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二月堂に籠りて
二月堂にぐわつだうこもりて
Уединившись в Нигацудо:
Нигацудо — одно из строений храмового комплекса То-дайдзи в Нара.
今成東大寺。

Сейчас он зовется То:дайдзи.

今東大寺於羂索堂北戶而立也。

стоит теперь у северного входа в молельню Кэнсакудо: храма То:дайдзи.

東大寺進入牛七十頭馬卅疋治田廿町稻四千束、

Храму То:дайдзи они пожаловали семьдесят коров, тридцать лошадей, двадцать тё: полей и четыре тысячи снопов риса.

世の中に手斧の音する所は、東大寺とこの宮とこそは侍るなれ。

Если где в мире и стучали топоры, так это в храме То:дайдзи и в сем дворце!

89. Храм То:дайдзи — крупнейший буддийский храм Японии в г. Нара. в нем находится гигантская статуя Будды.
まづは、造らしめ給へる御堂などの有様、鎌足のおとどの多武峯、不比等のおとどの山階寺、基経のおとどの極楽寺、忠平のおとどの法性寺、九条殿の楞厳院、天のみかどの造り給へる東大寺も、仏ばかりこそは大きにおはすめれど、なほこの無量寿院には並び給はず。



また、大宮のいまだ幼くおはしましける頃、北の政所具し奉らせ給ひて、春日に参らせ給ひけるに、御前の物どもの参らせ据ゑたりけるを、俄かに辻風の吹きまろびて、東大寺の大仏殿の御前に落したりけるを、春日の御前なる物の源氏の氏寺に取られたるは、よからぬ事にや、これをも、その折、世の人申ししかど、ながく御末栄え給ふは吉相にこそはありけれ、とぞおぼえ侍るな。



つとめて、そこをたちて、東大寺に寄りて拝み奉る。

На следующее утро мы двинулись дальше, по дороге зашли в храм Тодайдзи[104], помолились там.
[104] Храм Тодайдзи — буддийский храм в окрестностях города Нара, основан в середине VIII в.
「昔、齊衡せいかうの頃かとよ。大地震ふりて、東大寺の佛の御頭みぐし落ちなどして、いみじき事ども侍りけれど、猶この度には如かず。」とぞ。

Правда, в древности, в годы Сайко (854— 856), было большое землетрясение: в храме Тодайдзи даже упала голова со статуи Будды; много и других подобных несчастий происходило; но все это никак не может сравниться с тем, что произошло на этот раз.
* ...в храме Тодайдзи... — Храм Тодайдзи в Нара был построен в 749—751 гг. как символ японского буддизма. В нем находится шестнадцатиметровая статуя сидящего Будды Вайрочана — Будды Света.
東大寺の神輿、東寺の若宮より帰座の時、源氏の公卿参られけるに、この殿、第府にて先を追はれけるを、

Когда священный ковчег, принадлежащий храму Тодайдзи, собрались из святилища Вакамия, что входит в состав Восточного храма, вернуть на место, с ним отправились вельможи и сановники из рода Минамото. И тут господин Кога, который был тогда генералом, выехал вперед и принялся криками разгонять толпу перед процессией.

かの国にて、善男夢に見るやう、西大寺と東大寺とを胯げて立ちたりと見て、妻の女にこの由を語る。



さる田舎にて法師になりにければ、まだ受戒もせで、いかで京に上りて、東大寺といふ所にて受戒せんと思ひて、とかくして上りて、受戒してけり。



さてもとの国へ帰らんと思ひけれども、よしなし、さる無仏世界のやうなる所に帰らじ、ここにゐなんと思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、いづくにか行ひして、のどやかに住みぬべき所あると、よろづの所を見まはしけるに、未申の方に当たりて、山かすかに見ゆ。



この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ、かうまで年ごろ見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみ言ひて、知りたるとといふ人なし。



尋ねわびて、いかにせん、これが行く末聞きてこそ帰らめと思ひて、その夜東大寺の大仏の御前にて、「この命蓮があり所、教へさせ給へ」と夜一夜申して、うちまどろみたる夢に、この仏仰せらるるやう、「尋ぬる僧の在所は、これより未申の方に山あり。



これも今は昔、東大寺に恒例の大法会あり。



昔、東大寺に上座法師のいみじく楽しきありけり。

В давние времена в храме Тодайдзи пребывал Заместитель настоятеля – необычайно богатый монах!
Кикнадзе Д. «Удзи сюи моногатари» как источник по духовной культуре Японии эпохи Хэйан (794–1185) / Диссертация на соискание ученой степени кандидата исторических наук. Научный руководитель К.Г.Маранджян. СПб., 2016. 193 с.
さりながら衆中にてかくいふ事を、何とも答へざらんも口惜しと思ひて、かれがえすまじき事を、思ひめぐらしていふやう、「賀茂祭の日、真裸にて、褌ばかりをして、干鮭太刀にはきて、やせたる牝牛に乗りて、一条大路を大宮より河原まで、『我は東大寺の聖宝なり』と、高く名のりて渡り給へ。

Надо бы дать ответ сейчас, пока не поздно, а то юнец задаст этот же вопрос перед всей братией – позора не оберешься!”. Поэтому скупердяй решил дать послушнику на его взгляд совершенно невыполнимое задание: “В день проведения фестиваля Камо ты должен будешь в одной набедренной повязке-фундоси верхом на тощем быке, размахивая сушеным лососем, словно мечом, пройти весь Первый проспект от улицы Оомия до берега реки, громко выкрикивая «Я – Сёхо из храма Тодайдзи»!

何事かあらんと思ひて、頭さし出して、西の方を見やれば、牝牛に乗りたる法師の裸なるが、干鮭を太刀にはきて、牛の尻をはたはたと打ちて、尻に百千の童部つきて、「東大寺の聖宝こそ、上座とあらがひして渡れ」と、高く言ひけり。

Заместитель настоятеля повернул голову к западной стороне, желая узнать, в чем дело. Голый монах верхом на костлявом быке размахивал сушеной рыбиной, как мечом. Вслед за быком бежала стайка мальчишек, они легонько шлепали руками быка и выкрикивали: “Дорогу Сёхо из Тодайдзи – он поспорил с самим Заместителем настоятеля!”.

東大寺の法蔵僧都は、この左大将の御祈の師なり。



天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等
于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首

1-й год Тэмпё-кампо , 5-й день пятой луны
Устроили пир в честь монаха Хэйэя из храма Тодайдзи, прибывшего для принятия во владение храма вспаханной целины. Вот песня, которую тогда послал монаху с вином Отомо Якамоти:
* Храм Тодайдзи — крупнейшее архитектурное сооружение VI II в. с гигантской статуей Будды (Дайбуцу) находится в городе Нара.
建久六年、東大寺供養に行幸の時、興福寺の八重桜さかりなりけるを見て、枝に結びつけて侍りける

読人しらず
建久六年、東大寺供養に行幸の時、興福寺の八重桜さかりなりけるを見て、枝に結びつけて侍りける

読人しらず
Неизвестный автор

七大寺者、東大寺‧興福寺‧西大寺‧元興寺‧大安寺‧藥師寺‧法隆寺。

Семь великих храмов: Тодайдзи, Кофукудзи, Сайдайдзи, Дайандзи, Якусидзи, Гангодзи, Хорюдзи.

吾朝にも、聖武天皇東大寺をつくりたまひしかバ、小壬生明神泉をほれり。



南天竺より東大寺供養にあひに、菩提かなきさにきつきたりける時、よめる

大僧正行基
南天竺より東大寺供養にあひに、菩提かなきさにきつきたりける時、よめる

大僧正行基


「よしなし。さる無仏世界のやうなる所に行かじ。ここに居なむ」と思ふ心つきて、東大寺の仏の御前に候ひて、

"Нет в том ничего хорошего. Не пойду в такое место, где будду не почитают. Буду жить тут." — так решив, встал перед буддой храма Тодайдзи,

さる田舎にて法師になりにければ、また受戒もせで、「いかで京に上りて、東大寺といふ所に参りて受戒せん」と思ひて、かまへて上りて受戒してけり。
さる田舎にて法師になりにければ、また受戒ずかいもせで、「いかで京に上りて、東大寺といふ所に参りて受戒せん」と思ひて、かまへて上りて受戒してけり。
В какой-то глуши стал он монахом, но пока посвящения не принимал. Подумал он: "А пойду-ка я в столицу, да и в месте, называемом Тодайдзи, постригусь в монахи.", — и, согласно тому, добрался до столицы и принял постриг.

「あはれ、この小院、『東大寺にて受戒せむ』とて上りしままに見えぬ。かうまて年ごろ見えぬ。いかなるならむ」とおぼつかなきに、「尋ねて来ん」とて、上りて山階寺・東大寺のわたりを尋ねけれど、「いざ知らず」とのみ言ふなる。
「あはれ、この小院こゐむ、『東大寺にて受戒せむ』とて上りしままに見えぬ。かうまて年ごろ見えぬ。いかなるならむ」とおぼつかなきに、「尋ねて来ん」とて、上りて山階寺・東大寺のわたりを尋ねけれど、「いざ知らず」とのみ言ふなる。


その時、年ごろの弟子・使はれし人なんども、「我も、我も」と争ひて、東大寺の荘園を望みにけれども、一所も人のかへりみにもせずして、みな寺の修理の用途に寄せられたりける。
その時、年ごろの弟子・使はれし人なんども、「我も、我も」と争ひて、東大寺の荘園を望みにけれども、一所いつしよも人のかへりみにもせずして、みな寺の修理しゆりの用途に寄せられたりける。


一年、東大寺の大仏供養の時、田舎の人、残りなく参り集まりけるころ、かの勧進の聖、夢に見けるやう、一人の高僧来て、告げていはく、「この貴賤・道俗数知らず集まる中に、大夫阿闍梨実印といふ僧の、無始の罪障、ことごとく滅するなり」とのたまふ。
一年ひととせ、東大寺の大仏供養の時、田舎の人、残りなく参り集まりけるころ、かの勧進の聖、夢に見けるやう、一人の高僧来て、告げていはく、「この貴賤・道俗数知らず集まる中に、大夫阿闍梨実印じちいんといふ僧の、無始の罪障、ことごとく滅するなり」とのたまふ。


一年、東大寺の大仏供養の年、二十二・三ばかりにて、父母にあひ具して詣でたりける時、さるべきにやありけん、心の中に強く道心発して、「いかで身をなきものになして、思ふさまに仏道を修行してしがな」と思ひければ、父母、さらに許さず。
一年ひととせ、東大寺の大仏供養の年、二十二・三ばかりにて、父母にあひ具して詣でたりける時、さるべきにやありけん、心の中に強く道心発おこして、「いかで身をなきものになして、思ふさまに仏道を修行してしがな」と思ひければ、父母、さらに許さず。


かの東大寺の本尊は、聖武天皇の製作、金銅十丈餘の廬舍那佛なり。



今昔、聖武天皇、東大寺を造て、開眼供養し給はむと為るに、其の時に行基と云ふ人有り。



此の人、南天□□□□□□□□□□遥に天竺□□東大寺の供養に会はむが為に来れる也。



天皇、喜び貴び給て、此の人を以て講師として、思の如く東大寺を供養し給ひつ。



天皇、是を聞食て、正四位下吉備の朝臣真吉備*を以て、詔して云く、「我れ東大寺を造れるに、戒壇を起て戒律を伝ふべし。然れば、我れ専に喜ぶ所也」。


* 吉備真備
其の後、忽に東大寺の大仏の前に戒壇を起て、和尚を以て戒師として、登壇受戒し給ひつ。



亦、同十四年と云ふ年、廿二にして東大寺の戒壇にして具足戒を受く。



今昔、聖武天皇、東大寺を造給ふ。



天皇、「尤も然るべかりけり」と思食て、此の東大寺を造る行事の良弁僧正と云ふ人を召て、其の人を以て申給ふ。



然れば、多の僧、東大寺に移しぬ。



「昔し、此の朝に声聞戒を伝へて、東大寺に起たり。而るに、大師、唐に渡て、菩薩戒を受伝へて、返来れり。我が宗の僧は、此の戒を受くべし。南岳・天台の二人の大師、此の菩薩戒を受たり。然れば、此の山に別に戒壇院を起む」と申すに、免さるる事無し。



其の年の四月十三日に、東大寺の戒壇院にして、具足戒を受つ。



其の時に、天皇、東大寺を造給ふ。



今昔、聖武天皇、東大寺を造り給て、先づ開眼供養し給ふに、婆羅門僧正と云ふ人、天竺より来り給へるを、行基菩薩、兼て其れを知て、其の人を勧めて、其れを講師として供養し給はむと為るに、「読師には誰人をか請ずべき」と思食し煩けるに、天皇の御夢に、止事無き人来て告て云く、「開眼供養の日の朝、寺の前に先づ来らむ者を以て、僧俗を撰ばず、貴賤を嫌はず、読師に請ずべき也」と告ぐと見て、夢悟め給ぬ。



其の後、亦東大寺に住ける僧に陽勝仙人値て、語て云く、「我れ此の山に住して五十余年を経たり。年は八十に余れり。仙の道を習ひ得て、空を飛ぶ事自在也。空に昇り地に入るに障無し」と。



今昔、東大寺に仁鏡と云ふ僧有けり。



今昔、東大寺に戒壇の和上として明祐と云ふ人有けり。



今昔、東大寺に一人の僧有けり。



蔵満、要事有て、白地に東大寺より京に上る間、途中にして不慮の外に登昭*と云ふ相人に値ぬ。


* 底本頭注「登昭諸本登照ニ作ル下同ジ」
而る間、未だ東大寺を造らざる時に、金就行者、其の寺に住して、仏の道を行ふに、其の山寺に、一の執金剛神の𡓳*像在ます。


* 土へんに聶
其の光りを放ち給へる執金剛神𡓳*□□□東大寺の羂索堂の北の戸に、于今立給へり。


5
今昔、東大寺に住ける僧有けり。



恐々づ内に入て見れば、東大寺に死し僧有り。



本東大寺の僧也。



励むで住つる弟子の君達も、或は東大寺に行き、或は□□行などして、散々に去ぬれば、十余年の程に、人ほろろも無き寺に成ぬ。



而れば、極て恐れさせ給ふ間、人有て、奏して云く、「東大寺の南に、高山と云ふ山有り。其の山に、仏道を修行して、久く住する聖人有けり。行ひの薫修積て、野に走る獣を加持し留め、空に飛ぶ鳥を加持し落すなり。彼れを召て、加持を奉らせば、必ず其の験し候ひなむ」と。



春日の御社・山階寺などの、其の御祈共有けるに、東大寺の法蔵僧都は左大将の祈の師也。



然れば、法蔵僧都は東大寺の僧也。



而る間、東大寺に有る□□と云ふ僧、同く御読経に候ひけるに、其れも殿の辺近き所に、果僧*と同じ房に宿したりけるに、其の同宿の僧の見ければ、□弟子の下法師を呼て、私語て物へ遣つ。


* 底本頭注「果僧一本異僧ニ作ル」
清廉、「其の事に候ふ。此の国一つの事にも候はず。山城・伊賀の事を沙汰仕り候ふ間に、何方にも沙汰仕り遣らずして、事多く罷成にたれば、否仕り遣らぬを、今年の秋、皆成し畢候ひなむとす。異折にこそ、此も彼も候はめ。殿の御任には何かでか愚には候はむ。此まで下申て候こそ、心の内には奇異く思給へ候へば、今は何にても仰せに随て、員のままに弁へ申てむと為る物をば、穴糸惜し、千万石也と云ふとも、未進は罷り負なむや。年来、随分の貯へ仕りたれば、此まで疑ひ思食して仰せ給ふこそ、口惜く候へ」と云て、心の内には、「此は何事云ふ貧窮にか有らむ。屁をやはひり懸けぬ。返らむままに、伊賀の国の東大寺の庄の内に入居なむには、極からむ守の主也とも、否や責め給はざらむ。何なる狛の者の、大和の国の官物をば弁へけるぞ。前にも天の分地の分に云ひ成して止ぬる物を。此の主の、したり顔に、此く『慥に取らむ』と宣ふ、嗚呼の事也かし。大和の守に成給ふにて、思えの程は見えぬ。可咲き事也かし」と思へども、現には極く畏まりて、手を摺つつ云ひ居たるを、守、「盗人なる心にて、否主此く口浄くな云ひそ。然りとも、返なば、使にも会はずして、其の沙汰よも為じ。然れば、今日、其の沙汰切てむと思ふ也。主、物成さずして。否返らじ」と云へば、清廉、「我が君、罷返て、月の内に弁へ切候ひなむ」と云ふを、守、更に信ぜずして云く、「主を見進て、既に年来に成ぬ。主も亦輔公を見て、久く成ぬらむ。然れば、互に情無き事をば否翔ぬ也。然れども、只今有る心にて、此の弁へ畢てよ」と。



「いかにせむ。これが有様聞きてこそ帰らめ」と思ひて、その夜、東大寺の大仏の御前に候ひて、
「いかにせむ。これが有様ありさま聞きてこそ帰らめ」と思ひて、その夜、東大寺の大仏の御前に候ひて、


東大寺別当の空きたりけるに、白河院、この人をなし給ふ。



東大寺の方には、人少なにて、ものさびしき様に見えければ、聖梵、もとより心素直ならぬ者にて、心の中に思ふやう、「人多き所にて、思ふさまに成り出でんことは、きはめて難し。東大寺の方へこそ行くべかりけれ」と思ひて、永朝に言ふやう、「一所にては悪しかりなむ。そなたには興福寺へいませ。われは、もとより三論宗を少し学したれば、東大寺へまからん」と言ひて、そこよりなむ、おのおの行き別れける。
東大寺の方には、人少ずくなにて、ものさびしき様に見えければ、聖梵、もとより心素直ずなほならぬ者にて、心の中に思ふやう、「人多き所にて、思ふさまに成り出でんことは、きはめてかたし。東大寺の方へこそ行くべかりけれ」と思ひて、永朝に言ふやう、「一所にては悪しかりなむ。そなたには興福寺へいませ。われは、もとより三論宗を少し学したれば、東大寺へまからん」と言ひて、そこよりなむ、おのおの行き別れける。


つぎの日、夜部のしきなど申されし御返事の次に、東大寺のねばかりぞ昔にもかはらぬ心ちして、思いださるゝ事おほう侍しまゝに、猶しゐてものがれ申されざりしくやしさなど申されて