高陽院殿修造の時も、石をたつる人みなうせて、たまたまさもやとて、めしつけられたりしものも、いと御心にかなはずとて、それをバさる事にて宇治殿御みづから御沙汰ありき。
К началу реконструкции сада дворца Кая-но-ин не осталось ни одного мастера, который мог бы искусно выполнить работу по установке камней, поэтому Удзи-доно был вынужден лично руководить работой.
寛治八年前太政大臣高陽院歌合に、郭公を
周防内侍
寛治八年前太政大臣高陽院歌合に、郭公を
周防内侍
京極関白前太政大臣高陽院歌合に
前中納言匡房
京極関白前太政大臣高陽院歌合に
前中納言匡房
寛治八年関白前太政大臣高陽院歌合に、祝の心を
康資王母
寛治八年関白前太政大臣高陽院歌合に、祝の心を
康資王母
幼き子の失せにけるがうゑおきたりける昌蒲を見て、よみ侍りける
高陽院木綿四手
幼き子の失せにけるがうゑおきたりける昌蒲を見て、よみ侍りける
高陽院木綿四手
高陽院にて、花の散るを見てよみ侍りける
肥後(藤原定成女)
高陽院にて、花の散るを見てよみ侍りける
肥後(藤原定成女)
上東門院、高陽院におはしましけるに、行幸侍りて、堰き入れたる滝を御覧じて
後朱雀院御歌
上東門院、高陽院におはしましけるに、行幸侍りて、堰き入れたる滝を御覧じて
後朱雀院御歌
この高陽院殿にて競馬ある日、鼓は、讃岐前司明理ぞ打ち給ひし。
これも今は昔、高陽院造らるる間、宇治殿御騎馬にて渡らせ給ふ間、倒れさせ給ひて心地違はせ給ふ。
帝の狭間に、垣楯などして、仁王講おこなはるる僧も、高陽院の方の土戸より、童子などもいれずして、僧ばかりぞ参りける。
寛治八年さきのおほきおほいまうちきみの高陽院の家の歌合に、さくらのうたとてよめる
中納言女王
寛治八年さきのおほきおほいまうちきみの高陽院の家の歌合に、さくらのうたとてよめる
中納言女王
寛治八年さきのおほきおほいまうちきみの高陽院の家の歌合に、さくらをよめる
内侍周防
寛治八年さきのおほきおほいまうちきみの高陽院の家の歌合に、さくらをよめる
内侍周防
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
治部卿通俊
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
治部卿通俊
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
藤原顕綱朝臣
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
藤原顕綱朝臣
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
源俊頼朝臣
京極前太政大臣の高陽院の家の歌合に、雪の歌とてよみ侍りける
源俊頼朝臣
京極のさきのおほきおほいまうちきみの高陽院の家の歌合に、いはひの心をよみ侍りける
源俊頼朝臣
京極のさきのおほきおほいまうちきみの高陽院の家の歌合に、いはひの心をよみ侍りける
源俊頼朝臣
* Согласно сведениям из исторических источников можно предположить, что реконструкция дворца и сада Кая-но-ин проводилась после пожара в 1039 г. [Сигэмори М., Сигэмори К. Нихон тэйэн сидайкэй — 34. Нихон тэйэн синэнхё = Энциклопедия по истории японского сада. Т. 34. Хронология японского сада и др. Токио: Сякаи сисося, 1978. 293 с. Яп. яз. с. 31—32].