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これも今は昔、慈恵僧正は近江国浅井郡の人なり。



比叡山に、大師勧請の起請といふ事は、慈恵僧正書き始め給ひけるなり。

Сочинение под названием «Запись обетов, клятвенно произносимых наставниками» начал писать на горе Хиэйдзан высокомудрый Дзиэ.

慈恵僧正良源、座主の時、受戒行ふべき定日、例のごとく催設けて、座主の出仕を相待つの所に、途中よりにはかに帰り給へば、供の者ども、こはいかにと、心得難く思ひけり。



而る間、山の座主慈恵大僧正*、此の会を母に礼ませむが為に、□□年の□月□日、舎利を下し奉て、吉田と云ふ所にて此の会を行ふ。


* 良源
其の時に、横川の慈恵大僧正、此の源信を見て、本より知れる人の如く待ち受て、弟子として顕密の正教を教ふるに、天性聡敏にして、習ふに随て、明らかなる事限無し。



児、年十歳にして、遂に比叡の山に登て、天台座主の横川の慈恵大僧正の弟子に成て、出家して、名を増賀と云ふ。



天台座主慈恵大僧正の弟子になむ有ける。



此れは横川の慈恵大僧正の弟子也。



其の座主と云ふは、横川の慈恵大僧正也。



而る間、横川の慈恵僧正、天台座主として、殿下の御修法して、法性寺に有けるに、彼の法師、木を伐るままに、法性寺に急ぎ参て此の由を座主に申ければ、其の時に、座主、肩を並ぶる人無かりけるに、大きに嗔て、良算を召しに遣たりければ、良算、「我は山階寺の末寺の司也。何の故に、天台座主、我を心に任て召すべきぞ」と云て、放言して参らざりければ、座主、弥よ嗔て、山の所司を呼下して、其れを以て祇薗の神人等・代人等の延暦寺に寄する寄文を書儲て、「其れに判を加へよ」と、押責ければ、神人等責められ侘て、判を加へてけり。



然れば、公け聞し食して、驚て、御沙汰有るべかりけるに、其の前に、彼の座主の慈恵僧正失にけり。



然て、「其の沙汰、明日有るべし」と、既に仰下されたりけるに、山階寺の大衆は皆勧学院に有けるに、其の寺の中算は宗と此の事を沙汰すべき者にて有けるに、勧学院近き小家に宿て居たりけるに、其の夕さり方、前に弟子など数居たりけるを、俄に中算、「只今、此に人来たらむとす。其達、暫く外に出よ」と云ければ、弟子共、皆去て有ける程に、人、外より入来るとも見えぬに、中算、人と物語する音の聞えければ、弟子共、「怪し」と思ける程に、暫許有て、中算、弟子共を呼ければ、皆出来たりけるを、中算、「此に山の慈恵僧正の御たりつる也」と云ければ、弟子共、此れを聞て、「此は何かに宣ふ事ぞ。慈恵僧正は早う失にし人をば」と思けれども、怖しくて物も云はで止にけり。



由無き良算が悪事より発る事なれども、此れを思ふに、慈恵僧正の強く執せられたりける事にこそ有ぬれ。



然れば、其れを知て、慈恵僧正の霊も行て乞請にこそは。



僧賀上人は経平の宰相の子、慈恵僧正の弟子なり。


僧賀上人. 増賀
経平. 橘恒平
慈恵僧正. 良源
天台大師の忌日によみ侍ける

大僧正慈恵



念珠をもとめうしなひてあしたに、袈裟にまつはりて有けるをみて

慈恵大僧正