伊波礼池邊雙槻宮治天下橘豊日天皇、娶庶妹穴穂部間人王、爲大后、生児、厩戸豊聰耳聖徳法王、次久米王、次殖栗王、次茨田王。
伊波礼池邊雙槻宮に天の下治しめしし橘豊日天皇、庶妹穴穂部間人王を娶して、大后と爲し、生みませる児は、厩戸豊聰耳の聖徳法王、次は久米王、次は殖栗王、次は茨田王。
又天皇娶蘇我伊奈米宿祢大臣女子、名伊志支那郎女、生児、多米王。
また、天皇、蘇我伊奈米宿祢大臣が女子、名は伊志支那郎女を娶して生みませる児は多米王。
又天皇娶葛木當麻倉首名比里古女子、伊比古郎女、生児、乎麻呂古王、次須加弖古女王此王拝祭伊勢神前至于三天皇也合聖王兄弟、七王子也。
また、天皇、葛木當麻倉首名は比里古が女子、伊比古郎女を娶して生みませる児は乎麻呂古王、次に須加弖古女王この王は伊勢の神前を拝み祭り、三はしらの天皇に至る、合わせて聖王の兄弟は、七はしらの王子也。
聖徳法王娶膳部加多夫古臣女子、名菩岐々美郎女、生児、舂米女王、次長谷王、次久波太女王、次波止利女王、次三枝王、次伊止志古王、次麻呂古王、次馬屋古女王已上八人。
聖徳法王、膳部加多夫古臣が女子、名は菩岐々美郎女を娶して生みませる児は舂米女王、次に長谷王、次に久波太女王、次に波止利女王、次に三枝王、次に伊止志古王、次に麻呂古王、次に馬屋古女王已上八人。
又聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子、名刀自古郎女、生児山代大兄王此王、有賢尊之心、棄身命而愛人民也。後人、与父聖王相濫非也。
また、聖王、蘇我馬古叔尼大臣が女子、名は刀自古郎女を娶して生みませる児は山代大兄王此の王、賢く尊き心有り、身命を棄てて人民を愛す。後の人、父の聖王に相濫るというは非也。
次財王、次日置王、次片岡女王已上四人。
次に財王、次に日置王、次に片岡女王已上四人。
又聖王娶尾治王女子、位奈部橘王、生児、白髪部王、次手嶋女王、合聖王児十四王子也。
また、聖王、尾治王が女子、位奈部橘王を娶して生みませる児は、白髪部王、次に手嶋女王、合わせて聖王の児は十四はしらの王子也。
山代大兄王娶庶妹舂米王、生児、難波麻呂古王。
山代大兄王、庶妹、舂米王を娶して生みませる児は、難波麻呂古王。
次麻呂古王、次弓削王、次佐々女王、次三嶋女王、次甲可王、次尾治王。
次に麻呂古王、次に弓削王、次に佐々女王、次に三嶋女王、次に甲可王、次に尾治王。
聖王庶兄多米王、其父池邊天皇崩後、娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也。
聖王の庶兄多米王、其の父の池邊天皇の崩りし後に、聖王の母の穴太部間人王を娶して生みませる児は佐富女王也。
斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支廣庭天皇聖王祖父也娶檜前天皇女子、伊斯比女命生児他田宮治天下天皇、怒那久良布刀多麻斯支天皇聖王伯叔也。
斯貴嶋宮に天の下治しめしし阿米久尓於志波留支廣庭天皇聖王の祖父也、檜前天皇が女子、伊斯比女命を娶して生みませる児は他田宮に天の下治しめしし天皇、怒那久良布刀多麻斯支天皇聖王の伯叔也。
又、娶宗我稲目足尼大臣女子、支多斯比賣命生児伊波礼池邊宮治天下、橘豊日天皇聖王父也妹小治田宮治天下、止余美氣加志支夜比賣天皇聖王姨母也。
また、宗我稲目足尼大臣が女子、支多斯比賣命を娶して生みませる児は伊波礼池邊宮に天の下治しめしし橘豊日天皇聖王の父也、妹、小治田宮に天の下治しめしし止余美氣加志支夜比賣天皇聖王の姨母也。
又娶支多斯比賣同母弟、乎阿尼命生児倉橋宮治天下、長谷部天皇聖王伯叔也、姉穴太部間人王聖王母也。
また、支多斯比賣が同母弟、乎阿尼命を娶して生みませる児は倉橋宮に天の下治しめしし長谷部天皇聖王の伯叔也、姉、穴太部間人王聖王の母也。
右五天皇無雑他人治天下也但倉橋第四、小治田第五也。
右の五はしらの天皇は、他し人を雑へること無く天の下治しめしき但し倉橋は第四、小治田は第五也。
小治田宮御宇天皇之世、上宮厩戸豊聰耳命、嶋大臣共輔天下政而興隆三寶、起元興天四皇等寺、制爵十二級、大徳・少徳・大仁・少仁・大礼・少礼・大信・少信・大義・少義・大智・少智。
小治田宮に宇御しめしし天皇の世に、上宮厩戸豊聰耳命、嶋大臣と共に天の下の政を輔け三寶を興隆し、元興・天四皇等の寺を起て、爵十二級、大徳・少徳・大仁・少仁・大礼・少礼・大信・少信・大義・少義・大智・少智を制す。
池邊天皇后、穴太部間人王、出於厩戸之時、忽産生上宮王。
池邊天皇が后、穴太部間人王、厩戸に出ましし時に、忽ち上宮王を産生みたまひき。
王命幼少聰敏、有智。
王の命は幼少にして聰敏、智有り。
至長大之時一時聞八人之白言而辧其理。
長大なる時に至りて一時に八人の白し言うを聞きて其の理を辧ず。
又聞一智八、故号曰厩戸豊聰八耳命。
また、一を聞き八を智る。故に号けて厩戸豊聰八耳命と曰ふ。
池邊天皇、其太子聖徳王、甚愛念之、令住宮南上大殿、故号上宮王也。
池邊天皇、其の太子聖徳王を甚だ愛しと念い、宮の南の上の大殿に住まはしめき。故に上宮王と号す。
上宮王師高麗慧慈法師。
上宮王の師は、高麗の慧慈法師なり。
王命能悟涅槃常住・五種佛性之理・明開法花三車權實二智之趣・通達維摩不思議解脱之宗。
王命は能く涅槃常住・五種佛性の理を悟り、法花三車・權實二智の趣を明らかに開き、維摩不思議解脱の宗に通じ達す。
且知經部薩婆多両家之辨、亦知三玄五經之旨、並照天文地理之道。
且つは經部薩婆多両家の辨を知り、また三玄・五經の旨を知り、並びに天文地理の道を照らす。
造法花等經疏七卷、号曰「上宮御製疏」。
即ち法花等の經疏七卷を造りたまひ、号けて「上宮御製の疏」と曰ふ。
太子所問之義、師有所不通。
太子の問いたまう義に、師通ぜざる所有り。
太子寤後、即解之。
太子、寤めて後、即ち之を解す。
乃以傳於師、師亦領解。
乃ち師に傳へ、師また領解す。
如是之事、非一二耳。
是の如き事は一・二のみに非ず。
太子起七寺、四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺并彼宮賜川勝秦公池後寺、葛木寺賜葛木臣。
太子、七寺を起す。四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺彼の宮を并せて川勝秦公に賜ふ、池後寺、葛木寺葛木臣かつらぎのおみに賜ふ。
戊午年四月十五日,少治田天皇、請上宮王令講勝鬘經。
戊午の年の四月十五日、少治田天皇、上宮王に請いて勝鬘經を講ぜしむ。
諸王公主及臣連公民、信受無不嘉也。
諸の王公主及び臣連公民、信受して嘉ばざる無し。
三箇日之内、講説訖也。
三箇日の内に、講説訖る。
天皇、布施聖王物播磨國、揖保郡、佐勢地五十万代。
天皇、聖王に物播磨國揖保郡佐勢地五十万代を布施したまう。
聖王即以此地爲法隆寺地也今在播磨田三百餘町者。
聖王、即ち此の地を以って法隆寺の地と爲す今、播磨に在る田三百餘町なり。
慧慈法師、齎上宮御製疏、還歸本國流傳之間、壬午年二月廿二日夜半、聖王薨逝也。
慧慈法師、上宮御製の疏を齎して、本つ國に還り歸り、流傳する間、壬午の年の二月廿二日の夜半、聖王薨逝りましぬ。
慧慈法師聞之、奉爲王命講經發願曰、逢上宮聖王必欲所化。
慧慈法師之を聞き、王命の爲に經を講じ奉らんと發願して曰く、「上宮聖王、必ず化りて逢わんと欲す。
吾慧慈來年二月廿二日死者、必逢聖王面奉浄土。
吾、慧慈は來年の二月廿二日に死なば、必ず聖王の面と浄土に逢い奉らん。」
遂如其言到明年二月廿二日、發病命終也。
遂に其の言の如く、明くる年の二月廿二日に到りて、病を發し命終んぬ。
池邊大宮御宇天皇、大御身労賜時、歳次丙午年、召於大王天皇与太子、而誓願賜、我大御病大平欲坐故、将造寺薬師像作仕奉詔。
池邊大宮に宇御しめしし天皇、大御身労き賜う時、歳は丙午に次りし年、大王天皇と太子を召して誓願し賜う、「我が大御病、大きに平がんと欲し坐すが故に、寺を造り薬師の像を作らしめ仕え奉つれ」と詔りたまいき。
然當時崩賜、造不堪者。
然るに時當に崩り賜いて、造り堪えざりき。
小治田大宮御宇大王天皇、及東宮聖徳王、大命受賜而、歳次丁卯年仕奉。
小治田大宮に宇御しめしし大王天皇、及び東宮聖徳王、大命を受け賜いて、歳は丁卯に次りし年に仕え奉つりき。
右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文。
右は法隆寺金堂に坐す薬師像の光後の銘文なり。
法興元世一年、歳次辛巳十二月、鬼前大后崩。
法興元世一年、歳は辛巳に次る十二月、鬼前大后崩りましぬ。
明年正月廿二日、上宮法王枕病弗。
明くる年の正月廿二日、上宮法王、病に枕してまず。
干食王后、仍以労疾、並著於床。
干食王后、も仍た労疾きたまうを以って、並びに床に著く。
時王后王子等、及与諸臣、深懐愁毒、共相發願。
時に王后・王子等、及び諸の臣と、深く懐い愁い毒み、共に相い發願す。
仰依三寶、當造釋像尺寸王身。
「仰ぎて三寶に依り、當に釋像の尺寸王身を造る。
蒙此願力、轉病延壽、安住世間。
此の願力を蒙り、病を轉じ壽を延べ、世の間に安住したまうことを。
若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。
若し是れ定業にして、以って世に背きたまはば、往きて浄土に登り、早く妙果昇らせたまわんことを。」と。
二月廿一日癸酉王后即世。
二月廿一日癸酉に王后即世したまう。
癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像、并侠待、及荘厳具竟。
癸未の年の三月中、願の如く敬いて釋迦尊像、并びに侠待、及び荘厳具を造り竟る。
乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寶、遂共彼岸。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在安隠にして、生れ出で死に入るも、三主に随い奉り、三寶を紹隆し、遂に彼岸を共にせん。
普遍六道法界含識得脱苦縁、同趣菩提。
普遍く六道法界の含識も苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。
使司馬鞍首、止利佛師造。
司馬鞍首止利佛師をして造らしむ。
右法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文如件今私云、是正面中臺佛也。
右は法隆寺金堂に坐す釋迦佛の光後の銘文件の如し今、私に云う、これ正面中臺の佛也。
釋曰、法興元世一年、此能不知也。
釋して曰く、法興元世一年、此れ能く知らざる也。
但案帝記云、小治田天皇之世、東宮厩戸豊聰耳命、大臣宗我馬子宿祢、共平章而建立三寶、始興大寺。
但し帝記に案じて云う、小治田天皇の世、東宮厩戸豊聰耳命、大臣宗我馬子宿祢、共に平章して三寶を建立し、始めて大寺を興す。
此即銘云法興元世一年也。
これ即ち銘に云う法興元世一年也。
後見人、若可疑年号。
後に見ん人、若し年号と疑うべくも、これ然らず。
此不然也、然則言一年字、其意難見。
然れども則ち一年と言える字、其の意見え難し。
然所見者、聖王母穴太部王薨逝辛巳年者、即小治田天皇御世。
然れども見る所の者、聖王の母の穴太部王、辛巳の年に薨逝したまうは、即ち小治田天皇の御世。
故即指其年、故云一年、其無異趣。
故に即ち其の年を指し、故に一年と云い、其れ異なる趣き無し。
鬼前大后者、即聖王母穴太部間人王也。
鬼前大后は、即ち聖王の母の穴太部間人王也。
云鬼前者此神前也。
鬼前と云うはこれ神前也。
何故言神前皇后者、此皇后同母弟、長谷部天皇、石寸神前宮治天下。
何故に神前の皇后と言うとあらば、この皇后の同母弟、長谷部天皇、石寸神前宮に天の下治しめしき。
若疑其姉穴太部王、即其宮坐故、稱神前皇后也。
若し疑うらくは其の姉の穴太部王、即ち其の宮に坐すが故に神前皇后と稱す也。
言明年者即壬午年也。
明年と言えるは即ち壬午の年也。
二月廿一日癸酉、王后即世者、此即聖王妻膳大刀自也。
二月廿一日癸酉、王后即世したまうは、これ即ち聖王が妻の膳大刀自也。
二月廿一日者、壬午年二月也。
二月廿一日は、壬午の年の二月也。
翌日法王登遐者、即上宮聖王也。
翌日法王登遐したまうは、即ち上宮聖王也。
即世登遐者、是即死之異名也。
『即世』・『登遐』は、これ即ち死の異名也。
故今依此銘文、應言壬午年正月廿二日、聖王枕病也。
故、今この銘文に依りて、應に壬午の年の正月廿二日、聖王病に枕すと言うべし。
即同時、膳大刀自得労也。
即ち同じ時に、膳大刀自労を得る也。
大刀自者、二月廿一日卒也。
大刀自は、二月廿一日に卒す。
是以明知、膳夫人先日卒也、聖王後日薨也。
これを以ちて明らかに知るは、膳夫人は先の日に卒し、聖王は後の日に薨ずる也。
伊我留我乃
止美能井乃美豆
伊加奈久尓
多義弖麻之母乃
止美乃井能美豆
いかるがの
とみのいのみず
いかなくに
たきてましもの
とみのいのみず
是歌者膳夫人臥病、而将臨没時乞水。
この歌は膳夫人の病いに臥せて将に没する時に臨み水を乞いたまう。
然聖王不許、遂夫人卒也。
然るに聖王許さず、遂に夫人卒す。
即聖王誄而詠是歌。
即ち聖王誄みてこの歌を詠みたまう。
但銘文意、顕夫人卒日也。
但し銘文の意、夫人の卒したまう日顕らか也。
不注聖王薨年月也。
聖王の薨じたまう年月を注さず。
然諸説文、分明云、壬午年二月廿二日甲戌夜半、上宮聖王薨逝也。
然るに諸の説文、分明に云う、壬午の年の二月廿二日甲戌の夜半、上宮聖王薨逝したまうと。
出生入死者、若其往反、所生之辭也。
出生入死は、若し其の往き反り、生るる所の辭也。
三主者、若疑神前大后、上宮聖王、膳夫人、合此三所也。
三主は、若し疑うらくは神前大后、上宮聖王、膳夫人、合せてこの三所也。
斯皈斯麻宮治天下天皇、名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等、娶巷奇大臣名伊奈米足尼女、名吉多斯比弥乃弥己等爲大后。
斯皈斯麻宮に天の下治しめしし天皇、名は阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等、巷奇大臣名は伊奈米足尼が女、名は吉多斯比弥乃弥己等を娶して大后と爲す。
生名多至波奈等己比乃弥己等、妹名等已弥居加斯支移比弥乃弥己等。
生みませる名は多至波奈等己比乃弥己等、妹の名は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等。
復娶大后弟、名乎阿尼乃弥己等爲后、生名孔部間人公主。
また大后の弟、名は乎阿尼乃弥己等を娶して后と爲し、生みませる名は孔部間人公主。
斯歸斯麻天皇之子、名N奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等、娶庶妹、名等己弥居加斯支移比弥乃弥己等、爲大后。
斯歸斯麻天皇の子、名はN奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等、庶妹、名は等己弥居加斯支移比弥乃弥己等を娶して大后と爲す。
坐乎沙多宮治天下。
乎沙多宮に坐しまして天の下治しめしき。
多至波奈等己比乃弥己等、娶庶妹、名孔部間人公主、爲大后。
多至波奈等己比乃弥己等、庶妹、名は孔部間人公主を娶して大后と爲す。
坐濱邊宮治天下。
濱邊宮に坐しまして天の下治しめしき。
生名等己刀弥弥乃弥己等、娶尾治大王之女、名多至波奈大女郎爲后。
生れます名は等己刀弥弥乃弥己等、尾治大王の女、名は多至波奈大女郎を娶して后と爲す。
歳在辛巳十二月廿一日癸酉、日入、孔部間人母王崩。
歳は辛巳十二月廿一日癸酉に在り、日入に、孔部間人母王崩りましぬ。
明年二月廿二日、甲戌夜半、太子崩。
明くる年の二月廿二日、甲戌の夜半、太子崩りましぬ。
于時多至波奈大女郎、悲哀嘆息白、畏天(皇前曰敬)之雖恐懐心難止。
時に多至波奈大女郎、悲哀び嘆息て白さく、「畏き(天皇の前に曰いて敬すは)之れ恐れありと雖ども懐う心止め難し。
使我大王与母王如期従遊、痛酷无比。
我が大王と母王、期りしが如く従遊りまして、痛酷きこと比ぶる无し。
我大王所告、世間虚假、唯佛是真。
我が大王告げたまいしく、『世の間は虚假にして、ただ佛のみこれ真なり。』と。
玩味其法、謂我大王、應生於天壽國之中。
其の法を玩味するに、我が大王は謂うに、應に天壽國の中に生れまさんとす。
而彼國之形眼所K看。
而るに彼の國の形は眼にも看えKき所。
P因圖像欲觀大王往生之状。
Pわくは圖像に因りて大王の往生したまう状を觀んと欲す。
天皇聞之悽状一(然)告曰、有一我子、所啓誠以爲然。
天皇之を聞きて悽然として告げて曰く、「一の我が子有り、啓す所誠に以って状一(然)なり」と。
勅諸采女等、造繍帷二張。
諸の采女等に勅して、繍帷二張を造らせたまう。
畫者、東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利、令者椋部秦久麻。
畫者は、東漢の末賢、高麗の加西溢、または漢の奴加己利、令者は椋部秦久麻。
右在法隆寺蔵繍帳二張、縫著龜背上文字者也。
右は法隆寺の蔵に在る繍帳二張、縫い著けし龜の背の上の文字也。
白畏天之者天即小治田天皇也。
白畏天之は天即ち小治田天皇也。
天皇聞之者又小治田天皇也。
天皇聞之はまた小治田天皇也。
上宮薨時臣勢三杖大夫歌
上宮薨じたまう時に臣勢三杖大夫の歌
伊加留我乃
止美能乎何波乃
多叡婆許曾
和何於保支美乃
弥奈和須良叡米
いかるがの
とみのをがはの
たえばこそ
わがおほきみの
みなわすらえめ
Имя моего господина
Забудут лишь тогда,
Когда воды реки Томи,
Что в Икаруга,
Перестанут струиться.
日本霊異記 > 卷上 第四 聖德皇太子示異表緣 (Слово о чуде, случившемся с престолонаследником Сё:току)
美加弥乎須
多婆佐美夜麻乃
阿遅加氣尓
比止乃麻乎之志
和何於保支美波母
みかみをす
たばさみやまの
あぢかけに
ひとのまをしし
わがおほきみはも
伊加留我乃
己能加支夜麻乃
佐可留木乃
蘇良奈留許等乎
支美爾麻乎佐奈
いかるがの
このかきやまの
さかるきの
そらなることを
きみにまをさな
丁未年六七月、蘇我馬子宿祢大臣、伐物部室屋大連。
丁未の年の六七月、蘇我馬子宿祢大臣、物部室屋大連を伐つ。
時大臣軍士、不尅而退。
時に大臣の軍士、尅ずして退く。
故則上宮王、擧四王像、建軍士前、誓云、若得亡此大連、奉爲四王、造寺尊重供養者。
故、則ち上宮王、四王像を擧げ、軍士の前に建てて、誓いて云いしく、「若し此の大連を亡ぼし得れば、四王の爲に寺を造り尊び重く供養奉つらん。」と。
即軍士得勝、取大連訖。
即ち軍士勝を得て、大連を取りて訖る。
依此即造難波四天王寺也。
依りてこれ即ち難波に四天王寺を造る。
志癸嶋天皇御世、戊午年十月十二日、百済國主明王、始奉度佛像經敎并僧等。
志癸嶋天皇の御世、戊午の年十月十二日、百済國の主明王、始めて度りきて佛像・經敎、并せて僧等を奉る。
勅授蘇我稲目宿祢大臣、令興隆也。
勅して蘇我稲目宿祢大臣に授け、興隆せしむ。
庚寅年、焼滅佛殿佛像、流却於難波堀江。
庚寅の年、佛殿・佛像を焼き滅ばし、難波の堀江に流し却てき。
小治田天皇御世、乙丑年五月、聖徳王与嶋大臣、共謀建立佛法、更興三寶。
小治田天皇の御世、乙丑の年の五月、聖徳王と嶋大臣、共に謀り佛法を建立し、更に三寶を興す。
即准五行、定爵位也。
即ち五行に准い、爵位を定めたまう。
七月、立十七餘法也。
七月、十七餘の法を立てたまう。
飛鳥天皇御世、癸卯年十月十四日、蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣■■林太郎。
飛鳥天皇の御世、癸卯の年の十月十四日、蘇我豊浦毛人大臣が児入鹿臣■■林太郎。
坐於伊加留加宮、山代大兄及其昆第等、合十五王子等悉滅之也。
伊加留加宮に坐して、山代大兄及び其の昆第等、合わせて十五王子等を悉く滅す。
■■天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇生廿一年殺於林太郎■■。
■■天皇の御世、乙巳の年の六月十一日、近江天皇生れまして廿一年、林太郎■■を殺す。
以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之。
明くる日を以って、其の父の豊浦大臣と子孫等、皆之を滅す。
志歸嶋天皇治天下一年。
辛卯年四月崩、陵檜前坂合岡也。
志歸嶋天皇天の下治しめすこと一年。
辛卯の年の四月に崩りましき。陵は檜前坂合岡也。
他田天皇治天下十四年。
乙巳年八月崩、陵在川内志奈我原也。
他田天皇天の下治しめすこと十四年。
乙巳の年の八月に崩りましき。陵は河内の志奈我原に在り。
池邊天皇治天下三年。
丁未年四月崩、秋七月奉葬、或云川内志奈我中尾稜。
池邊天皇天の下治しめすこと三年。
丁未の年の四月に崩りましき。秋七月に葬り奉る。或いは川内の志奈我中尾稜と云う。
倉橋天皇治天下四年。
壬子年十一月崩、實爲嶋大臣所滅也、陵倉橋岡在也。
倉橋天皇天の下治しめすこと四年。
壬子の年の十一月に崩りましき。實に嶋大臣の滅する所と爲す。陵は倉橋岡に在り。
小治田天皇治天下卅六年。
戊子年三月崩、陵大野岡也。或云川内志奈我山田寸。
小治田天皇天の下治しめすこと卅六年。
戊子の年の三月に崩りましき。陵は大野岡也。或いは川内の志奈我山田寸と云う。
上宮聖徳法王、又云法主王。
上宮聖德法王、または法主王と云う。
甲午年産、壬午年二月廿二日薨逝也。
生九年。小治田宮爲東宮也。墓川内志奈我岡也
甲午の年に産れまして、壬午の年の二月廿二日に薨逝したまう。
生れまして九年。小治田宮の東宮と爲す。墓は川内の志奈我岡也
庚戌春三月、學問尼善信等、自百済還、住櫻井寺。
庚戌春三月、學問尼善信等、百済より還り、櫻井寺に住む。
今豊浦寺也初櫻井寺云、後豊浦寺云。
今の豊浦寺也初め櫻井寺と云い、後に豊浦寺と云う。
曾我大臣云、豊浦大臣云云。
曾我大臣云う、豊浦大臣と云々。
觀勒僧正、惟(推)古天皇即位十年壬戌來之。
觀勒僧正、推古天皇の即位十年の壬戌に來る。
案祖父司馬達多須奈。
案が祖父は司馬達、多須奈なり。
或本云、播磨水田、二百七十三町五段廿四歩云云。
或る本に云う、播磨の水田、二百七十三町五段廿四歩云々。
又本云、三百六十町云云。
また本に云う、三百六十町云々。
有本云、請願造寺、恭敬三寶。
有る本に云う、寺を造るを請願し、三寶を恭敬す。
十三年辛丑、春三月十五日、始浄土寺云云。
十三年辛丑、春三月十五日、始め浄土寺云々。
注云、辛丑年始平地、癸卯年立金堂之。
注に云う、辛丑の年、始めて地を平らげ、癸卯の年、金堂を立て云々。
己酉年三月廿五日大臣遇害。
己酉の年の三月廿五日、大臣害に遇う。
癸酉年十二月十六日建塔心柱。
癸酉の年、十二月十六日、塔の心柱を建つ。
其柱礎中作圓穴、刻浄土寺、中置有蓋大鋭一口、内晟種々珠玉。
其の柱の礎の中に圓き穴を作り、浄土寺を刻ね、中に蓋有る大鋭一口を置き、内に種々の珠玉を晟る。
壷内亦晟種々珠玉。
壷の内にまた種々の珠玉を晟る。
其内有青■■瓶、其内納舎利八粒。
其の内に青■■瓶有り、其の内に舎利八粒を納む。
丙子年四月八日上露盤。
丙子の年の四月八日、露盤を上ぐ。
戊寅年十二月四日、鋳丈六佛像。
戊寅の年の十二月四日、丈六の佛像を鋳る。
乙酉年三月廿五日、點佛眼。
乙酉の年の三月廿五日、佛眼を點ず。
注、承歴二年【戊午】、南一房冩之。
注す、承歴二年【戊午】、南一房を冩す。
曾我日向子臣、字無耶志臣。
曾我日向子臣、字は無耶志臣。
難波長柄豊碕宮御宇天皇之世、任筑紫大宰帥也。
難波長柄豊碕宮に宇御しめしし天皇の世、筑紫の大宰帥に任ず。
甲寅年十月癸卯朔壬子、爲天皇、起般若寺云云。
甲寅の年の十月、癸卯の朔の壬子、天皇の爲にい、般若寺を起つ云々。
推古天皇卅四年秋八月、嶋大臣【曾我也】臥病。
推古天皇の卅四年秋八月、嶋大臣【曾我也】病に臥す。
爲大臣之男女、并一千人■■■■。
大臣の爲に男女、并せて一千人■■■■。
又本云、廿二年甲戌秋八月、大臣病臥之。
また本に云う、廿二年甲戌の秋八月、大臣病に臥す。
卅五年夏六月辛丑薨之。
卅五年の夏六月辛丑に薨ず。
2. Прижизненное имя Сётоку-тайси (574—622).