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山階寺の別当になりてよろこび申す日、近衛づかさにてこの君の出で給へるに、

Случилось так, что епископ этот был назначен настоятелем храма Ямасина̀ и явился благодарить императора в тот самый день, когда господин Наринобу стоял во главе караула гвардии.

まづは、造らしめ給へる御堂などの有様、鎌足のおとどの多武峯、不比等のおとどの山階寺、基経のおとどの極楽寺、忠平のおとどの法性寺、九条殿の楞厳院、天のみかどの造り給へる東大寺も、仏ばかりこそは大きにおはすめれど、なほこの無量寿院には並び給はず。



往告檀越曰山階寺滿預大法師、陳猴誂語。

и отправился к дарителю храма Ямасина досточтимому Манъё и поведал ему о просьбе обезьяны.

顕忠の大臣の御子、重輔の右衛門佐とておはせしが御子なり、今の三井寺の別当心誉僧都、山階寺の権別当扶公僧都なり。

Дети Сигэсукэ, начальника Правой дворцовой охраны ухё:эфу-но коми, сына министра Акитада, — это нынешний помощник епископа со:дзу Синъё, настоятель бэтто: храма Миидэра, помощник епископа со:дзу Фуко: и помощник настоятеля гон-бэтто: храма Ямасина, —

55. Храм Ямасина, или Ко:фукудзи — храм рода Фудзивара в г. Нара, крупнейший храм эпохи Хэйан; назывался Ямасина (Ямасинадэра) по наименованию первого родового храма, возведенного в 669 г. в Ямасина (провинция Ямасина). Оттуда родовой храм был перенесен в провинцию Ямато, и в последний раз он был перенесен в Нару Фудзивара Фухито в 710 г.
不比等のおとどは、山階寺を建立せしめ給へり。



また、三月十七日よりはじめて、薬師寺にて最勝会七日、また山階寺にて十月十日より維摩会七日。



いみじき非道のことも、山階寺にかかりぬれば、またともかくも、人ものいはず、「山階道理」とつけて、おきつ。



この聖受戒せんとて、上りしまま見えぬ、かうまで年ごろ見えぬは、いかになりぬるやらん、おぼつかなきに尋ねて見んとて、上りて、東大寺、山階寺のわたりを、「まうれん小院といふひとやある」と尋ぬれど、「知らず」とのみ言ひて、知りたるとといふ人なし。



白河院野行幸、明後日といひけるに、山階寺の三面の僧坊にありけるが、「今宵は門なさしそ。



よりて、「近衛大将重く慎み給ふべし」とて、小野宮右大将はさまざまの御祈どもありて、春日社、山階寺などにも御祈あまたせらる。



僧都申しけるやう、「奈良にて承れば、左右大将慎み給ふべしと、天文博士勘へ申したりとて、右大将殿は、春日社、山階寺などに御祈さまざまに候へば、殿よりも、定めて候ひなんと思ひ給へて、案内つかうまつるに、『さる事も承らず』と、皆申し候へば、おぼつかなく思ひ給へて、参り候ひつるなり。



山階寺の僧なり。



光明皇后、山階寺にある仏跡にかきつけたまひける

光明皇后
光明皇后、山階寺にある仏跡にかきつけたまひける

光明皇后


山階寺供養の後宇治前太政大臣の許につかはしける

堀川右大臣

Правый министр Хорикава

天曆の帝四十に成坐しける時、山階寺に金泥壽命經四十八卷を書き供養したてまつりて御卷數鶴にくはせてすはまにたてたりけり。其すはまのしき物に數多の歌あしてにかける中に
天曆のみかど四十に成坐なりおはしましける時、山階寺に金泥壽命經四十八卷をき供養したてまつりて御卷數鶴にくはせてすはまにたてたりけり。其すはまのしき物に數多あまたの歌あしてにかける中に


此の二歌は、暦應三年六月の頃春日の神木やましな寺の金堂に渡らせ給ひける時、つげさせ給ひけるとなむ。



山階寺の涅槃講にまうでゝよみ侍りける

光源法師



大僧正明尊山階寺の供養の導師にて草木成佛のよしとき侍りけるを聞きてあしたに遣しける

大僧都深觀



前關白太政大臣、春日の社に詣で侍りけるに、山階寺の別當にて代々の跡に變らず執り行ひて思ひつゞけ侍りける

前僧正實聰



然て、元明天皇と申ける女帝の御代に、和銅三年と云ふ年、天皇に申し行ひて、彼の山階の陶原の家の堂を倒して、今の山階寺の所には運び渡して造り給へる也。



本山階に造りたりし堂なれば、所は替れども山階寺とは云ふ也けり。



今昔、山階寺にして維摩会を行ふ。



遂に、彼の山階の末原の家を運び移して造れるに依て、奈良の京に起たれども、南山階寺と云へり。



彼の会、其の山階寺にして行ふ。



承和元年と云ふ年より始て、永く山階寺に置く。



其の最勝王経を講ずる講師には、山階寺の維摩会の去年の講師勤たる人を用る。



今昔、山階寺に涅槃会云ふ会有り。



国司の政の枉れる事を見て、心を仏法に係て、「頭を剃て本国を去なむ」とおお思ひける間、山階寺の僧、善殊僧正と云ふ人、請を得て彼の国に至るに、此の書生、大意*有るに依て、彼の僧正に伴ひて、本国を棄て、山階寺に行て、頭を剃り衣を染て、彼の僧正の弟子と成ぬ。


* 底本頭注「大意一本本意ニ作ル」
亦、人の広く云ひ伝ふる様、「此の国の人、世を背て冥途に至る時、閻魔王・冥官在まして、『汝は山階寺の涅槃会をば礼たりきや否や』とぞ問給ふなる。此れに依て、涅槃会に参たる道俗男女、皆此の会の供花の唐花を取て、冥途の験にせむ」と云へり。



今昔、大織冠*、子孫の為に山階寺を造り給ふ。


* 藤原鎌足
其れを、大織冠の御子淡海公*の御時に、今の山階寺の所には造移されたる也。


* 藤原不比等
然れば、所は替れども、于今山階寺とは云ふ也。



而る間、山階寺に寿蓮威儀師と云ふ者有けり。



山階寺の内に此の事を聞き伝へて、多の僧来り集て、礼み貴びけり。



亦、山階寺の修円僧都と云ふ人在けり。



此の事共は、弟子日蔵が語けるとて、山階寺の林懐僧都の聞て語けるを、永昭僧都の聞伝て、此く語り伝ふる也。



山階寺の僧也。



山階寺の僧として、後には宇多の院*に仕へて、僧都まで成り上てぞ有ける。


* 宇多天皇
春日の御社・山階寺などの、其の御祈共有けるに、東大寺の法蔵僧都は左大将の祈の師也。



然れば、奈良にして、山階寺に右大将の御祈共の有るを聞て、「左大将の御許よりも、我が許に御祈の事共有なむ」と待けるに、音無かりければ、不審さに依て、忽に京に上て、枇杷殿に参にけり。



大臣、会給て、「何事に依て、上られつるぞ」と宣ひければ、僧都の云く、「奈良にて承はりつれば、『左右の大将慎給ふべき由、天文博士勘へ申したり』とて、右大将殿よりは春日御社・山階寺などに御祈様々に候へば、『殿よりも仰せ給はむずらむ』と思ひ給へて待候つるに、音無く候へば、不審く思給て、急ぎ参候つる也。猶御祈は候はむこそ吉からめ」と申せば、大臣の宣く、「尤も然るべき事也。此く云はるる、極めて喜し。然れども、我が思ふ様は、『左右の大臣、重く慎しむべし』と勘へ申したり。其れに、『我れも劣らじ』と慎むならば、右大将の為に悪かりなむ。彼の右大将は、身の才も賢く座ます。年も若し。永く公に仕らむずる人也。我れに於ては、年も老たり。指せる事無き身なれば、『死なむには何事か有らむ』と思ひ取て祈らぬ也」と。



然れば、只二郎の大臣の北家、微妙栄給て、山階寺の西に佐保殿と云ふ所は、此の大臣の御家也。



寝殿の南面てを御読経所に定たりければ、其の御読経所に居並て有る程に、南面の山・池などの、極じくおもしろ*きを見て、山階寺の僧中算が云く、「哀れ、此の殿の木立は異所には似ずかし」と云けるに、傍に木寺の基増と云ふ僧居て、此れを聞くままに、「奈良の法師こそ、尚疎き者は有れ。物云は賤き者かな。木立*とこそ云へ、木立*と云ふらむよな。後目た無きの言や」と云て、爪をはたはたとす。


* 底本言偏に慈
* 「こだち」と読む
* 底本、ここに「こだち」とルビがあるが、ここは「きだち」とあるべき。
其の時に、山階寺の大衆、此の事を聞て、「多武の峰は大織冠の御廟也。然れば、尤も山階寺の末寺にこそ有るべけれ。何かでか延暦寺の末寺には成さるべきぞ」と云ひ喤り合て、殿下に此の由を訴へ申ければ、殿、前に延暦寺の末寺と為べき由、申し請しに依て、「既に仰せ下し畢ぬ」と仰せられて、承引無かりければ、叶わずして止にけり。



山階寺に前に申したらましかば、山階寺の末寺にてこそ有まし。



今昔、祇薗*は、本山階寺の末寺にてなむ有ける。


* 祇園に同じ
而る間、横川の慈恵僧正、天台座主として、殿下の御修法して、法性寺に有けるに、彼の法師、木を伐るままに、法性寺に急ぎ参て此の由を座主に申ければ、其の時に、座主、肩を並ぶる人無かりけるに、大きに嗔て、良算を召しに遣たりければ、良算、「我は山階寺の末寺の司也。何の故に、天台座主、我を心に任て召すべきぞ」と云て、放言して参らざりければ、座主、弥よ嗔て、山の所司を呼下して、其れを以て祇薗の神人等・代人等の延暦寺に寄する寄文を書儲て、「其れに判を加へよ」と、押責ければ、神人等責められ侘て、判を加へてけり。



然て、睿荷を別当に成して執行せしめけるに、其の後、山階寺の大衆発て、公家に訴へ申す様、「祇薗は往古の山階寺の末寺也。寺の其れをば、何かでか恣に延暦寺に押取られむ。速に本の如く山階寺の末寺と為すべき由を仰下さるべし」と、度々訴へ申しける程に、御裁許の遅々しけるにや、山階寺の若干の大衆、京上して、勧学院に着けり。



然て、「其の沙汰、明日有るべし」と、既に仰下されたりけるに、山階寺の大衆は皆勧学院に有けるに、其の寺の中算は宗と此の事を沙汰すべき者にて有けるに、勧学院近き小家に宿て居たりけるに、其の夕さり方、前に弟子など数居たりけるを、俄に中算、「只今、此に人来たらむとす。其達、暫く外に出よ」と云ければ、弟子共、皆去て有ける程に、人、外より入来るとも見えぬに、中算、人と物語する音の聞えければ、弟子共、「怪し」と思ける程に、暫許有て、中算、弟子共を呼ければ、皆出来たりけるを、中算、「此に山の慈恵僧正の御たりつる也」と云ければ、弟子共、此れを聞て、「此は何かに宣ふ事ぞ。慈恵僧正は早う失にし人をば」と思けれども、怖しくて物も云はで止にけり。



然て、明る日、此の沙汰有けるに、中算、「風発たり」と云て、沙汰の庭に出ざりければ、山階寺の方に指る申し沙汰する人無かりけるに依て、其の御裁許切ならざりければ、大衆も返下などして、遂に祇園は比叡の山の末寺に成畢たる也けり。



今は昔、山階寺焼けぬ。

Давным-давно, храм в Ямасина сгорел.
山階寺=興福寺
されは山階寺とは所変れどもいふなり。

Потом его стали называть и как храм Ямасина.

その大臣の御子に、不比等の大臣の御時に、今の山階寺の所に造り移されたるなり。
その大臣おとどの御子に、不比等の大臣の御時に、今の山階寺の所に造り移されたるなり。
Во времена министра Фухито, что был сыном того министра, храм был перенесён туда, где и сейчас находится храм Ямасина.
不比等=藤原不比等
「あはれ、この小院、『東大寺にて受戒せむ』とて上りしままに見えぬ。かうまて年ごろ見えぬ。いかなるならむ」とおぼつかなきに、「尋ねて来ん」とて、上りて山階寺・東大寺のわたりを尋ねけれど、「いざ知らず」とのみ言ふなる。
「あはれ、この小院こゐむ、『東大寺にて受戒せむ』とて上りしままに見えぬ。かうまて年ごろ見えぬ。いかなるならむ」とおぼつかなきに、「尋ねて来ん」とて、上りて山階寺・東大寺のわたりを尋ねけれど、「いざ知らず」とのみ言ふなる。


僧正信憲、山階寺別当になりて、初て三十講をこなひ侍ける、聴聞に雪のふりけるにまかりて侍けるに、難儀のいてきたりけるを、増弁法師みすのうちへ、これはいかに、と尋たりけれは、ひあふきのはしに書て出し侍ける

貞慶上人



僧正信憲、山階寺別当になりて、初て三十講をこなひ侍ける、聴聞に雪のふりけるにまかりて侍けるに、難儀のいてきたりけるを、増弁法師みすのうちへ、これはいかに、と尋たりけれは、ひあふきのはしに書て出し侍ける

貞慶上人