親の、いとよくかしづきける、人のむすめ、ありけり。
親の、いとよくかしづきける、人のむすめ、ありけり。


女のする才のかぎり、しつくして、「今は書読ませむ」とて、「博士にはむつまじからむ人をせむ」とて、異腹の兄、大学の衆にてありけり。
女のするざえのかぎり、しつくして、「今はふみ読ませむ」とて、「博士にはむつまじからむ人をせむ」とて、異腹ことはらこのかみ、大学のしゆうにてありけり。


異腹なれば、うとくて、
異腹なれば、うとくて、


「あひ見ず」
「あひ見ず」


などありけれど、
などありけれど、


「知らぬ人よりは」
「知らぬ人よりは」


とて、簾ごしに、几帳たててぞ、読ませける。
とて、簾ごしに、几帳たててぞ、読ませける。


この男、いとをかしき様をみて、少し馴れゆくままに、顔を見え、物語りなどもして、書の点といふものを取らせたりけるを、見れば、角筆して、歌をなむ、書きたりける。
この男、いとをかしき様をみて、少し馴れゆくままに、顔を見え、物語りなどもして、ふみの点といふものを取らせたりけるを、見れば、角筆かくひちして、歌をなむ、書きたりける。


中にゆく
吉野の河は
あせななむ
妹背の山を
越えて見るべく
なかにゆく
よしののかはは
あせななむ
いもせのやまを
こえてみるべく


とありければ、「かかりける」と心づかひしけれど、「なさけなくやは」とて、
とありければ、「かかりける」と心づかひしけれど、「なさけなくやは」とて、


妹背山
かげだに見えで
やみぬべく
吉野の河は
濁れとぞ思ふ
いもせやま
かげだにみえで
やみぬべく
よしののかはは
にごれとぞおもふ


また、男、
また、男、


濁る瀬は
しばしばかりぞ
水しあらば
澄みなむとこそ
頼み渡らめ
にごるせは
しばしばかりぞ
みづしあらば
すみなむとこそ
たのみわたらめ


女、
女、


淵瀬をば
いかに知りてか
渡らむと
心を先に
人の言ふらむ
ふちせをば
いかにしりてか
わたらむと
こころをさきに
ひとのいふらむ


男、
男、


身のならむ
淵瀬も知らず
妹背川
降り立ちぬべき
心地のみして
みのならむ
ふちせもしらず
いもせがは
ふりたちぬべき
ここちのみして


かくいふ程に、人にくからぬ世なれば、いと気うとくなかりけり。
かくいふ程に、人にくからぬ世なれば、いとうとくなかりけり。


師走の十五日ごろ、月いとあかきに、物語しけるを、人見て、
師走しはす十五日もちごろ、月いとあかきに、物語しけるを、人見て、


「誰ぞ、あなすさまじ、師走の月夜にもあるかな」
「誰ぞ、あなすさまじ、師走の月夜にもあるかな」


と言ひければ、
と言ひければ、


春を待つ
冬のかぎりと
思ふには
かの月しもぞ
あはれなりける
はるをまつ
ふゆのかぎりと
おもふには
かのつきしもぞ
あはれなりける


返し
返し


年を経て
おもひも飽かじ
この月は
みそかの人や
あはれと思はむ
としをへて
おもひもあかじ
このつきは
みそかのひとや
あはれとおもはむ


かく言ふ程に、夜ふけにければ、「人うたて見むもの」とて入りにけり。
かく言ふ程に、夜ふけにければ、「人うたて見むもの」とて入りにけり。


男は、
男は、


曹司に、とみにも入らで、うそぶきありきけり。
曹司ざうしに、とみにも入らで、うそぶきありきけり。


さて、あしたに、久しう書読ませざりければ、父ぬし、
さて、あしたに、久しうふみ読ませざりければ、父ぬし、


「あやしう篁が見えぬかな」
「あやしうたかむらが見えぬかな」


と言ひて、呼びにやるに、おどろきて、例の書かき集めて教へけるままになむ、
と言ひて、呼びにやるに、おどろきて、例の書かき集めて教へけるままになむ、


この女のみ心に入りて、ひがごとをのみなむ、しける。
この女のみ心に入りて、ひがごとをのみなむ、しける。


かう教ふる中に、角筆して、
かう教ふる中に、角筆して、


「かやうのものの書は、ひがごとつかまつるらむ、このごろは、もの覚えずや。
「かやうのものの書は、ひがごとつかまつるらむ、このごろは、もの覚えずや。


君をのみ
思ふ心は
わすられず
契りしことも
まどふ心か」
きみをのみ
おもふこころは
わすられず
ちぎりしことも
まどふこころか」


返し
返し


博士とは
いかが頼まむ
さとられず
ものわすれする
人の心を
はかせとは
いかがたのまむ
さとられず
ものわすれする
ひとのこころを


また、男、
また、男、


読み聞きて
よろづの書は
わするとも
君ひとりをば
思ひもたらむ
よみききて
よろづのふみは
わするとも
きみひとりをば
おもひもたらむ


かくて、この男は、弔文をぞ、常に作りかへける。
かくて、この男は、弔文てうぶんをぞ、常に作りかへける。


さて、この女、願ありて、二月の初午に、稲荷にまゐりけり。
さて、この女、ぐわんありて、二月きさらぎ初午はつうまに、稲荷いなりにまゐりけり。


供に人多くもあらで、おとな二人、わらは二人ぞありける。
供に人多くもあらで、おとな二人、わらは二人ぞありける。


おとなは、いろいろの袿、二人は、同じをなむ、着たりける。
おとなは、いろいろのうちき、二人は、同じをなむ、着たりける。


君は、綾の掻練の単襲、唐の羅の桜色の細長着て、花染の綾の細長折りてぞ、着たりける。
君は、あや掻練かいねり単襲ひとへがさねからうすものの桜色の細長ほそなが着て、花染の綾の細長折りてぞ、着たりける。


髪はうるはしくて、たけに一尺ばかりあまりて、頭つきいと清げなり。
髪はうるはしくて、たけに一尺ばかりあまりて、かしらつきいと清げなり。


顔もあやしう世人には似ず、めでたうなむありける。
顔もあやしう世人には似ず、めでたうなむありける。


男の童三四人、さては、この兄ぞ、ありける。
の童三四人、さては、このせうとぞ、ありける。


まほにはあらねど、先立ちおくれて来ける。
まほにはあらねど、先立ちおくれて来ける。


まうでざまに、困じにければ、兄いとほしがりて、
まうでざまに、こうじにければ、兄いとほしがりて、


「篁にかかり給へ」
「篁にかかり給へ」


とて寄りければ
とて寄りければ


「いで、いないな」
「いで、いないな」


と言ひて、道中に去にけり。
と言ひて、道中ににけり。


さる程に、兵衛佐ばかりの人、かたち清げにて、年二十ばかりなりけるが、詣であひて、かへさに、女の道にゐたる、
さる程に、兵衛佐ばかりの人、かたち清げにて、年二十はたちばかりなりけるが、まうであひて、かへさに、女の道にゐたる、


「あな苦し。かくてやは出で立ち給へる」もの嫉みして、
「あな苦し。かくてやは出で立ち給へる」ものねたみして、


男申すに、「かもは車つくりて、乗せ奉りて、このわたりなる、きさきのみねにすゑ奉らむ。女の身にはだいわう、みかどには誰をかと」
男申すに、「かもは車つくりて、乗せ奉りて、このわたりなる、きさきのみねにすゑ奉らむ。女の身にはだいわう、みかどには誰をかと」


言ふ程に、暮れにければ、破子さがして食はせむとするに、この佐をやりすぐす。
言ふ程に、暮れにければ、破子さがして食はせむとするに、この佐をやりすぐす。


この男、休むやうにて、降りて、
この男、休むやうにて、降りて、


人しれず
心ただすの
神ならば
思ふ心を
そらに知らなむ
ひとしれず
こころただすの
かみならば
おもふこころを
そらにしらなむ


返し
返し


やしろにも
まだきねすゑず
石神は
知ることかたし
人の心を
やしろにも
まだきねすゑず
いしがみは
しることかたし
ひとのこころを


またもおこせけれど、この兄、いそがして、車に乗せて、率て去ぬ。
またもおこせけれど、このせうと、いそがして、車に乗せて、率てぬ。


この佐、人をつけて
このすけ、人をつけて


「いづくにか率て去ぬる」と見せければ、「その家」と見てけり。
「いづくにかて去ぬる」と見せければ、「その家」と見てけり。


あしたに文あり。
あしたに文あり。


「神の教え給ひしかばなむ、さして奉る。
「神の教え給ひしかばなむ、さして奉る。


かの石神の御もとにて、今日あらば」
かの石神の御もとにて、今日あらば」


文を取り入れて見れば、この兄、出で走りて、「父ぬしも聞き給ふに、いともの騒がしく。
文を取り入れて見れば、このせうと、出で走りて、「父ぬしも聞き給ふに、いともの騒がしく。


この童は、いづくから来たるぞ。
このわらはは、いづくから来たるぞ。


いづれの好き者の使ぞ」と言ひければ、
いづれの好き者の使つかひぞ」と言ひければ、


「御文は、奉らせつれど、昨日いませしぬしの『いづれの使ぞ』とのたまふを、うちからは、翁びたる声にて『何事ぞ』など、のたまひつれば、わづらはしさになむ、まうで来ぬる」
「御文は、奉らせつれど、昨日いませしぬしの『いづれの使ぞ』とのたまふを、うちからは、翁びたる声にて『何事ぞ』など、のたまひつれば、わづらはしさになむ、まうで来ぬる」


と言ひければ、
と言ひければ、


「たうめの童」
「たうめの童」


と言ひて、またのあしたに、
と言ひて、またのあしたに、


「昨日の御返し、たびたび、いとおぼつかなし。
「昨日の御返し、たびたび、いとおぼつかなし。


この童の、あとはかなくて、まうで来にしかば
この童の、あとはかなくて、まうで来にしかば


あとはかも
なくやなりにし
浜千鳥
おぼつかなみに
さはぐ心か」
あとはかも
なくやなりにし
はまちどり
おぼつかなみに
さはぐこころか」


この兄、大学に出でにけり、樋洗童、取り入れて奉る。
このせうと、大学に出でにけり、樋洗童ひすましわらは、取り入れて奉る。


「文をも取り、大学のぬしもぞ見つくる、近からむ人の家に据ゑよ」とて
「文をも取り、大学のぬしもぞ見つくる、近からむ人の家に据ゑよ」とて


「昨日も見しかど、いさや
「昨日も見しかど、いさや


たまぼこの
道交ひなりし
君なれば
あとはかなくも
なると知らずや」
たまぼこの
みちかひなりし
きみなれば
あとはかなくも
なるとしらずや」


見て、
見て、


「ざれたるべき人かな。うたて、まがまがしうも、言ひたるかな。いかに言はまし」と思ふ。
「ざれたるべき人かな。うたて、まがまがしうも、言ひたるかな。いかに言はまし」と思ふ。


時の大納言の子なりけり。
時の大納言の子なりけり。


「あとはかもなしと、たれも。道にこそゐ給へりしか。
「あとはかもなしと、たれも。道にこそゐ給へりしか。


しばしばに
あとはかなしと
言ふことも
おなじ道には
またもあひなむ」
しばしばに
あとはかなしと
いふことも
おなじみちには
またもあひなむ」


また、これを例の、童もて来たり。
また、これを例の、わらはもて来たり。


兄、道にさしあひて、
せうと、道にさしあひて、


「いま、これより」と言ひて遣りてけり。
「いま、これより」と言ひて遣りてけり。


「かくなむ」と言へば、
「かくなむ」と言へば、


「例の、心肝なき童かな。
「例の、心肝こころぎもなき童かな。


さきに気色悪しう言ひけむ人にや取らすべき。
さきに気色けしき悪しう言ひけむ人にや取らすべき。


この稲荷にて、眼居ものしげに思へりし者ぞや。
この稲荷にて、眼居まなこゐものしげに思へりし者ぞや。


男よりのものぞや。
男よりのものぞや。


そもそも御返り」
そもそも御返り」


と言ひてやりつ。
と言ひてやりつ。


御返り憎しと思ふもののやうに、兄、いであひて、
御返り憎しと思ふもののやうに、兄、いであひて、


「御文奉り給ふ人は、よべ男に盗まれ給ひにしかば、もとめに行くぞ。
「御文奉り給ふ人は、よべ男に盗まれ給ひにしかば、もとめに行くぞ。


もし、この御文給へる人ともしらず、うち率てゆけ」と言ひければ、しりへこたへにこたへて走りにけり。
もし、この御文給へる人ともしらず、うち率てゆけ」と言ひければ、しりへこたへにこたへて走りにけり。


「さもあらむ」と言ひて、文もやらずなりにけり。
「さもあらむ」と言ひて、文もやらずなりにけり。


女、兄のはかりたるとは知らで、「あやしうおとづれぬ」と思ふをり、この兄、例のごとあるなり。
女、せうとのはかりたるとは知らで、「あやしうおとづれぬ」と思ふをり、この兄、例のごとあるなり。


「道あひ人の、知りも知らぬ人に、文通はし、懸想じ給ふ人の御心にこそありけれ。
「道あひ人の、知りも知らぬ人に、文通ふみかよはし、懸想けさうじ給ふ人の御心にこそありけれ。


かの人は、御妻に、やがてあはせ奉らむ。
かの人は、御に、やがてあはせ奉らむ。


なかうどこそよからめ、許され給ひては不用ぞ」
なかうどこそよからめ、許され給ひては不用ぞ」


など言ひければ、「なでふ目にかつかむ。
など言ひければ、「なでふ目にかつかむ。


いかに知りてか、ともかうも思はむ」
いかに知りてか、ともかうも思はむ」


「世を知らざらむ人は、さやうにも言はでこそあらめ。
「世を知らざらむ人は、さやうにも言はでこそあらめ。


見つかずの御ありさまや。
見つかずの御ありさまや。


心うし、思はずなり」など言へば、妹、いとほしうて
心うし、思はずなり」など言へば、妹、いとほしうて


「なにか、めにつかざらむ人を、しひも見給へと思はむ」とて、入りにけり。
「なにか、めにつかざらむ人を、しひも見給へと思はむ」とて、入りにけり。


例の、書読みて、「内侍になさむ」の心ありて、親は書を教ふるなりけり。
例の、ふみ読みて、「内侍ないしになさむ」の心ありて、親は書を教ふるなりけり。


文通はしにはいひたれど、この兄、心をまどはして、思ひいでられけり。
文通はしにはいひたれど、このせうと、心をまどはして、思ひいでられけり。


男、言ふやう
男、言ふやう


「かく思ひ出でられ、かぎりなき心を、思ひ知らずして、よそなる人を思ひ給へるこそつらけれ
「かく思ひ出でられ、かぎりなき心を、思ひ知らずして、よそなる人を思ひ給へるこそつらけれ


目に近く
見るかひもなく
思へども
心をほかに
やらばつらしな」
めにちかく
みるかひもなく
おもへども
こころをほかに
やらばつらしな」


と言ひければ、
と言ひければ、


「人の御心も知らずや。
「人の御心も知らずや。


あはれとは
君ばかりをぞ
思ふらむ
やるかたもなき
心とを知れ
あはれとは
きみばかりをぞ
おもふらむ
やるかたもなき
こころとをしれ


思ひぐまなや」
思ひぐまなや」


と言ひければ、すこし心ゆきて
と言ひければ、すこし心ゆきて


いとどしく
君が嘆きの
こがるれば
あらぬおもひも
燃えまさりけり
いとどしく
きみがなげきの
こがるれば
あらぬおもひも
もえまさりけり


かく言ひて、心はかよひけれど、親にもつつみ、人にもさはりければ、心とけて久しくも語らはずあり。
かく言ひて、心はかよひけれど、親にもつつみ、人にもさはりければ、心とけて久しくも語らはずあり。


されど、いかでか入りけむ、この妹の寝たる所へ入りにけり。
されど、いかでか入りけむ、この妹の寝たる所へ入りにけり。


いと忍びて、まだ夜ふかく、出でにけり。
いと忍びて、まだ夜ふかく、出でにけり。


たまさかに入りは入りたれど、あふことは難かりけり。
たまさかに入りは入りたれど、あふことは難かりけり。


常に向かひにければ、夜は逢はず、なかなかに心はそらにて、「いかにせむ」と思ひ嘆きて
常に向かひにければ、夜は逢はず、なかなかに心はそらにて、「いかにせむ」と思ひ嘆きて


うちとけぬ
ものゆゑ夢を
見てさめて
あかぬもの思ふ
ころにもあるかな
うちとけぬ
ものゆゑゆめを
みてさめて
あかぬものおもふ
ころにもあるかな


返し
返し


寝も寝ずは
夢にも見えじを
あふことの
嘆く嘆くも
あかし果てしを
いもねずは
ゆめにもみえじを
あふことの
なげくなげくも
あかしはてしを


かく夢のごとある人は、はらみにけり。
かく夢のごとある人は、はらみにけり。


書読む心地もなし。
ふみ読む心地もなし。


「例のさはりせず」
「例のさはりせず」


など、うたてあるけしきを見て、人々、言ふ。
など、うたてあるけしきを見て、人々、言ふ。


この兄も「いとほし」と見て、
このせうとも「いとほし」と見て、


春のことにやありけむ、ものも食はで、花柑子・橘をなむ、願ひける。
春のことにやありけむ、ものも食はで、花柑子はなかうじたちばなをなむ、願ひける。


知らぬほどは、親求めて食はす。
知らぬほどは、親求めて食はす。


兄、大学の
兄、大学の


饗応するに「みな取らまし」と思ひけれど、二つ三つばかり、たたう紙に入れてとらす。
饗応あるじするに「みな取らまし」と思ひけれど、二つ三つばかり、たたう紙に入れてとらす。


「あだに散る
花橘の
にほひには
緑の衣の
香こそまさらめ
「あだにちる
はなたちばなの
にほひには
みどりのきぬの
かこそまさらめ


これをきこしめすなればなむ」
これをきこしめすなればなむ」


返事に
返事に


「御ふところにありければなむ
「御ふところにありければなむ


似たりとや
花橘を
かぎつれば
緑の香さへ
うつらざりけり」
にたりとや
はなたちばなを
かぎつれば
みどりのかさへ
うつらざりけり」


かかることを、母おとど聞き給ひて、ものも、のたまはで、うかがひ給ひて、向かひ給ひたりけるを、手を取りて引きもて行きて、部屋にこめてけり。
かかることを、母おとど聞き給ひて、ものも、のたまはで、うかがひ給ひて、向かひ給ひたりけるを、手を取りて引きもて行きて、部屋にこめてけり。


これを父ぬし、聞き給ひて、のどかなりける人なれば
これを父ぬし、聞き給ひて、のどかなりける人なれば


「をのこも賢き者にて、女、幼き者にあらず。
「をのこも賢き者にて、むすめ、幼き者にあらず。


さしたるやうあらむ。
さしたるやうあらむ。


なほ許し給ひてのたまへ」とありければ、
なほ許し給ひてのたまへ」とありければ、


「おのが身を思ふとてのたまふに」とて、
「おのが身を思ふとてのたまふに」とて、


いよいよ、鍵の穴に土塗りて、
いよいよ、鍵の穴に土塗りて、


「大学のぬしをば、家の中に、な入れそ」とて追ひければ、曹司にこもり居て、泣きけり。
「大学のぬしをば、家の中に、な入れそ」とて追ひければ、曹司にこもり居て、泣きけり。


妹のこもりたる所に行きて、見れば、壁の穴いささかありけるをくじりて、
妹のこもりたる所に行きて、見れば、壁の穴いささかありけるをくじりて、


「ここもとに寄り給へ」
「ここもとに寄り給へ」


と呼び寄せて、物語りして泣き居りて、出でなまほしく思へども、まだいと若うて、ねたりたべき人もなく、わびければ、ともかくもえせで、いといみじく思ひて、語らひ居るほどに、夜明けぬべし。
と呼び寄せて、物語りして泣き居りて、出でなまほしく思へども、まだいとわかうて、ねたりたべき人もなく、わびければ、ともかくもえせで、いといみじく思ひて、語らひ居るほどに、夜明けぬべし。






数ならば
かからましやは
世の中に
いと悲しきは
賤のをだまき
かずならば
かからましやは
よのなかに
いとかなしきは
しづのをだまき


返し
返し


いささめに
つけし思ひの
煙こそ
身をうき雲と
なりて果てけれ
いささめに
つけしおもひの
けぶりこそ
みをうきくもと
なりてはてけれ


と言ひて、泣きあへりけり。
と言ひて、泣きあへりけり。


夜明けになれば、曹司に帰りて、この女食ひつべきやうに、物を返りてもていかむとするに、心まどひして、足もえ踏み立てず、もの覚えざりければ、むつまじう使う雑色を使にて
夜明けになれば、曹司に帰りて、この女食ひつべきやうに、物を返りてもていかむとするに、心まどひして、足もえ踏み立てず、もの覚えざりければ、むつまじう使う雑色ざふしき使つかひにて


「ただ今心地あしうて、え参り来ず。
「ただ今心地あしうて、え参り来ず。


そのほど、これすき給へ。
そのほど、これすき給へ。


ためらひて参らむ」
ためらひて参らむ」


女、穴のもとにて待つに、かく言ひたれば、
女、穴のもとにて待つに、かく言ひたれば、


たがためと
思ふ命の
あらばこそ
消ぬべき身をも
惜しみとどめめ
たがためと
おもふいのちの
あらばこそ
けぬべきみをも
おしみとどめめ


取り入れず。
取り入れず。


帰りて
帰りて


「かくなむ」と言ひければ、かしかうして、またまた行きて見れば、三四日ものも食はで、ものを思ひければ、いとくちをしう、息もせず。
「かくなむ」と言ひければ、かしかうして、またまた行きて見れば、三四日ものも食はで、ものを思ひければ、いとくちをしう、息もせず。


「いかがおはします」と言ひければ
「いかがおはします」と言ひければ


消え果てて
身こそはるかに
なり果てめ
夢の魂
君にあひ添へ
きえはてて
みこそはるかに
なりはてめ
ゆめのたましひ
きみにあひそへ


返し
返し


魂は
身をもかすめず
ほのかにて
君まじりなば
何にかはせむ
たましひは
みをもかすめず
ほのかにて
きみまじりなば
なににかはせむ


とて、よろづのことを言ひて泣けども、いらへせずなりにければ、
とて、よろづのことを言ひて泣けども、いらへせずなりにければ、


「死ぬ」とて、泣き騒げば、声を聞きて、ときあけて見れば、絶え入る気色を見て、まどひ出でて、ほかの家に去にけり。
「死ぬ」とて、泣き騒げば、声を聞きて、ときあけて見れば、絶え入る気色を見て、まどひ出でて、ほかの家ににけり。


親出でて後に、出で居て、入りて、見れば、死にて臥せり。
親出でて後に、出で居て、入りて、見れば、死にて臥せり。


泣き叫べどかひなし。
泣き叫べどかひなし。


その日の夜さり、火をほのかにかきあげて、泣き臥せり。
その日の夜さり、火をほのかにかきあげて、泣き臥せり。


あとのかた、そそめきけり。
あとのかた、そそめきけり。


火を消ちてみれば、添ひ臥す心地しけり。
火を消ちてみれば、添ひ臥す心地しけり。


死にし妹の声にて、よろづの悲しきことを言ひて、泣く声も言ふことも、ただそれなれば、もろともに
死にし妹の声にて、よろづの悲しきことを言ひて、泣く声も言ふことも、ただそれなれば、もろともに


語らひて、泣く泣くさぐれば、手にもさはらず、手にだにあたらず。
語らひて、泣く泣くさぐれば、手にもさはらず、手にだにあたらず。


ふところにかき入れて、わが身のならむやうもしらず、臥さまほしきことかぎりなし。
ふところにかき入れて、わが身のならむやうもしらず、臥さまほしきことかぎりなし。


泣き流す
涙の上に
ありしにも
さらぬわかれに
あはにむすべる
なきながす
なみだのうへに
ありしにも
さらぬわかれに
あはにむすべる


女、返し
女、返し


つねに寄る
しばしばかりは
あはなれば
つひにとけなむ
ことぞ悲しき
つねによる
しばしばかりは
あはなれば
つひにとけなむ
ことぞかなしき


と言ふほどに、夜明けにければ無く、親は捨てて去にければ、とかくをさむることは、ただこの兄ぞしける。
と言ふほどに、夜明けにければ無く、親は捨てて去にければ、とかくをさむることは、ただこの兄ぞしける。


人は皆、捨てて行きにければ、兄、従者三四人、学生一人して、この女を、死にける屋を、いとよくはらひて、花・香たきて、遠き所に、火をともしてゐたれば、この魂なむ夜な夜な来て語らひける。
人は皆、捨てて行きにければ、せうと従者ずんさ三四人、学生がくしやう一人して、この女を、死にけるを、いとよくはらひて、花・かうたきて、遠き所に、火をともしてゐたれば、この魂なむ夜な夜な来て語らひける。


三七日、いとあざやかなり。
三七日、いとあざやかなり。


四七日、時々見えけり。
四七日、時々見えけり。


この男、涙つきせず泣く。
この男、涙つきせず泣く。


その涙を硯の水にて、法華経を書きて、比叡の三昧堂にて七日のわざしけり。
その涙をすずりの水にて、法華経を書きて、比叡の三昧堂さんまいだうにて七日のわざしけり。


その人、七日は、なしはてても、ほのめくこと絶えざりけり。
その人、七日は、なしはてても、ほのめくこと絶えざりけり。


三年過ぎては、夢にもたしかには見えざりけり。
三年過ぎては、夢にもたしかには見えざりけり。


なほ悲しかりければ、はじめのごとしてなむ、まかせたりける。
なほ悲しかりければ、はじめのごとしてなむ、まかせたりける。


妻にも寄らで、独りなむありける。
にも寄らで、独りなむありける。


時の右大臣のむすめ賜へと、ふみをおもしろく作りて、内裏に参り給ふとて、御車より通り給ふごとに、ついふるまひて、奉れ侍るに、取りて見給ひ、
時の右大臣のむすめたまへと、ふみをおもしろく作りて、内裏うちに参り給ふとて、御車より通り給ふごとに、ついふるまひて、奉れ侍るに、取りて見給ひ、


「うけたまはりぬ。
「うけたまはりぬ。


いま家にまかりて、御返りきこえむ」
いま家にまかりて、御返りきこえむ」


とのたまふ。
とのたまふ。


大学に入りにけり。
大学に入りにけり。


殿に帰り給ひて、御むすめ三人おはしけり。
殿に帰り給ひて、御むすめ三人おはしけり。


大君に
大君おほひぎみ


「しかじかのことなむある。
「しかじかのことなむある。


いかに」ときこえ給へば、怨じて、泣きて入り給ひぬ。
いかに」ときこえ給へば、じて、泣きて入り給ひぬ。


中君、おなじこときこえ給ふ。
中君なかのきみ、おなじこときこえ給ふ。


三君に、きこえ給ふ。
三君さんのきみに、きこえ給ふ。


「ともかくも、おほせ言にこそ従はめ」とのたまへば、いと清げに寝殿つくりて、よき日して呼び給ふ。
「ともかくも、おほせ言にこそ従はめ」とのたまへば、いと清げに寝殿つくりて、よき日して呼び給ふ。


御消息ありければ、いと悲しう、つるばみの衣の破れ困じたる着て、しりゐたる沓はきて、ふくめる書の帙取りて来にけり。
御消息せうそこありければ、いと悲しう、つるばみのきぬこうじたる着て、しりゐたるくつはきて、ふくめるふみちつ取りて来にけり。


帳の内に入りて、まづ、この文巻を賜へれば、取り給はねば、篁さして行けば、この君、皮の帯を取りて引きとめ給へば、とまり給ひにけり。
ちやうの内に入りて、まづ、この文巻を賜へれば、取り給はねば、篁さして行けば、この君、皮の帯を取りて引きとめ給へば、とまり給ひにけり。


これを垣間見て、父おとど、見給ひて、
これを垣間見て、父おとど、見給ひて、


「いとかしこうしつ」と喜び給ふ。
「いとかしこうしつ」と喜び給ふ。


「出でて去なまし。
「出でて去なまし。


いかに人聞き、やさしからまし。
いかに人聞き、やさしからまし。


いとかしこきことなり」と喜び給ふ。
いとかしこきことなり」と喜び給ふ。


三日の夜、いといかめしうして待ち給ふ。
三日の夜、いといかめしうして待ち給ふ。


ただ、童一人ぞ具し給ひける。
ただ、わらは一人ぞし給ひける。


さて、このころ、妹のある屋に行きたりければ、いと悲しかりければ、寝にけり。
さて、このころ、妹のある屋に行きたりければ、いと悲しかりければ、寝にけり。


妹、
妹、


見し人に
それかあらぬか
おぼつかな
もの忘れせじと
思ひしものを
みしひとに
それかあらぬか
おぼつかな
ものわすれせじと
おもひしものを


と言ひければ、かの殿にも行かでぞ泣きをりける。
と言ひければ、かの殿にも行かでぞ泣きをりける。


久しう来ねば、大殿、「あやし」とおぼしけり。
久しう来ねば、大殿おほひどの、「あやし」とおぼしけり。


七日ばかりありて来たり。
七日ばかりありて来たり。


「などか、見え給はざりける」
「などか、見え給はざりける」


とのたまへば、すなほなりける人にて、ことかくさで言ひければ、妻、
とのたまへば、すなほなりける人にて、ことかくさで言ひければ、


「いとあるべかしきことにて、あはれのことや。
「いとあるべかしきことにて、あはれのことや。


わがためにも、さらずはおはせめ。
わがためにも、さらずはおはせめ。


わいてもこそは、むかし人は、心もかたちも、さものし給ひければこそ、年を経て、え忘れがたくし給ふらめ。
わいてもこそは、むかし人は、心もかたちも、さものし給ひければこそ、年を経て、え忘れがたくし給ふらめ。


さる人を見給ひけむに、言ひ知らで見え奉るよ。
さる人を見給ひけむに、言ひ知らで見え奉るよ。


後の世いかならむ。
後の世いかならむ。


飽かずして
過ぎける人の
魂に
生ける心を
見せ給ふらむ
あかずして
すぎけるひとの
たましひに
いけるこころを
みせたまふらむ


あな恥づかし」とのたまふに、男
あな恥づかし」とのたまふに、男


「なにか、それはおぼしめす。
「なにか、それはおぼしめす。


かくては、果てはえ知ろしめさじ。
かくては、果てはえ知ろしめさじ。


御魂のあるやうも見るべく、試みに、さやなり給はぬ」とて
御魂のあるやうも見るべく、試みに、さやなり給はぬ」とて


「別れなば
おのが魂魂
なりぬとも
おどろかさねば
あらじとぞ思ふ
「わかれなば
おのがたまだま
なりぬとも
おどろかさねば
あらじとぞおもふ


出でてまかりしを、引きとどめて、今日までさぶらはせ給ふ、うるさしかし」と言ひける。
出でてまかりしを、引きとどめて、今日までさぶらはせ給ふ、うるさしかし」と言ひける。


この男は、若き間は、いとねんごろにみえで、ほかに夜がれなどもしけり。
この男は、若きあひだは、いとねんごろにみえで、ほかに夜がれなどもしけり。


なり出でて、宰相よりも上になりにけり。
なり出でて、宰相よりもかみになりにけり。


これなむ名に立つ篁なりける。
これなむ名に立つ篁なりける。


才学にはさらにも言はず、歌つくることも得たり顔に、この国の人には、たえずぞありける。
才学にはさらにも言はず、歌つくることも得たり顔に、この国の人には、たえずぞありける。


この子孫どもにて、かく歌詠まぬはなかりけり。
この子孫こむまごどもにて、かく歌詠まぬはなかりけり。


聞き給はざりし姉二人所は、いとわろき人の妻にて、この御徳を見給ひける。
聞き給はざりし姉二人所は、いとわろき人のにて、この御徳を見給ひける。


いとよくなり出でければ、この三の君を、また二なく、もてかしづき奉る。
いとよくなり出でければ、この三の君を、また二なく、もてかしづき奉る。


今の人、まさに大学の衆を婿にとる大臣もあらむや。
今の人、まさに大学の衆を婿にとる大臣もあらむや。


ただ、心高き、才を、とり給ふなるべし。
ただ、心高き、才を、とり給ふなるべし。


また、あらじかし、かやうに思ひて、文作る人は。
また、あらじかし、かやうに思ひて、文作る人は。