伊波礼池邊雙槻宮治天下橘豊日天皇、娶庶妹穴穂部間人王、爲大后、生児、厩戸豊聰耳聖徳法王、次久米王、次殖栗王、次茨田王。
伊波礼池邊雙槻宮いわれいけのべのなみつきのみやに天の下治しめしし橘豊日天皇たちばなのとよひのすめらみこと庶妹ままいも穴穂部間人王あなほべのはしひとのひめみこを娶して、大后おほきさきと爲し、生みませるみこは、厩戸豊聰耳うまやとのとよとみみの聖徳法王、次は久米王くめのみこ、次は殖栗王うへくりのみこ、次は茨田王まむたのみこ

1. Прижизненное имя императора Ёмэя. Занимал престол с 585 по 587 г.
2. Прижизненное имя Сётоку-тайси (574—622).
又天皇娶蘇我伊奈米宿祢大臣女子、名伊志支那郎女、生児、多米王。
また、天皇、蘇我伊奈米宿祢大臣そがのいなめのすくねのおほおみ女子むすめ、名は伊志支那郎女いしきなのいらつめめとして生みませる児は多米王ためのみこ


又天皇娶葛木當麻倉首名比里古女子、伊比古郎女、生児、乎麻呂古王、次須加弖古女王此王拝祭伊勢神前至于三天皇也合聖王兄弟、七王子也。
また、天皇、葛木當麻倉首かつらぎのたじまのおびと名は比里古ひりこが女子、伊比古郎女いひこのいらつめを娶して生みませる児は乎麻呂古王おまろこのみこ、次に須加弖古女王すかてこのひめみここの王は伊勢の神前を拝み祭り、三はしらの天皇に至る、合わせて聖王の兄弟は、七はしらの王子也。


聖徳法王娶膳部加多夫古臣女子、名菩岐々美郎女、生児、舂米女王、次長谷王、次久波太女王、次波止利女王、次三枝王、次伊止志古王、次麻呂古王、次馬屋古女王已上八人
聖徳法王、膳部加多夫古臣かしわでのかたふこのおみが女子、名は菩岐々美郎女ほききみのいらつめを娶して生みませる児は舂米女王つきしねのひめみこ、次に長谷王はつせのみこ、次に久波太女王くはだのひめみこ、次に波止利女王はとりのひめみこ、次に三枝王さきくさのみこ、次に伊止志古王いとしこのみこ、次に麻呂古王まろこのみこ、次に馬屋古女王うまやこのひめみこ已上八人


又聖王娶蘇我馬古叔尼大臣女子、名刀自古郎女、生児山代大兄王此王、有賢尊之心、棄身命而愛人民也。後人、与父聖王相濫非也。
また、聖王、蘇我馬古叔尼大臣そがのうまこのすくねのおほおみが女子、名は刀自古郎女とじこのいらつめを娶して生みませる児は山代大兄王やましろのおおえのみこ此の王、賢く尊き心有り、身命を棄てて人民を愛す。後の人、父の聖王に相みだるというは非也


次財王、次日置王、次片岡女王已上四人
次に財王たからのみこ、次に日置王ひおきのみこ、次に片岡女王かたおかのひめみこ已上四人


又聖王娶尾治王女子、位奈部橘王、生児、白髪部王、次手嶋女王、合聖王児十四王子也。
また、聖王、尾治王が女子、位奈部橘王いなべのたちばなのひめみこを娶して生みませる児は、白髪部王しらかべのみこ、次に手嶋女王てしまのひめみこ、合わせて聖王の児は十四はしらの王子也。


山代大兄王娶庶妹舂米王、生児、難波麻呂古王。
山代大兄王、庶妹、舂米王を娶して生みませる児は、難波麻呂古王なにはまろこのみこ


次麻呂古王、次弓削王、次佐々女王、次三嶋女王、次甲可王、次尾治王。
次に麻呂古王まろこのみこ、次に弓削王ゆげのみこ、次に佐々女王ささのひめみこ、次に三嶋女王みしまのひめみこ、次に甲可王かふかのみこ、次に尾治王おはりのみこ


聖王庶兄多米王、其父池邊天皇崩後、娶聖王母穴太部間人王生児佐富女王也。
聖王の庶兄多米王、其の父の池邊天皇いけのべのすめらみことの崩りし後に、聖王の母の穴太部間人王あなほべのはしひとのひめみこを娶して生みませる児は佐富女王さほのひめみこ也。

いけのべのすめらみこと=用明天皇
斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支廣庭天皇聖王祖父也娶檜前天皇女子、伊斯比女命生児他田宮治天下天皇、怒那久良布刀多麻斯支天皇聖王伯叔也
斯貴嶋宮しきしまのみやに天の下治しめしし阿米久尓於志波留支廣庭天皇あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと聖王の祖父也檜前天皇ひのくまのすめらみことが女子、伊斯比女命いしひめのみことを娶して生みませる児は他田宮おさたのみやに天の下治しめしし天皇、怒那久良布刀多麻斯支天皇ぬなくらふとたましきのすめらみこと聖王の伯叔也

あめくにおしはるきひろにはのすめらみこと=欽明天皇
ぬなくらふとたましきのすめらみこと=敏達天皇
又、娶宗我稲目足尼大臣女子、支多斯比賣命生児伊波礼池邊宮治天下、橘豊日天皇聖王父也妹小治田宮治天下、止余美氣加志支夜比賣天皇聖王姨母也
また、宗我稲目足尼大臣そがのいなめのすくねのおおおみが女子、支多斯比賣命きたしひめのみことを娶して生みませる児は伊波礼池邊宮いはれいけのへのみやに天の下治しめしし橘豊日天皇たちばなのとよひのすめらみこと聖王の父也、妹、小治田宮おはりたのみやに天の下治しめしし止余美氣加志支夜比賣天皇とよみけかしきやひめのすめらみこと聖王の姨母也

とよみけかしきやひめのすめらみこと=推古天皇
又娶支多斯比賣同母弟、乎阿尼命生児倉橋宮治天下、長谷部天皇聖王伯叔也、姉穴太部間人王聖王母也
また、支多斯比賣きたしひめが同母弟、乎阿尼命おあねのひめみこを娶して生みませる児は倉橋宮くらはしのみやに天の下治しめしし長谷部天皇はつせべのすめらみこと聖王の伯叔也、姉、穴太部間人王あなほべはしひとのひめみこ聖王の母也

はつせべのすめらみこと=崇峻天皇
右五天皇無雑他人治天下也但倉橋第四、小治田第五也
右の五はしらの天皇は、あたし人をまじへること無く天の下治しめしき但し倉橋は第四、小治田は第五也


小治田宮御宇天皇之世、上宮厩戸豊聰耳命、嶋大臣共輔天下政而興隆三寶、起元興天四皇等寺、制爵十二級、大徳・少徳・大仁・少仁・大礼・少礼・大信・少信・大義・少義・大智・少智。
小治田宮にあめのしたしらしめしし天皇の世に、上宮厩戸豊聰耳命うへのみやうまやとのとよとみみのみこと嶋大臣しまのおほおみと共に天の下の政まつりごこたすけ三寶を興隆し、元興・天四皇等の寺を起て、爵十二級、大徳・少徳・大仁・少仁・大礼・少礼・大信・少信・大義・少義・大智・少智を制す。

推古天皇

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池邊天皇后、穴太部間人王、出於厩戸之時、忽産生上宮王。
池邊天皇が后、穴太部間人王、厩戸にいでましし時に、忽ち上宮王を産みたまひき。

用明天皇
王命幼少聰敏、有智。
王の命は幼少にして聰敏、智有り。


至長大之時一時聞八人之白言而辧其理。
長大なる時に至りて一時ひととき八人やたりの白し言うを聞きて其の理を辧ず。


又聞一智八、故号曰厩戸豊聰八耳命。
また、一を聞き八を智る。故になづけて厩戸豊聰八耳命うまやとのとよとやつみみのみことと曰ふ。


池邊天皇、其太子聖徳王、甚愛念之、令住宮南上大殿、故号上宮王也。
池邊天皇、其の太みこ聖徳王を甚だ愛しと念い、宮の南の上の大殿に住まはしめき。故に上宮王うへのみやのみこまほす。

用明天皇
上宮王師高麗慧慈法師。
上宮王の師は、高麗こま慧慈法師えじほうしなり。


王命能悟涅槃常住・五種佛性之理・明開法花三車權實二智之趣・通達維摩不思議解脱之宗。
王命みこのみことは能く涅槃常住・五種佛性の理を悟り、法花三車・權實二智の趣を明らかに開き、維摩不思議解脱の宗に通じ達す。


且知經部薩婆多両家之辨、亦知三玄五經之旨、並照天文地理之道。
且つは經部薩婆多両家の辨を知り、また三玄・五經の旨を知り、並びに天文地理の道を照らす。


造法花等經疏七卷、号曰「上宮御製疏」。
即ち法花等の經疏けいそ七卷を造りたまひ、なづけて「上宮御製の」とふ。


太子所問之義、師有所不通。
太子の問いたまう義に、師通ぜざる所有り。


太子、夜夢見金人…
太子、夜夢に金人を見る。


來敎不解之義。
來たりて解せざる義をさとす。


太子寤後、即解之。
太子、めて後、即ち之を解す。


乃以傳於師、師亦領解。
すなはち師に傳へ、師また領解す。


如是之事、非一二耳。
是の如き事は一・二のみに非ず。


太子起七寺、四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺并彼宮賜川勝秦公池後寺、葛木寺賜葛木臣
太子、七寺を起す。四天皇寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺彼の宮を并せて川勝秦公かはかつのはたのきみに賜ふ、池後寺、葛木寺葛木臣かつらぎのおみに賜ふ

獺祭注:【川勝秦公】 日本書紀 推古天皇十一年十一月 に 「皇太子、諸大夫に謂いて曰く『我、尊き仏像有り。誰かこの像を得て恭拝せん』とのたまう。時に秦造河勝進みて曰く、『臣、拝みまつらん』という。」 とある。
戊午年四月十五日,少治田天皇、請上宮王令講勝鬘經。
戊午つちのえ・うまの年の四月十五日、少治田天皇、上宮王に請いて勝鬘經しょうまんぎょうを講ぜしむ。

推古天皇

598 г.
其儀如僧也。
其の儀は僧の如し。


諸王公主及臣連公民、信受無不嘉也。
もろもろみこ公主ひめみこ及びおみむらじ公民おおみたから、信受してよろこばざる無し。


三箇日之内、講説訖也。
三箇日の内に、講説おわる。


天皇、布施聖王物播磨國、揖保郡、佐勢地五十万代。
天皇、聖王に物播磨國はりまのくに揖保郡いほのこおり佐勢地させのち五十万代いおよろずしろを布施したまう。


聖王即以此地爲法隆寺地也今在播磨田三百餘町者
聖王、即ち此の地を以って法隆寺の地と爲す今、播磨に在る田三百餘町なり


慧慈法師、齎上宮御製疏、還歸本國流傳之間、壬午年二月廿二日夜半、聖王薨逝也。
慧慈法師、上宮御製の疏をもたらして、本つ國に還り歸り、流傳する間、壬午みずのえ・うまの年の二月廿二日の夜半、聖王薨逝かむざりましぬ。

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628 г.
慧慈法師聞之、奉爲王命講經發願曰、逢上宮聖王必欲所化。
慧慈法師之を聞き、王命の爲に經を講じたてまつらんと發願して曰く、「上宮聖王、必ず化りて逢わんとおもおす。


吾慧慈來年二月廿二日死者、必逢聖王面奉浄土。
吾、慧慈は來年の二月廿二日に死なば、必ず聖王の面と浄土に逢い奉らん。」



遂如其言到明年二月廿二日、發病命終也。
遂に其の言の如く、明くる年の二月廿二日に到りて、病を發し命終んぬ。


池邊大宮御宇天皇、大御身労賜時、歳次丙午年、召於大王天皇与太子、而誓願賜、我大御病大平欲坐故、将造寺薬師像作仕奉詔。
池邊大宮にあめのしたしらしめしし天皇、大御身労いたづき賜う時、歳は丙午ひのえ・うまやどりし年、大王天皇おおきみのすめらみことと太子を召して誓願し賜う、「我が大御病、大きに平がんと欲し坐すが故に、寺を造り薬師の像を作らしめ仕え奉つれ」と詔りたまいき。

天皇=用明天皇

大王天皇=推古天皇

586 г.
然當時崩賜、造不堪者。
然るに時まさかむざり賜いて、造りえざりき。


小治田大宮御宇大王天皇、及東宮聖徳王、大命受賜而、歳次丁卯年仕奉。
小治田大宮にあめのしたしらしめしし大王天皇おおきみのすめらみこと、及び東宮聖徳王、大命を受け賜いて、歳は丁卯ひのと・うやどりし年に仕え奉つりき。


右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文。
右は法隆寺金堂に坐す薬師像の光後の銘文なり。


即寺造始縁由也。
即ち寺を造りし始めの縁の由也。


法興元世一年、歳次辛巳十二月、鬼前大后崩。
法興元世一年、歳は辛巳かのと・みやどる十二月、鬼前大后かむさきのおおきさきかむざりましぬ。


明年正月廿二日、上宮法王枕病弗。
明くる年の正月廿二日、上宮法王、病に枕してたのしまず。


干食王后、仍以労疾、並著於床。
干食王后かしわでのみこのきさき、も労疾いたづきたまうを以って、並びに床に著く。


時王后王子等、及与諸臣、深懐愁毒、共相發願。
時に王后・王子等、及び諸の臣と、深くおもい愁いなやみ、共に相い發願す。


仰依三寶、當造釋像尺寸王身。
「仰ぎて三寶に依り、當に釋像の尺寸王身を造る。


蒙此願力、轉病延壽、安住世間。
此の願力をこうむり、病を轉じよわいを延べ、世の間に安住したまうことを。


若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。
若し是れ定業じょうぎょうにして、以って世にそむきたまはば、往きて浄土に登り、く妙果昇らせたまわんことを。」と。


二月廿一日癸酉王后即世。
二月廿一日癸酉みずのと・とりに王后即世そくせいしたまう。


翌日法王登遐。
翌日法王登遐とうかしたまう。


癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像、并侠待、及荘厳具竟。
癸未みずのと・ひつじの年の三月中、願の如く敬いて釋迦尊像、并びに侠待、及び荘厳具しょうごんぐを造りおわる。


乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寶、遂共彼岸。
斯の微福に乗り、信道の知識、現在安隠にして、生れ出で死に入るも、三主に随い奉り、三寶を紹隆し、遂に彼岸を共にせん。


普遍六道法界含識得脱苦縁、同趣菩提。
あまね六道法界りくどうほっかい含識がんしきも苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。


使司馬鞍首、止利佛師造。
司馬鞍首しば・くらつくりのおびと止利佛師とりぶっしをして造らしむ。


右法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文如件今私云、是正面中臺佛也
右は法隆寺金堂に坐す釋迦佛の光後の銘文くだんの如し今、私に云う、これ正面中臺の佛也


釋曰、法興元世一年、此能不知也。
釋して曰く、法興元世一年、此れ能く知らざる也。


但案帝記云、小治田天皇之世、東宮厩戸豊聰耳命、大臣宗我馬子宿祢、共平章而建立三寶、始興大寺。
但し帝記に案じて云う、小治田天皇推古天皇の世、東宮厩戸豊聰耳命、大臣おおおみ宗我馬子宿祢そがのうまこのすくね、共に平章へいしょう=ともにはかるして三寶を建立し、始めて大寺を興す。


故曰法興元世也。
故に法興元世と曰う。


此即銘云法興元世一年也。
これ即ち銘に云う法興元世一年也。


後見人、若可疑年号。
後に見ん人、若し年号と疑うべくも、これ然らず。


此不然也、然則言一年字、其意難見。
然れども則ち一年と言える字、其の意見え難し。


然所見者、聖王母穴太部王薨逝辛巳年者、即小治田天皇御世。
然れども見る所の者、聖王の母の穴太部王、辛巳かのと・みの年に薨逝したまうは、即ち小治田天皇推古天皇の御世。


故即指其年、故云一年、其無異趣。
故に即ち其の年を指し、故に一年と云い、其れ異なる趣き無し。


鬼前大后者、即聖王母穴太部間人王也。
鬼前大后かむさきのおおきさきは、即ち聖王の母の穴太部間人王あなほべのはしひとのひめみこ也。


云鬼前者此神前也。
鬼前と云うはこれ神前かむさき也。


何故言神前皇后者、此皇后同母弟、長谷部天皇、石寸神前宮治天下。
何故に神前の皇后と言うとあらば、この皇后の同母弟、長谷部天皇、石寸神前宮いわむらのかむさきのみやに天の下治しめしき。

長谷部天皇=崇峻天皇
若疑其姉穴太部王、即其宮坐故、稱神前皇后也。
若し疑うらくは其の姉の穴太部王、即ち其の宮に坐すが故に神前皇后かむさきのおおきさきと稱す也。


言明年者即壬午年也。
明年と言えるは即ち壬午みずのえ・うまの年也。


二月廿一日癸酉、王后即世者、此即聖王妻膳大刀自也。
二月廿一日癸酉みずのと・とり、王后即世したまうは、これ即ち聖王が妻の膳大刀自かしわでのおおとじ也。


二月廿一日者、壬午年二月也。
二月廿一日は、壬午みずのえ・うまの年の二月也。


翌日法王登遐者、即上宮聖王也。
翌日法王登遐したまうは、即ち上宮聖王也。


即世登遐者、是即死之異名也。
即世そくせい』・『登遐とうか』は、これ即ち死の異名也。


故今依此銘文、應言壬午年正月廿二日、聖王枕病也。
故、今この銘文に依りて、まさ壬午みずのえ・うまの年の正月廿二日、聖王病に枕すと言うべし。


即同時、膳大刀自得労也。
即ち同じ時に、膳大刀自かしはでのおおとじ労を得る也。


大刀自者、二月廿一日卒也。
大刀自は、二月廿一日に卒す。


聖王廿二日薨也。
聖王は廿二日に薨ず。


是以明知、膳夫人先日卒也、聖王後日薨也。
これを以ちて明らかに知るは、膳夫人は先の日に卒し、聖王は後の日に薨ずる也。


則證歌曰。
則ち歌にあかして曰く。


伊我留我乃
止美能井乃美豆
伊加奈久尓
多義弖麻之母乃
止美乃井能美豆
いかるがの
とみのいのみず
いかなくに
たきてましもの
とみのいのみず

斑鳩=いかるが
止美の井=とみの井
鳥見の井=とみの井
是歌者膳夫人臥病、而将臨没時乞水。
この歌は膳夫人かしわでのおおきさきの病いに臥せて将に没する時に臨み水を乞いたまう。


然聖王不許、遂夫人卒也。
然るに聖王許さず、遂に夫人卒す。


即聖王誄而詠是歌。
即ち聖王いたみてこの歌を詠みたまう。


即其證也。
即ち其のあかし也。


但銘文意、顕夫人卒日也。
但し銘文の意、夫人の卒したまう日あきらか也。


不注聖王薨年月也。
聖王の薨じたまう年月を注さず。


然諸説文、分明云、壬午年二月廿二日甲戌夜半、上宮聖王薨逝也。
然るに諸の説文、分明に云う、壬午みずのえ・うまの年の二月廿二日甲戌きのえ・いぬの夜半、上宮聖王薨逝したまうと。


出生入死者、若其往反、所生之辭也。

出生入死は、若し其の往き反り、生るる所の辭也。


三主者、若疑神前大后、上宮聖王、膳夫人、合此三所也。

三主は、若し疑うらくは神前大后、上宮聖王、膳夫人、合せてこの三所みはしら也。


斯皈斯麻宮治天下天皇、名阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等、娶巷奇大臣名伊奈米足尼女、名吉多斯比弥乃弥己等爲大后。
斯皈斯麻宮しきしまのみやに天の下治しめしし天皇、名は阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等あめくにおしはるきひろにはのみこと巷奇大臣そがのおおおみ名は伊奈米足尼いなめのすくねが女、名は吉多斯比弥乃弥己等きたしひめのみことを娶して大后と爲す。

あめくにおしはるきひろにはのみこと=用明天皇
生名多至波奈等己比乃弥己等、妹名等已弥居加斯支移比弥乃弥己等。
生みませるみな多至波奈等己比乃弥己等たちはなとこひのみこと、妹の名は等已弥居加斯支移比弥乃弥己等とよみけかしきやひめのみこと


復娶大后弟、名乎阿尼乃弥己等爲后、生名孔部間人公主。
また大后の弟、名は乎阿尼乃弥己等おあねのみことを娶して后と爲し、生みませる名は孔部間人公主あなほべはしひとのひめみこ


斯歸斯麻天皇之子、名N奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等、娶庶妹、名等己弥居加斯支移比弥乃弥己等、爲大后。
斯歸斯麻天皇しきしまのすめらみことの子、名はN奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等ぬなくらのふとたましきのみこと、庶妹、名は等己弥居加斯支移比弥乃弥己等とよみけかしきやひめのみことを娶して大后と爲す。

しきしまのすめらみこと=欽明天皇
ぬなくらのふとたましきのみこと=敏達天皇
N=
坐乎沙多宮治天下。
乎沙多宮おさたのみやに坐しまして天の下治しめしき。


生名尾治王。
生れます名は尾治王おはりのみこ


多至波奈等己比乃弥己等、娶庶妹、名孔部間人公主、爲大后。
多至波奈等己比乃弥己たちばなとこひのみこと、庶妹、名は孔部間人公主あなほべはしひとのひめみこを娶して大后と爲す。

たちばなとこひのみこと=用明天皇
坐濱邊宮治天下。
濱邊宮いけのべのみやに坐しまして天の下治しめしき。

濱=
生名等己刀弥弥乃弥己等、娶尾治大王之女、名多至波奈大女郎爲后。
生れます名は等己刀弥弥乃弥己等とよとみみのみこと尾治大王おはりのみこの女、名は多至波奈大女郎たちばなのおおいらつめを娶して后と爲す。


歳在辛巳十二月廿一日癸酉、日入、孔部間人母王崩。
歳は辛巳かのと・み十二月廿一日癸酉みずのと・とりに在り、日入ひぐれに、孔部間人母王あなほべはしひとのははみこ崩りましぬ。


明年二月廿二日、甲戌夜半、太子崩。
明くる年の二月廿二日、甲戌きのえ・いぬの夜半、太子崩りましぬ。


于時多至波奈大女郎、悲哀嘆息白、畏天(皇前曰敬)之雖恐懐心難止。
時に多至波奈大女郎たちばなのおおいらつめ悲哀かなし嘆息なげきもうさく、「畏かしこき(天皇の前にいてもうすは)之れ恐れありと雖どもおも心止とどめ難し。


使我大王与母王如期従遊、痛酷无比。
我が大王と母王ははのおおきみちぎりしが如く従遊かむざりまして、痛酷いたましきこと比ぶる无し。


我大王所告、世間虚假、唯佛是真。
我が大王告げたまいしく、『世の間は虚假こけにして、ただ佛のみこれ真なり。』と。


玩味其法、謂我大王、應生於天壽國之中。
其の法を玩味するに、我が大王は謂うに、まさに天壽國の中に生れまさんとす。


而彼國之形眼所K看。
而るに彼の國の形は眼にもKかたき所。

K=
P因圖像欲觀大王往生之状。
Pねがわくは圖像に因りて大王の往生したまう状かたちを觀んと欲おもおす。

P=
天皇聞之悽状一(然)告曰、有一我子、所啓誠以爲然。
推古天皇之を聞きて悽然として告げて曰く、「一ひとりの我が子有り、もうす所誠に以って状一(しか)なり」と。


勅諸采女等、造繍帷二張。
諸の采女等にみことのりして、繍帷ぬいもののかたびら二張を造らせたまう。


畫者、東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利、令者椋部秦久麻。
えがけるひとは、東漢やまとのあや末賢めけ高麗こま加西溢かせい、またはあや奴加己利ぬかこり令者うなかせるもの椋部秦久麻くらひとべのはたのくま


右在法隆寺蔵繍帳二張、縫著龜背上文字者也。
右は法隆寺の蔵に在る繍帳二張、縫い著けし龜の背の上の文字也。


更々不知者也。
更更知られざる者也。


巷奇蘇我也
巷奇、蘇我也


弥字或當賣音也
弥の字或いはの音を當てる


已字或當余音也
己の字或いはの音を當てる


至字或當知音也
至の字或いはの音を當てる


白畏天之者天即小治田天皇也
白畏天之は天即ち小治田天皇おはりだのすめらみこと

おはりだのすめらみこと=推古天皇
太子崩者即聖王也
太子崩は即ち聖王也


従遊者死也
従遊は死也


天壽國者猶云天耳
天壽國はまたは天のみ云う


天皇聞之者又小治田天皇也
天皇聞之はまた小治田天皇也


令者猶監也
令はまたは監也


上宮薨時臣勢三杖大夫歌
上宮薨じたまう時に臣勢三杖大夫こせのみつえのまちぎみうた


伊加留我乃
止美能乎何波乃
多叡婆許曾
和何於保支美乃
弥奈和須良叡米
いかるがの
とみのをがはの
たえばこそ
わがおほきみの
みなわすらえめ
Имя моего господина
Забудут лишь тогда,
Когда воды реки Томи,
Что в Икаруга,
Перестанут струиться.
Эта танка приведена ещё и в "Нихон Рёики" — Слово о чуде, случившемся с престолонаследником Сё:току.

Перевод с японского: А.Н. Мещерякова "Нихон Рё:ики"

Также включено в Сюисю, 1351
美加弥乎須
多婆佐美夜麻乃
阿遅加氣尓
比止乃麻乎之志
和何於保支美波母
みかみをす
たばさみやまの
あぢかけに
ひとのまをしし
わがおほきみはも


伊加留我乃
己能加支夜麻乃
佐可留木乃
蘇良奈留許等乎
支美爾麻乎佐奈
いかるがの
このかきやまの
さかるきの
そらなることを
きみにまをさな


丁未年六七月、蘇我馬子宿祢大臣、伐物部室屋大連。
丁未ひのと・ひつじの年の六七月、蘇我馬子宿祢大臣そがのうまこのすくねのおおおみ物部室屋大連もののべももりやのおおむらじを伐つ。


時大臣軍士、不尅而退。
時に大臣の軍士、たえずして退く。


故則上宮王、擧四王像、建軍士前、誓云、若得亡此大連、奉爲四王、造寺尊重供養者。
故、則ち上宮王、四王像を擧げ、軍士の前に建てて、誓いて云いしく、「若し此の大連を亡ぼし得れば、四王の爲に寺を造り尊び重く供養奉つらん。」と。


即軍士得勝、取大連訖。
即ち軍士勝を得て、大連を取りて訖る。


依此即造難波四天王寺也。
依りてこれ即ち難波に四天王寺を造る。


聖王生十四年也。
聖王生れまして十四の年也。


志癸嶋天皇御世、戊午年十月十二日、百済國主明王、始奉度佛像經敎并僧等。
志癸嶋天皇しきしまのすめらみことの御世、戊午つちのえ・うまの年十月十二日、百済國の主明王、始めて度りきて佛像・經敎、并せて僧等を奉る。

しきしまのすめらみこと=欽明天皇
勅授蘇我稲目宿祢大臣、令興隆也。
みことのりして蘇我稲目宿祢大臣そがのいなめのすくねのおおおみに授け、興隆せしむ。


庚寅年、焼滅佛殿佛像、流却於難波堀江。
庚寅かのえ・とらの年、佛殿・佛像を焼き滅ばし、難波の堀江に流してき。


小治田天皇御世、乙丑年五月、聖徳王与嶋大臣、共謀建立佛法、更興三寶。
小治田天皇の御世、乙丑きのと・うしの年の五月、聖徳王と嶋大臣、共に謀り佛法を建立し、更に三寶を興す。

小治田天皇=推古天皇
即准五行、定爵位也。
即ち五行にしたがい、爵位を定めたまう。


七月、立十七餘法也。
七月、十七餘ののりを立てたまう。


飛鳥天皇御世、癸卯年十月十四日、蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣■■林太郎。
飛鳥天皇あすかのすめらみことの御世、癸卯みずのと・うの年の十月十四日、蘇我豊浦毛人大臣そがのとゆらのえみしのおおおみみこ入鹿臣■■林太郎いるかのおみ****はやしのたいろう

あすかのすめらみこと=皇極天皇
坐於伊加留加宮、山代大兄及其昆第等、合十五王子等悉滅之也。
伊加留加宮いかるがのみやに坐して、山代大兄やましろのおおえ及び其の昆第等、合わせて十五王子等とおあまりいつはしらのみこたちを悉く滅す。


■■天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇生廿一年殺於林太郎■■。
■■天皇の御世、乙巳きのと・みの年の六月十一日、近江天皇おうみのすめらみこと生れまして廿一年林太郎■■はやしのたいろう****を殺す。

文字脱落して不詳。皇極天皇のこと
おうみのすめらみこと=天智天皇・当時中大兄
以明日、其父豊浦大臣子孫等皆滅之。
明くる日を以って、其の父の豊浦大臣とゆらのおおおみと子孫等、皆之を滅す。

とゆらのおおおみ=蘇我蝦夷
志歸嶋天皇治天下一年。
辛卯年四月崩、陵檜前坂合岡也。
志歸嶋天皇しきしまのすめらみこと天の下治しめすこと一年。
辛卯の年の四月に崩りましき。みささぎ檜前坂合岡ひのくまのさかあいのおか也。

しきしまのすめらみこと=欽明天皇
他田天皇治天下十四年。
乙巳年八月崩、陵在川内志奈我原也。
他田天皇おさたのすめらみこと天の下治しめすこと十四年。
乙巳きのと・みの年の八月に崩りましき。陵は河内の志奈我原しながのはらに在り。

おさたのすめらみこと=敏達天皇
池邊天皇治天下三年。
丁未年四月崩、秋七月奉葬、或云川内志奈我中尾稜。
池邊天皇いけのへのすめらみこと天の下治しめすこと三年。
丁未ひのと・ひつじの年の四月に崩りましき。秋七月に葬り奉る。或いは川内の志奈我中尾稜しながのなかのおのみささぎと云う。

いけのへのすめらみこと=用明天皇
倉橋天皇治天下四年。
壬子年十一月崩、實爲嶋大臣所滅也、陵倉橋岡在也。
倉橋天皇くらはしのすめらみこと天の下治しめすこと四年。
壬子みずのえ・ねの年の十一月に崩りましき。實に嶋大臣の滅する所と爲す。陵は倉橋岡くらはしのおかに在り。

くらはしのすめらみこと=崇峻天皇
小治田天皇治天下卅六年。
戊子年三月崩、陵大野岡也。或云川内志奈我山田寸。
小治田天皇おはりだのすめらみこと天の下治しめすこと卅六年。
戊子の年の三月に崩りましき。陵は大野岡おおののおか也。或いは川内の志奈我山田寸しながのやまだのむらと云う。

おはりだのすめらみこと=推古天皇
上宮聖徳法王、又云法主王。
上宮聖德法王、または法主王と云う。


甲午年産、壬午年二月廿二日薨逝也。
生九年。小治田宮爲東宮也。墓川内志奈我岡也
甲午きのえ・うまの年に産れまして、壬午みずのえ・うまの年の二月廿二日に薨逝したまう。
生れまして九年。小治田宮の東宮と爲す。墓は川内の志奈我岡しながのおか


庚戌春三月、學問尼善信等、自百済還、住櫻井寺。
庚戌かのえ・いぬ春三月、學問尼善信等、百済より還り、櫻井寺に住む。


今豊浦寺也初櫻井寺云、後豊浦寺云
今の豊浦寺也初め櫻井寺と云い、後に豊浦寺と云う


曾我大臣云、豊浦大臣云云。
曾我大臣云う、豊浦大臣と云々。


觀勒僧正、惟(推)古天皇即位十年壬戌來之。
觀勒僧正、推古天皇の即位十年の壬戌みずのえ・いぬに來る。

獺祭註:惟(推)古天皇は原文「惟古天皇」に作るが、「推古天皇」であることは明白なので「推古天皇」に改める。
佛工鞍作鳥。
佛工ぶつし鞍作鳥くらつくりのとり


案祖父司馬達多須奈。
くらが祖父は司馬達しばたつ多須奈たすななり。

獺祭註:案は「鞍」に通じ、鞍作鳥のこと。「鞍作鳥の祖父は司馬達等(しばたつと)、父は多須奈(たすな)」の意であろう。
或本云、播磨水田、二百七十三町五段廿四歩云云。
或る本に云う、播磨の水田、二百七十三町五段廿四歩云々。


又本云、三百六十町云云。
また本に云う、三百六十町云々。


有本云、請願造寺、恭敬三寶。
有る本に云う、寺を造るを請願し、三寶を恭敬す。


十三年辛丑、春三月十五日、始浄土寺云云。
十三年辛丑かのと・うし、春三月十五日、始め浄土寺云々。


注云、辛丑年始平地、癸卯年立金堂之。
注に云う、辛丑かのと・うしの年、始めて地を平らげ、癸卯みずのと・うの年、金堂を立て云々。


戊申始僧住。
戊申つちのえ・さる、始めて僧住む。


己酉年三月廿五日大臣遇害。
己酉つちのと・とりの年の三月廿五日、大臣害に遇う。


癸亥年構塔。
癸亥みずのと・いの年、塔を構う。


癸酉年十二月十六日建塔心柱。
癸酉みずのと・とりの年、十二月十六日、塔の心柱を建つ。


其柱礎中作圓穴、刻浄土寺、中置有蓋大鋭一口、内晟種々珠玉。
其の柱の礎の中に圓き穴を作り、浄土寺を刻ね、中に蓋有る大鋭一口を置き、内に種々の珠玉を晟る。


其中有塗壷。
其の中に塗壷有り。


壷内亦晟種々珠玉。
壷の内にまた種々の珠玉を晟る。


其中有銀壷。
其の中に銀の壷有り。


壷中内有純金壷。
壷の中内に純金の壷有り。


其内有青■■瓶、其内納舎利八粒。
其の内に青■■瓶有り、其の内に舎利八粒を納む。


丙子年四月八日上露盤。
丙子ひのえ・ねの年の四月八日、露盤ろばんを上ぐ。


戊寅年十二月四日、鋳丈六佛像。
戊寅つちのえ・とらの年の十二月四日、丈六の佛像を鋳る。


乙酉年三月廿五日、點佛眼。
乙酉きのと・とりの年の三月廿五日、佛眼を點ず。


山田寺是也。
山田寺これ也。


注、承歴二年【戊午】、南一房冩之。
注す、承歴二年【戊午つちのえ・うま】、南一房を冩す。


直曜之本之。
直曜の本なり。


曾我日向子臣、字無耶志臣。
曾我日向子臣そがのひむかこのおみあざな無耶志臣むざしのおみ


難波長柄豊碕宮御宇天皇之世、任筑紫大宰帥也。
難波長柄豊碕宮なにはのながえのとよさきのみやあめのした御しめしし天皇の世、筑紫の大宰帥に任ず。


甲寅年十月癸卯朔壬子、爲天皇、起般若寺云云。
甲寅の年の十月、癸卯みずのと・うの朔の壬子みずのえ・ね、天皇の爲におもい、般若寺を起つ云々。


■■京時、定額寺之。
■■京時、定額寺云々。


曾我大臣。
曾我大臣。


推古天皇卅四年秋八月、嶋大臣【曾我也】臥病。

推古天皇の卅四年秋八月、嶋大臣【曾我也】病に臥す。


爲大臣之男女、并一千人■■■■。
大臣の爲に男女、并せて一千人■■■■。


又本云、廿二年甲戌秋八月、大臣病臥之。
また本に云う、廿二年甲戌きのえ・いぬの秋八月、大臣病に臥す。


卅五年夏六月辛丑薨之。
卅五年の夏六月辛丑かのと・うしに薨ず。