かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。
かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。
На железной дверце написано: «Третий год Бундзи, дар Идзуми Сабуро».
文治六年女御入内屏風に
皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)
文治六年女御入内屏風に
皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)
文治六年女御入代の屏風に、臨時祭かけるところをよみ侍りける
皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)
文治六年女御入代の屏風に、臨時祭かけるところをよみ侍りける
皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)
文治六年女御入内屏風に
後徳大寺左大臣
文治六年女御入内屏風に
後徳大寺左大臣
文治のころほひ百首歌よみ侍りけるに、懐旧歌とてよめる
左近中将公衡(藤原公衡)
文治のころほひ百首歌よみ侍りけるに、懐旧歌とてよめる
左近中将公衡(藤原公衡)
文治六年女御入内屏風に
入道前関白太政大臣
文治六年女御入内屏風に
入道前関白太政大臣
文治六年女御入代屏風に、春日祭
入道前関白太政大臣(藤原兼実)
文治六年女御入代屏風に、春日祭
入道前関白太政大臣(藤原兼実)
Сложена о празднике в храме Касуга
Канэдзанэ
文治六年女御入内屏風に
正三位季経(藤原季経)
文治六年女御入内屏風に
正三位季経(藤原季経)
文治六年女御入内の屏風に、駒迎の所
後京極攝政前太政大臣
文治六年女御入内の屏風に
後法性寺入道前關白太政大臣
文治の頃ほひ父の千載集撰び侍りしとき定家がもとに遣すとてよみ侍りける
尊圓法師
文治二年七月白河殿にて人々題を探りて七百首の歌つかうまつりける序でに、花下忘歸といふ事を
後嵯峨院御製
文治六年女御入内の屏風に、内侍所の御神樂の儀式のある所
前中納言定家
文治六年、女御入内の屏風に、山中に菊盛に開けたる邊に仙人ある所
前中納言定家
文治六年、女御入内の屏風に、江澤の邊に寒蘆茂る所鶴立つ
前中納言定家
文治六年正月、女御入内の屏風に、小朝拜
皇太后宮大夫俊成
文治六年、女御入内の屏風に、十二月内侍所の御神樂の所
皇太后宮大夫俊成
文治六年女御入内の屏風の歌、春日の祭の社頭の儀
皇太后宮大夫俊成
文治六年女御入內の屏風に
後法性寺入道前關白太政大臣
文治六年女御入内月次の屏風に、田中に人家ある所
皇太后宮大夫俊成
文治六年女御入内の屏風に、人の家有て花の中にうくひす木つたふ所
皇太后宮大夫俊成
文治六年女御入内屏風に、人の家ある野へに梅の花さきたる所
前中納言定家
文治六年女御入内屏風に、沢のほとりに春駒ある所
皇太后宮大夫俊成
文治六年女御入内屏風に、賀茂下社神館のほとりに葵かさしたる人ある所
前中納言定家
文治六年女御入内屏風に、菖蒲かりたる所、又人家にふきたるかたあり
前中納言定家
文治六年女御入内の屏風に、河のほとりに六月祓したる所
皇太后宮大夫俊成
文治六年女御入内屏風に、人家池辺に人々月をもてあそふ所
前中納言定家
文治六年女御入内屏風に、花の木に鶯こつたひて人の家ある所
前中納言定家
文治六年女御入內の屏風に
後法性寺入道前關白太政大臣
文治六年女御入内屏風に、十一月五節のまいりの所
皇太后宮大夫俊成
文治元年夏の比、明はなるゝ程、雨すこしふりて郭公なきわたるも哀に聞てよみ侍ける
建礼門院右京大夫
Идзуми Сабуро — иначе Фудзивара Тадахира, третий сын известного военачальника Фудзивара Хидэхира (? — 1187) (см. примеч, 195), который, выполняя последнюю волю отца, примкнул к Минамото Есииунэ и в 1189 году был убит своим старшим братом Ясухира, По другой версии, выступил против войска брата и покончил с собой.