きつ」と言ひて、穎水といふ川に耳を洗ひけるも、「いかなることにか」と、をかしきやうに聞こゆ。
尭と申す御門、許由に位を譲らんとて、三度 まて召しけるを、「汚なきことを聞きつ」と言ひて、穎水といふ川に耳を洗ひけるも、「いかなることにか」と、をかしきやうに聞こゆ。
end=>底本、ここで改行
昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天の下穏しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。
昔、唐の玄宗と申しける御門の御時、世の中めでたく治まりて、吹く風も枝を鳴らさず、降る雨も時を違へざりければ、皆人、天 の下穏 しきに誇りて、花を惜しみ、月をもてあそぶより他のいとなみなし。
1
御門も、色にめで香にのみ耽り給へる御心の暇なさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政怠らせ給ひけり。
御門も、色にめで香 にのみ耽 り給へる御心の暇 なさにや、よろづをば左大臣と聞こゆる人に任せて、やうやくみづからの政 怠らせ給ひけり。
その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅の蓮初めて開けたるにや」と見ゆ。
その形、秋月の山の端より高く昇る心地して、そのいきざしは、「夏の池に紅 の蓮 初めて開けたるにや」と見ゆ。
色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。
色ざし、歩み出で給へる気色、かなひたる物柄 、気高くあひあひしくて、さすがまた思ふところあるさまにふるまひ給へり。
また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理と思へり。
また、上の御心の内に思せることをば、さながらそらに知りて振舞ひければ、限りなき御心ざしをも、世の人、理 と思へり。
この親王、瑠璃の玉の笛を帳の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。
この親王、瑠璃の玉の笛を帳 の内に隠し置かせ給へりけるを、楊貴妃、何となく吹き鳴らし給ふ。
笛=底本「ふみ」。諸本により訂正
御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。
御門これを御覧じつけて、「玉の笛はあるじにあらずして吹くことなし。しかるを、心ざしの重きに誇りて、礼を過 てり。事の乱れにはあらずや」と、ことのほかに御気色変りにけり。
「我が身の肌、頭の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。
「我が身の肌 、頭 の髪ならずは、皆これ君の賜物にあらずや。しかるを、我、今御心に背きぬれば、罪に伏して怠りを申すべし」と、泣く泣く聞こえさせ給ふに、御使ひも、いとはしたなきまで思えつつ、このよしを奏するに、御心も慌て、物も思えさせ給はずながら、時の間に召し返して、「世になほたぐひなくもある心ばせかな」と思し続くるに、御心ざしの深さ、日ごろには過ぎにけり。
御門=底本「帝」
初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女・彦星の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。
初秋の七日の夕べ、驪山宮に行幸し給ひて、織女 ・彦星 の絶えぬ契りを羨み、はかなきこの世の別れやすきことをぞ、かねて歎き給ひける。
かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。
かくて年月を送らせ給ふに、右大臣楊国忠、楊貴妃の兄人 にて世の政を執れりけれど、人の心に背くこと多く積りにければ、世の中憤り深くなりぬ。
2
かくて、蜀といふ国へ退き去らせ給ふに、「いかならむ野の末・山の中なりとも、この人だに二人あらば、生けらん限り思ふことあらじ」と思さるるに、人の気色、思はずに変りて、はしたなく見えければ、御門、怪しみ問はせ給ふ。
陳玄といふ人、東宮に申していはく、「はやく楊国忠、政事を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。
陳玄といふ人、東宮に申していはく、「はやく楊国忠、政事 を乱り、人の心を破るゆへに、君も今日この事にあはせ給ふ。しかじ、ただ楊国忠を失なひて、人の愁へを休めんには」と聞こえさす。
東宮=底本「春宮」
この時、上、楊貴妃の免るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。
この時、上、楊貴妃の免 るまじきことを知らせ給ひにければ、御顔に袖を覆ひて、ともかくも聞こえさすることなし。
この世に楊貴妃、いかならん巌の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。
この世に楊貴妃、いかならん巌 の中なりとも、おぼつかなからぬ御住まひならば、いと心くるしからず思しけるに、「思ひのほかに命も絶えぬべきにや」と浅からぬ別れの涙、血潮の紅 よりも色深くて、せんかたなく見えながら、なほ御門に目をかけ奉りて、かくれさせ給ひて、返り見給へる御ありさま、なにに譬ふべしとも見えず。
御門=底本「帝」
撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏ひつつ、ついにはかなくなし奉る。
撫子の露に濡れたるよりもらうたく、青柳の風に従へるよりもなよらかに、太液の芙蓉、未央の柳に通ひ給へるをしも、情けなく、道のほとりの寺の中にして、練りたるきぬを御頸に引き纏 ひつつ、ついにはかなくなし奉る。
太液=底本「大液」
御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧に疲れて、御門に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。
御心迷ひにや、馬の上危うく見えさせ給へば、人々うらうへに添ひ奉りて、やうやう行かせ給ふに、兵ども、糧 に疲れて、御門に従ひ奉らんこと、二心なきにあらねば、陳玄礼もとどむべき心地せず。
御門=底本「帝」
かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。
かかるほどに、益州といふ国より貢ぎ物数知らず運べりけるを、御前に積み置かせて、さぶらふ人々に分かち賜はせて宣はく、「我、政の澄み濁れるを知らざりしより、この乱れにあへり。我が身一つによりて、去り難き親・兄弟 にも別れ、二つなき命をも捨てて、なほ我に従へり。我また石木 ならねば、報ふ心浅からむや。はやくこの物を賜ふて、おのおの故郷へ帰りね」と宣はする、御袖の上、秋の草葉よりも露けく見ゆ。
3
兄弟=底本「はらか」。諸本により補う
兄弟=底本「はらか」。諸本により補う
夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。
夜もやうやう明け方になりぬれば、出で行かせ給ふに、有明の月西に傾くほど、雲居遥かに鳴き渡る雁 を聞かせ給ふにも、御心のうち、かき暗されて、いづ方へ行くとも思されず。
これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理なり。
これにつけても、「九重の錦の帳の内のたまものの上に枕を並べ、衣を隔てざりし昔は、我何事を思ひけん」など思されけるも、まことに理 なり。
池の蓮夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。
池の蓮 夏開け、庭の木の葉秋散れるごとに、御心の慰め難さ、たぐひなく思されける時は、はかなく別れにし野辺に行幸せさせ給ひけれど、浅茅が原に風うち吹きて、夕の霧玉と散るを御覧じても、消えなで名残か有るべき。
春の風に花の開きたる朝、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面に咲き乱れ、色々の紅葉、階の上に散り積む。
春の風に花の開きたる朝 、秋の雨に木の葉散る夕べ、宮の内荒れ寂しくて、様々の草の花、庭の面 に咲き乱れ、色々の紅葉、階 の上に散り積む。
壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。
壁に背けたる残りの灯火、光かすかにて、朝夕もろともに起き臥し給ひし床の上も、塵積りつつ、古き枕古き衾 むなしくて御かたはらにあれども、誰と共にか御身にも触れさせ給ふべき。
かくて二年ばかりにもなりぬるに、幻といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。
かくて二年 ばかりにもなりぬるに、幻 といふ仙人参りて、「我が君の御心に楊貴妃を思せることの、限りなきそこを知れり。六の道おぼつかなき所なし。願はくは、生まれ給ひつらん所を尋ね見て、帰り参らん」と聞こえさする。
4
方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。
方士も袖のしずく隙なくて、やや久しくなるほどに、楊貴妃宣はく、「天宝十四年よりこのかた、御心の内を思ひやるに、悩ましく苦しきこと限りなし。かばかり妙 なる所に生まれたれど、契りの深きによりて、我、浮名を留めし故郷のみ心にかかれる」など、様々に宣はするありさま、なほ霓裳羽衣の舞にぞ似給へる。
方士、これを取りて、こと浅くや思ひけん、「黄金の簪は、たぐひなき物にもあらず。そのかみ、さだめて人知れぬ御契りありけんものを、願はくは承りて奏せしめん」と言ふに、楊貴妃、気色変り、涙まさりて、思し乱るることありと見ゆ。
「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨おびたり。
「昔、天宝十年の秋、驪山宮にはべりし時、織女 ・彦星あひみる夕べ、長生殿の内音なくて、夜半の気色ものあはれなりしに、御門、我に立ち添ひて宣ひき。『天にあらば羽をかはす鳥となり、地にあらば枝をかはす木とならん』と。これ、君より他にまた知る人なし。この契り、限りなきによりて、必ず下界に落ちて、さだめて二たびあひ見て、むつまじきこと古きかごとくならむ。我、このことをかねて知れり。思へばしかも悲しくて、思へばまた嬉しからずや」など、聞こえさせ給ふ御有様にも、忍び難き御心のうちあらはれて、馬嵬の道のほとりに、今は限りと見え給ひし夕べの恨みも、なほただ今のやうに思せる気色、まことに梨花一枝春雨 おびたり。
極楽を願ふとも、この世に執を留めば、纜を解かで舟を出ださんがごとし。
極楽を願ふとも、この世に執を留めば、纜 を解かで舟を出ださんがごとし。
解かで=底本、「とひて」とあり、「ひ」に「か歟」と傍書。傍書に従う。
世に貧しくわりなくて、せんかたなかりけれど、文を読み、物を習ふこと怠らず、そのひまには薪をこりて、世を渡るはかりごとをしけり。
世に貧しくわりなくて、せんかたなかりけれど、文 を読み、物を習ふこと怠らず、そのひまには薪をこりて、世を渡るはかりごとをしけり。
かくて年月を経るに、あひ具したりける女、限りなく貧しき住居を堪へ難くや思ひけん、「我も人もあらぬさまになりて、世を試みん」など、細やかにうち語らひければ、「かくてしもやあり果つべき。今年ばかり心強くあひ念ぜよ」と、よろづこしらへけれど、つひに聞かで、その年のうちに離れにけり。
」と=底本「と」なし
かかれども、なほありし妻のことを心にかけて、一国のうちを尋ね求めさすれど、似たる人なくて明かし暮らす。
かかれども、なほありし妻のことを心にかけて、一国 のうちを尋ね求めさすれど、似たる人なくて明かし暮らす。
園に出でて狩りし遊びけるとき、こともなのめならず、あやしく侘しげなる賤の女が、筐といふ物を肘にかけて、菜を摘みてゐざり歩くを、「ゆゆしげなる者の姿かな」と見るほどに、我が昔のともに見なしてけり。
菜を摘みて=底本「猶つみて」。尊経閣文庫本「なをつみて」。底本に従えば「なほ積みて」となるが、菜摘みに男女の出会いの意味があるため、「菜を摘みて」と解する。
なほ、「僻目にや」と目をとめて見けるに、いかにも違ふ所なかりければ、人知れず悲しく思えて、暮るるや遅きと呼び取りてけり。
なほ、「僻目 にや」と目をとめて見けるに、いかにも違ふ所なかりければ、人知れず悲しく思えて、暮るるや遅きと呼び取りてけり。
女、「我過つこともなきに、いかなることに当りなんずるにか」と、恐れ惑ひけれど、ありし昔のことなどを細やかに語らひければ、女、あさましく思えて、この夫をうち見るより、いかが思ひけん、いたく悩み煩ひて、暁方に絶え入りにけり。
屠岸賈といふ人、争ふ心やありけん、ややもすれば、「この趙朔を退けん」と思ふ心深くて、失を求め、無きことを言ひつけて、罪に行なはるべきよしを主に言ひけれども、用ゐられざりければ、心中に憤り深くて明かし暮らすに、なほやすめ難くや思えけん、趙朔を始めとして、兄弟さなから亡ぼし失なひてけり。
屠岸賈といふ人、争ふ心やありけん、ややもすれば、「この趙朔を退けん」と思ふ心深くて、失を求め、無きことを言ひつけて、罪に行なはるべきよしを主 に言ひけれども、用ゐられざりければ、心中に憤り深くて明かし暮らすに、なほやすめ難くや思えけん、趙朔を始めとして、兄弟さなから亡ぼし失なひてけり。
亡ぼし=底本「ほのほし」。諸本により訂正
折しも、ただならぬことさへありて、隠れ惑ふにつけても、わりなく悲しかりけるを、杵臼・程嬰といふ二人のつかはれ人、主を思ふ心深ければ、人知れず隠し育みて、「もし生まれたらん子、男子ならば、親の敵をも思ひ知りなん。ただ、いかにもして、事なく人とならむことを思ひはからひけるを、敵、漏れ聞きて、めざましくなん思えければ、なほ尋ね求めても、その跡を失なはん」と思へりけり。
折しも、ただならぬことさへありて、隠れ惑ふにつけても、わりなく悲しかりけるを、杵臼・程嬰といふ二人のつかはれ人、主を思ふ心深ければ、人知れず隠し育みて、「もし生まれたらん子、男子 ならば、親の敵 をも思ひ知りなん。ただ、いかにもして、事なく人とならむことを思ひはからひけるを、敵、漏れ聞きて、めざましくなん思えければ、なほ尋ね求めても、その跡を失なはん」と思へりけり。
わりなく=底本「はりなく」。諸本により訂正
母の心に、せんかたなく思えながら、着たりける袴の中に子を入れて、教へていはく、「親の跡を継ぎて、君に仕へ奉るべきものならば、物の心を知らずいとけなしといふとも、声を立てて泣くことなかれ。もしまた、この時に当りて、子孫長く絶ゆべきならば、早く泣くべし」と心の内に思ひつつ、深く隠れ居たるに、本意のごとくおとなかりければ、敵求めかねて帰りぬ。
程嬰、答へていはく、「死なむは易し。平らかに養ひ立てんことはいと難し」と言ふに、杵臼がいはく、「恩の深きことは、君、我に勝れりき。易きにつけても、我まづ死なば、その後難きことを遂げて、必ず仇を報ひ給へ」と言ひつつ、幼なき子を一人抱きて、深き山の中に隠れ居たり。
程嬰、答へていはく、「死なむは易し。平らかに養ひ立てんことはいと難し」と言ふに、杵臼がいはく、「恩の深きことは、君、我に勝れりき。易きにつけても、我まづ死なば、その後難きことを遂げて、必ず仇 を報ひ給へ」と言ひつつ、幼なき子を一人抱 きて、深き山の中に隠れ居たり。
程嬰、敵に告げて、偽りていはく、「我、求め給へる子のあり所を知れり。願はくば、金千両を給へて、教へ奉らん」と言へるを、敵、喜び騒ぎて、たちまちに金千両を与へつ。
程嬰、敵に告げて、偽りていはく、「我、求め給へる子のあり所を知れり。願はくば、金 千両を給へて、教へ奉らん」と言へるを、敵、喜び騒ぎて、たちまちに金千両を与へつ。
杵臼、叫びていはく、「愚かなるかな程嬰。昔の恩を忘れて、もろともに人となさずといふとも、いかでか千々の金に耽りて、一人の子をば殺すべき。今は我を失なはんことは、そのいはれなきにあらず。いとけなき子におきては、何の罪かはあるべき。願はくは生けよ」と言ひけれど、たちまちに二人ながら殺しつ。
もろとも=底本「もつとも」。諸本により訂正
子に=底本「子には」。諸本により訂正。
子に=底本「子には」。諸本により訂正。
しかれば、いかなることをしてか、この病をやむべき」と宣ふに、韓厥といふ人、よろづに暗きことなかりければ、はからひ申していはく、「趙朔が後を仕はせ給ふべし。十五になる子一人、平らかにて侍り。有様をば細かに知らせ給はずや」と申しけり。
しかれば、いかなることをしてか、この病をやむべき」と宣ふに、韓厥といふ人、よろづに暗きことなかりければ、はからひ申していはく、「趙朔が後 を仕はせ給ふべし。十五になる子一人、平らかにて侍り。有様をば細かに知らせ給はずや」と申しけり。
「あさまし」と思して、たちまちに召しとりて見給ふに、昔殺されし親に、つゆばかりも違はず似たりけるを、あはれにいみじく思して、いつしか父の後を継がせ、位、身にあまるほどになりて後、本意のごとく親の敵を滅ぼし失なひつ。
「あさまし」と思して、たちまちに召しとりて見給ふに、昔殺されし親に、つゆばかりも違 はず似たりけるを、あはれにいみじく思して、いつしか父の後を継がせ、位、身にあまるほどになりて後、本意のごとく親の敵を滅ぼし失なひつ。
かくて後、この主に暇を乞ひていはく、「我は早く死に侍りなん」と言ふ時に、主、物思えず、心慌てて、「こはいかに」と言へり。
かくて後、この主に暇 を乞ひていはく、「我は早く死に侍りなん」と言ふ時に、主、物思えず、心慌てて、「こはいかに」と言へり。
程嬰いはく、「我、昔杵臼に誓ひき。易きにつけてまづ死なば、恩の深きによりて、難きことを遂げて後、必ず報ふべしと申しき。しかるを、我、今死なずば、杵臼にそら頼めするにあらずや。かしこき人は言ひつることを違へず」とばかり聞こえて、遂に我身を刺し殺しつ。
この時に主、あやなく思して、「かかることを見ながら世にあらんことは恥なる」と思えけれど、むなしく父の跡を断たむことは本意ならず思えければ、命をば捨てずして、藤の衣をぞ、三年まで脱がざりける。
この時に主、あやなく思して、「かかることを見ながら世にあらんことは恥なる」と思えけれど、むなしく父の跡を断たむことは本意ならず思えければ、命をば捨てずして、藤の衣 をぞ、三年 まで脱がざりける。
昔、平原君と聞こゆる人、三千人のつかはれ人を集めて、これをあはれみ、ねんころに思ひけるに、この主の思ひ妻、高き楼の上に居て四方を見渡しけるに、足萎えたる者の、這ふ這ふゐざりつつ水を汲みに行きけり。
昔、平原君と聞こゆる人、三千人のつかはれ人を集めて、これをあはれみ、ねんころに思ひけるに、この主 の思ひ妻、高き楼の上に居て四方 を見渡しけるに、足萎えたる者の、這ふ這ふゐざりつつ水を汲みに行きけり。
平原君=底本「平元君」。諸本も同じだが、出典により訂正。
これを=底本「たれを」。諸本により訂正
これを=底本「たれを」。諸本により訂正
声を聞きて、「我かかる病に煩ひて、年久しくなりぬ。今初めて人の笑ひ嘲るべきにあらず。これひとへに、君の色を好みて、つかはれ人を軽しめ給ふゆへなり。もし我を捨てぬ御心ならば、笑ひつる人を失なひ給ふべし」と強ひて主に愁ふるに、「おのれが愁へをやすむべし」とは言ひながら、さすがにあるべくもなきことなれば、その後月日を経るに、三千人のつかはれ人、やうやう数少なくなりゆくを、「我、いささかも過つことなし。しかれども、恨みをいだきて遁れ去るも心知り難し」と、おのおのに言ひ下せり。
この中に、殊に詳らかなる者、申していはく、「君、この片輪人をすかし給へり。これ我らが身の上にあらずや。もし、かくのごときならば、なにを頼もしと思ひてか、身を捨て心を励まして、君に仕へ奉るべき」と言へり。
この中に、殊 に詳 らかなる者、申していはく、「君、この片輪人をすかし給へり。これ我らが身の上にあらずや。もし、かくのごときならば、なにを頼もしと思ひてか、身を捨て心を励まして、君に仕へ奉るべき」と言へり。
おほかたこれならず、唐国の習ひにて、賤しき武士なれど、言ひ立ちぬることを、御門もその心ざしをば、やぶらせ給はぬにや。
おほかたこれならず、唐国 の習ひにて、賤 しき武士 なれど、言ひ立ちぬることを、御門もその心ざしをば、やぶらせ給はぬにや。
灯火の風に消えたりけるひまに、后の御袖を取りて引きたりけるを、限りなく憤り深くや思しけん、御手をさしやりて、この男の冠の纓を取りて、「かかる事なん侍り。早く火を灯して、纓無からん人をそれと知らせ給へ」と申し給ふを、主もとより人を憐れみ情け深くおはしければ、灯火消えたるほどに、「これに侍る人々、おのおの纓を取りて奉るべし。その後火は灯すべし」と宣はするに、この男、涙もこぼれて嬉しく思えけり。
灯火の風に消えたりけるひまに、后の御袖を取りて引きたりけるを、限りなく憤り深くや思しけん、御手をさしやりて、この男の冠 の纓 を取りて、「かかる事なん侍り。早く火を灯して、纓無からん人をそれと知らせ給へ」と申し給ふを、主 もとより人を憐れみ情け深くおはしければ、灯火消えたるほどに、「これに侍る人々、おのおの纓を取りて奉るべし。その後 火は灯すべし」と宣はするに、この男、涙もこぼれて嬉しく思えけり。
かかれども、この人、「いかにしてか、主の情けを報ひ奉らん」と、心のうちに思へりけるに、主、敵の国に攻められて、危うきほどにおはしけるを、この人一人、身を捨てて戦ひければ、主勝たせ給ひにけり。
かかれども、この人、「いかにしてか、主の情けを報ひ奉らん」と、心のうちに思へりけるに、主、敵 の国に攻められて、危うきほどにおはしけるを、この人一人、身を捨てて戦ひければ、主勝たせ給ひにけり。
このことを思はずにあやしく思して、そのゆゑを尋ね問はせ給ふに、この人申していはく、「昔、后に纓を取られ奉りて、思ひやるかたなく思しし時、誰となくまぎらはし給ひしこと、我、今に忘れ侍らず」と泣く泣く申しけり。
三年ばかりになりぬれば、月日の過ぐるままには、いとどたぐひなくのみ思えて、さまざまに浅からず契りおきけることども、あまたたびになりぬ。
この男、思ひの他に年ごろ住み渡りける妻はかなくなりて、歎きやうやうおこたるほどに、この女を、「あはれ、いかでか」と、思ふに堪へぬ気色、色に出でぬ。
この男、思ひの他に年ごろ住み渡りける妻 はかなくなりて、歎きやうやうおこたるほどに、この女を、「あはれ、いかでか」と、思ふに堪へぬ気色、色に出でぬ。
この女、「悲し」と思ひて、様々にあるまじきよしをねんごろに言ひけれど、「親の心に従はぬは、限りなき罪とは知らずや。みづからの心にこそ、ふさはしからずは思ふとも、いかでか親の本意をば違ふべき」など、なほ言ひけるに、昔の男よりも生まれける父のことは愚かに思ゆ理に負けて、なまじひに出で立ちつつ、今の男のもとへ行く行くも、袖のしづく乾く間もなかりけり。
この女、「悲し」と思ひて、様々にあるまじきよしをねんごろに言ひけれど、「親の心に従はぬは、限りなき罪とは知らずや。みづからの心にこそ、ふさはしからずは思ふとも、いかでか親の本意をば違ふべき」など、なほ言ひけるに、昔の男よりも生まれける父のことは愚かに思ゆ理 に負けて、なまじひに出で立ちつつ、今の男のもとへ行く行くも、袖のしづく乾く間もなかりけり。
かくて後、いたくうち泣きて、女房に語りていはく、「我、昔の契を思ふに、時の間も堪へ忍ぶべき心地せず。さりながら、父に背ける罪を恐りて、なまじひにここまては来たれど、生きながら二人の人に契を結ぶべき理なければ、いまは限りの我が身とは知らずや」とて、
かくて後、いたくうち泣きて、女房に語りていはく、「我、昔の契を思ふに、時の間も堪へ忍ぶべき心地せず。さりながら、父に背 ける罪を恐りて、なまじひにここまては来たれど、生きながら二人の人に契を結ぶべき理 なければ、いまは限りの我が身とは知らずや」とて、
「『生きては、一つ床の交はり絶ゆることなく、死なば、また同じ塚の塵にもなりなん』と誓ひしことは、中有の旅の空までも覚えん。我もまた忘れめや」と言ひはつれば、らうたきまなじりより紅の涙流れ出づる気色、まことに匂ひ異なる八重紅梅の春の朝の雨にしほれて、よそほひ久しきにかよひたり。
「『生きては、一つ床の交はり絶ゆることなく、死なば、また同じ塚の塵にもなりなん』と誓ひしことは、中有の旅の空までも覚えん。我もまた忘れめや」と言ひはつれば、らうたきまなじりより紅 の涙流れ出づる気色、まことに匂ひ異なる八重紅梅 の春の朝 の雨にしほれて、よそほひ久しきにかよひたり。
かくて、しばしばかりあるに、身の有様をや思ひさだめけん、指より血を出だして、妻戸の上に書きていはく、「我がかばねをば、隠瑜が墓のかたはらに置け」と書き付くるに、人の気色のしければ、騒ぎて、はての文字二三をば書きさしつ。
女房かかへて泣き居れども、いふかひなくて、明けぬれば、男入り来て見るに、いかが思えけん、しばしばかり死に入りて、起きもあがらず。
女房かかへて泣き居 れども、いふかひなくて、明けぬれば、男入り来て見るに、いかが思えけん、しばしばかり死に入りて、起きもあがらず。
秋の夜、春の日、明け暮れは、風の音、虫の声より外に、またおとづるる物なきには、嵐にたぐふ紅葉の錦、百囀の鶯の声も、我ためはいと情けなき心地す。
秋の夜、春の日、明け暮れは、風の音、虫の声より外に、またおとづるる物なきには、嵐にたぐふ紅葉の錦、百囀 の鶯の声も、我ためはいと情けなき心地す。
この人、昔、内に参りけるに、その形華やかにをかしげなりけるを頼みて、楊貴妃などをも争ふ心やありけん、一生つひに、むなしき床をのみ守りつつ、花の形いたづらにしをれて、むばたまの黒髪、白くなりにけり。
この人、昔、内に参りけるに、その形華やかにをかしげなりけるを頼みて、楊貴妃などをも争ふ心やありけん、一生つひに、むなしき床 をのみ守りつつ、花の形いたづらにしをれて、むばたまの黒髪、白くなりにけり。
この時に夷の王なりけるもの参りて申さく、「三千人までさぶらひあひ給へる女御・后、いづれにても一人給はらん」と申すに、上、みづから御覧じ尽さんことも煩ひありければ、その形を絵に描きて見給ふに、人の教へにやありけん、この王昭君の形をなん、みにくき様になむ写したりければ、夷の王給ひて、喜びひらけつつ、我が国へ具して帰るに、故郷を恋ふる涙は道の露にも勝り、慣れし人々に立ち別れぬる歎きは繁き深山の行末遥かなり。
この時に夷 の王なりけるもの参りて申さく、「三千人までさぶらひあひ給へる女御・后、いづれにても一人給はらん」と申すに、上、みづから御覧じ尽さんことも煩ひありければ、その形を絵に描きて見給ふに、人の教へにやありけん、この王昭君の形をなん、みにくき様 になむ写したりければ、夷の王給ひて、喜びひらけつつ、我が国へ具して帰るに、故郷 を恋ふる涙は道の露にも勝り、慣れし人々に立ち別れぬる歎きは繁き深山 の行末遥かなり。
あはれを知らず、情け深からぬ武士なれども、らうたき姿にめでて、かしづきうやまふこと、その国のいとなみにも過ぎたり。
あはれを知らず、情け深からぬ武士 なれども、らうたき姿にめでて、かしづきうやまふこと、その国のいとなみにも過ぎたり。
秋のあはれを述べて賦に作り、事に触れて情け深くやさしければ、世の中にありける女、さながら、名なを聞き形を見るより、下燃えの煙絶ゆるときなかりけり。
秋のあはれを述べて賦に作り、事に触れて情け深くやさしければ、世の中にありける女、さながら、名なを聞き形を見るより、下燃えの煙 絶ゆるときなかりけり。
「我、もしこの道に入るべきならば、家を出で衣を染めて、世にもあらじ」など、まめやかに憂きことに言へりければ、親しき縁までも、限りなく恨み歎きけり。
「我、もしこの道に入るべきならば、家を出で衣 を染めて、世にもあらじ」など、まめやかに憂きことに言へりければ、親しき縁 までも、限りなく恨み歎きけり。
この乳母子も、いとをかしげにて、さても世にありぬべき身のほどをもかへりみず、同じ心にて鳥の声もせぬ深き山に居て、おのおの草の庵を引き結びつつ、住み渡りけるに、この女の父母、二つなき心ざしばかりをしるべにて、山・林を分けつつ尋ね来にけり。
この乳母子も、いとをかしげにて、さても世にありぬべき身のほどをもかへりみず、同じ心にて鳥の声もせぬ深き山に居て、おのおの草の庵 を引き結びつつ、住み渡りけるに、この女の父母、二つなき心ざしばかりをしるべにて、山・林を分けつつ尋ね来にけり。
誰も子を思ふ道は惑はぬ人なければ、さるべき物など営みやりけるを、「うるさし」とや思ひけん、「また住処を改めて、他へ逃げ失せん」など言ひければ、ただ二人の心に任せて、その後音もせざりけり。
誰も子を思ふ道は惑はぬ人なければ、さるべき物など営みやりけるを、「うるさし」とや思ひけん、「また住処 を改めて、他へ逃げ失せん」など言ひければ、ただ二人の心に任せて、その後音もせざりけり。
かくて、深き山の中に心を澄まして明かし暮すに、まだらなる犬の美しげなる、いづこよりとも見えで、この乳母子の家の前に居たりけるを、物など食はせて、撫で興じけるに従ひて、この犬、ことのほかに懐きにけり。
撫で=底本「なく」。諸本により訂正。
つれづれなるままに、懐になどうち臥せて、愛しもてあそびつつ明かし暮しけるに、いとむつかしく心乱れて、あらぬすぢにのみ物の思えければ、この犬にうちとけにけり。
つれづれなるままに、懐 になどうち臥せて、愛しもてあそびつつ明かし暮しけるに、いとむつかしく心乱れて、あらぬすぢにのみ物の思えければ、この犬にうちとけにけり。
かくて主の居どころに行きて、来し方行く末のことなむ、うち語らひて居たりけるに、夏の衣曇りなく透きたるより、乳母子の肩に犬の足跡あまた付きたりけるを、この人見つけてけり。
かくて主 の居どころに行きて、来し方行く末のことなむ、うち語らひて居たりけるに、夏の衣 曇りなく透きたるより、乳母子の肩に犬の足跡あまた付きたりけるを、この人見つけてけり。