храм Ямасина
(в Киото), в Кофкудзи. TODO
山階寺
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枕草子 > 12. 今内裏のひむがしをば (Хотя караульня в нынешнем дворце…)
山階寺の別当になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君の出で給へるに、
Случилось так, что епископ этот был назначен настоятелем храма Ямасина̀ и явился благодарить императора в тот самый день, когда господин Наринобу стоял во главе караула гвардии.
まづは、造らしめ給へる御堂などの有様、鎌足のおとどの多武峯、不比等のおとどの山階寺、基経のおとどの極楽寺、忠平のおとどの法性寺、九条殿の楞厳院、天のみかどの造り給へる東大寺も、仏ばかりこそは大きにおはすめれど、なほこの無量寿院には並び給はず。
世
日本霊異記 > 卷下 > 卷下 廿四 依妨修行人得猴身緣 (Слово о перерождении обезьяной в наказание за ущемление монахов)
往告檀越曰山階寺滿預大法師、陳猴誂語。
и отправился к дарителю храма Ямасина досточтимому Манъё и поведал ему о просьбе обезьяны.
大鏡 > 上巻 左大臣時平 (ЛЕВЫЙ МИНИСТР ТОКИХИРА)
顕忠の大臣の御子、重輔の右衛門佐とておはせしが御子なり、今の三井寺の別当心誉僧都、山階寺の権別当扶公僧都なり。
Дети Сигэсукэ, начальника Правой дворцовой охраны ухё:эфу-но коми, сына министра Акитада, — это нынешний помощник епископа со:дзу Синъё, настоятель бэтто: храма Миидэра, помощник епископа со:дзу Фуко: и помощник настоятеля гон-бэтто: храма Ямасина, —
世
55. Храм Ямасина, или Ко:фукудзи — храм рода Фудзивара в г. Нара, крупнейший храм эпохи Хэйан; назывался Ямасина (Ямасинадэра) по наименованию первого родового храма, возведенного в 669 г. в Ямасина (провинция Ямасина). Оттуда родовой храм был перенесен в провинцию Ямато, и в последний раз он был перенесен в Нару Фудзивара Фухито в 710 г.
55. Храм Ямасина, или Ко:фукудзи — храм рода Фудзивара в г. Нара, крупнейший храм эпохи Хэйан; назывался Ямасина (Ямасинадэра) по наименованию первого родового храма, возведенного в 669 г. в Ямасина (провинция Ямасина). Оттуда родовой храм был перенесен в провинцию Ямато, и в последний раз он был перенесен в Нару Фудзивара Фухито в 710 г.
この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ、かうまで年ごろ見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみ言ひて、知りたるとといふ人なし。
僧都申しけるやう、「奈良にて承れば、左右大将慎み給ふべしと、天文博士勘へ申したりとて、右大将殿は、春日社、山階寺などに御祈さまざまに候へば、殿よりも、定めて候ひなんと思ひ給へて、案内つかうまつるに、『さる事も承らず』と、皆申し候へば、おぼつかなく思ひ給へて、参り候ひつるなり。
天曆の帝四十に成坐しける時、山階寺に金泥壽命經四十八卷を書き供養したてまつりて御卷數鶴にくはせてすはまにたてたりけり。其すはまのしき物に數多の歌あしてにかける中に
天曆の帝 四十に成坐 しける時、山階寺に金泥壽命經四十八卷を書 き供養したてまつり て御卷數鶴にくはせてすはまにたてたりけり。其すはまのしき物に數多 の歌あしてにかける中に
国司の政の枉れる事を見て、心を仏法に係て、「頭を剃て本国を去なむ」とおお思ひける間、山階寺の僧、善殊僧正と云ふ人、請を得て彼の国に至るに、此の書生、大意*有るに依て、彼の僧正に伴ひて、本国を棄て、山階寺に行て、頭を剃り衣を染て、彼の僧正の弟子と成ぬ。
* 底本頭注「大意一本本意ニ作ル」
亦、人の広く云ひ伝ふる様、「此の国の人、世を背て冥途に至る時、閻魔王・冥官在まして、『汝は山階寺の涅槃会をば礼たりきや否や』とぞ問給ふなる。此れに依て、涅槃会に参たる道俗男女、皆此の会の供花の唐花を取て、冥途の験にせむ」と云へり。
大臣、会給て、「何事に依て、上られつるぞ」と宣ひければ、僧都の云く、「奈良にて承はりつれば、『左右の大将慎給ふべき由、天文博士勘へ申したり』とて、右大将殿よりは春日御社・山階寺などに御祈様々に候へば、『殿よりも仰せ給はむずらむ』と思ひ給へて待候つるに、音無く候へば、不審く思給て、急ぎ参候つる也。猶御祈は候はむこそ吉からめ」と申せば、大臣の宣く、「尤も然るべき事也。此く云はるる、極めて喜し。然れども、我が思ふ様は、『左右の大臣、重く慎しむべし』と勘へ申したり。其れに、『我れも劣らじ』と慎むならば、右大将の為に悪かりなむ。彼の右大将は、身の才も賢く座ます。年も若し。永く公に仕らむずる人也。我れに於ては、年も老たり。指せる事無き身なれば、『死なむには何事か有らむ』と思ひ取て祈らぬ也」と。
寝殿の南面てを御読経所に定たりければ、其の御読経所に居並て有る程に、南面の山・池などの、極じくおもしろ*きを見て、山階寺の僧中算が云く、「哀れ、此の殿の木立は異所には似ずかし」と云けるに、傍に木寺の基増と云ふ僧居て、此れを聞くままに、「奈良の法師こそ、尚疎き者は有れ。物云は賤き者かな。木立*とこそ云へ、木立*と云ふらむよな。後目た無きの言や」と云て、爪をはたはたとす。
* 底本言偏に慈
* 「こだち」と読む
* 底本、ここに「こだち」とルビがあるが、ここは「きだち」とあるべき。
* 「こだち」と読む
* 底本、ここに「こだち」とルビがあるが、ここは「きだち」とあるべき。
其の時に、山階寺の大衆、此の事を聞て、「多武の峰は大織冠の御廟也。然れば、尤も山階寺の末寺にこそ有るべけれ。何かでか延暦寺の末寺には成さるべきぞ」と云ひ喤り合て、殿下に此の由を訴へ申ければ、殿、前に延暦寺の末寺と為べき由、申し請しに依て、「既に仰せ下し畢ぬ」と仰せられて、承引無かりければ、叶わずして止にけり。
而る間、横川の慈恵僧正、天台座主として、殿下の御修法して、法性寺に有けるに、彼の法師、木を伐るままに、法性寺に急ぎ参て此の由を座主に申ければ、其の時に、座主、肩を並ぶる人無かりけるに、大きに嗔て、良算を召しに遣たりければ、良算、「我は山階寺の末寺の司也。何の故に、天台座主、我を心に任て召すべきぞ」と云て、放言して参らざりければ、座主、弥よ嗔て、山の所司を呼下して、其れを以て祇薗の神人等・代人等の延暦寺に寄する寄文を書儲て、「其れに判を加へよ」と、押責ければ、神人等責められ侘て、判を加へてけり。
然て、睿荷を別当に成して執行せしめけるに、其の後、山階寺の大衆発て、公家に訴へ申す様、「祇薗は往古の山階寺の末寺也。寺の其れをば、何かでか恣に延暦寺に押取られむ。速に本の如く山階寺の末寺と為すべき由を仰下さるべし」と、度々訴へ申しける程に、御裁許の遅々しけるにや、山階寺の若干の大衆、京上して、勧学院に着けり。
然て、「其の沙汰、明日有るべし」と、既に仰下されたりけるに、山階寺の大衆は皆勧学院に有けるに、其の寺の中算は宗と此の事を沙汰すべき者にて有けるに、勧学院近き小家に宿て居たりけるに、其の夕さり方、前に弟子など数居たりけるを、俄に中算、「只今、此に人来たらむとす。其達、暫く外に出よ」と云ければ、弟子共、皆去て有ける程に、人、外より入来るとも見えぬに、中算、人と物語する音の聞えければ、弟子共、「怪し」と思ける程に、暫許有て、中算、弟子共を呼ければ、皆出来たりけるを、中算、「此に山の慈恵僧正の御たりつる也」と云ければ、弟子共、此れを聞て、「此は何かに宣ふ事ぞ。慈恵僧正は早う失にし人をば」と思けれども、怖しくて物も云はで止にけり。
然て、明る日、此の沙汰有けるに、中算、「風発たり」と云て、沙汰の庭に出ざりければ、山階寺の方に指る申し沙汰する人無かりけるに依て、其の御裁許切ならざりければ、大衆も返下などして、遂に祇園は比叡の山の末寺に成畢たる也けり。
その大臣の御子に、不比等の大臣の御時に、今の山階寺の所に造り移されたるなり。
その大臣 の御子に、不比等の大臣の御時に、今の山階寺の所に造り移されたるなり。
Во времена министра Фухито, что был сыном того министра, храм был перенесён туда, где и сейчас находится храм Ямасина.
不比等=藤原不比等
「あはれ、この小院、『東大寺にて受戒せむ』とて上りしままに見えぬ。かうまて年ごろ見えぬ。いかなるならむ」とおぼつかなきに、「尋ねて来ん」とて、上りて山階寺・東大寺のわたりを尋ねけれど、「いざ知らず」とのみ言ふなる。
「あはれ、この小院 、『東大寺にて受戒せむ』とて上りしままに見えぬ。かうまて年ごろ見えぬ。いかなるならむ」とおぼつかなきに、「尋ねて来ん」とて、上りて山階寺・東大寺のわたりを尋ねけれど、「いざ知らず」とのみ言ふなる。