「建治、弘安のころは、祭りの日の放免の付け物に、異様なる紺の布四五反にて馬を作りて、尾、髪には灯心をして、蜘蛛の網描きたる水干に付けて、歌の心など言ひて渡りし事、常に見及び侍りしなども、興ありてしたる心地にてこそ侍りしか。」と、老いたる道志どもの今日も語り侍るなり。
Старые толкователи законов и теперь ещё говорят между собой:
— В годы Кэндзи-Коан во время праздника для украшения хобэну из четырех-пяти кусков необычной темно-синей материи делали коня с фитилями от фонарика вместо хвоста и гривы, набрасывали на коня одежды с нарисованной на них паутиной, и хобэн шествовал так, толкуя людям смысл старинной песни. Мы всегда смотрели на него и думали: «Как это интересно!»
弘安八年八月十五夜三十首の歌奉りし時、曉待郭公
前大納言經任
弘安八年八月十五夜三十首の歌奉りし時、秋風入簾
津守國助
弘安七年秋頃白川殿の御堂に誰れともなくて人の秋の花をいひ知らず結びて立てたりけるを次の年の秋又奉るべき由の歌つかうまつれと御前に召して仰言侍りしかばよみてかの花に結び付け侍りし
前大納言爲世
弘安元年百首の歌奉りし時、霧
常磐井入道前太政大臣
弘安八年八月十五夜三十首の歌奉りける時、夕擣衣
藤原爲道朝臣
弘安三年三月日吉の社にはじめて御幸侍りける時天台座主にてよみ侍りける
前大僧正公豪
弘安三年九月十三夜人々に十首の歌めされしついでに、月前祝
法皇御製
弘安八年三月從一位貞子九十の賀給はせける時よみ侍りける
照念院入道前關白太政大臣
弘安七年三月十七日、これも嵯峨殿の御留守なりしに、御遊あり。
弘安七年三月十七日、これも嵯峨殿の御留守なりしに、御遊あり。
弘安八年八月十五夜の卅首の歌に、秋風入簾
前大納言爲氏
また弘安五年四月十七日、嵯峨殿の御留守なりしに、雨もを止まず、空さへ閉ぢて、
また弘安五年四月十七日、嵯峨殿の御留守なりしに、雨もを止まず、空さへ閉ぢて、
世に經れば、何となく忘れぬふし〳〵も多く、袖も濕れぬべき理も知らるゝこそ、かはゆく覺ゆれど、ことに弘安六年四月十九日、例の嵯峨殿の御幸なりて還御なる。
世に經れば、何となく忘れぬふし〳〵も多く、袖も濕れぬべき理も知らるゝこそ、かはゆく覺ゆれど、ことに弘安六年四月十九日、例の嵯峨殿の御幸なりて還御なる。
また弘安七年の歳、とほき所に忍びて、物にこもり侍るに、年比淺からず申しかはしたる人なくなりて、年も數多へだたりぬるに、
弘安元年十月春日の社に始めて御幸ありし時まゐりて奏し侍りける
内大臣
弘安元年龜山院に百首の歌奉りける時
入道前太政大臣
弘安八年住江に御幸侍りて同じ心を講ぜられ侍りけるに
山本入道前太政大臣
弘安七年九月九日三首の歌講ぜられける時、寄菊戀といへる心を
後近衛關白前右大臣
圓光院入道前關白弘安八年四月さらに太政大臣になりて侍りける時藤の花に付けてつかはされける
伏見院御製
弘安七年九月九日三首の歌講ぜられける時、菊花宴久といふことを
龜山院御製
弘安八年八月十五夜卅首の歌奉りける時、時雨驚夢
前大納言爲兼
弘安八年住江に御幸ありて行旅述懷といふ事を詠ませられ侍りけるに仕うまつりける
津守國助
弘安八年三月從一位貞子に九十の賀給はせける時詠み侍りける
爲道朝臣
弘安八年八月十五夜、三十首の歌奉りしとき、落花埋庭
前大納言爲兼
弘安元年龜山院に百首の歌奉りける時
後西園寺入道前太政大臣
弘安元年百首の歌奉りける時
後西園寺入道前太政大臣
弘安元年龜山殿にて十首の歌講ぜられけるに、初冬雨時
山階入道前左大臣
弘安八年八月十五夜、亀山院に三十首歌たてまつりし時、夜々見月といふことを
前大納言為氏
弘安八年三月、従一位貞子九十賀給はせける時よみ侍ける
大蔵卿隆博
弘安元年宇治橋供養の日亀山院御幸ありけるに、雪いとふかく降侍けれは
円光院入道前関白太政大臣
弘安元年、亀山院に百首歌奉りける時、春歌
権中納言公雄
弘安六年八月十五夜、内裏にておなしき五首歌講せられけるに
従二位隆博
弘安六年八月十五夜、内裏にて月五首歌講せられけるに
前大納言為兼
弘安元年九月尽日、春宮にて三首歌講せられける時、秋山曙
前大納言為氏
弘安七年九月九日、亀山院に、籬菊露芳と云事を講せられけるに、位におまし〳〵ける時奉らせ給ける
後宇多院御製
弘安七年九月九日、亀山院にて、籬菊露芳といへる事を講せられけるに、いまたみこのみやと申ける時奉らせ給ける
伏見院御製
弘安八年、住江に御幸ありて、行旅述懐と云ことを講せられ侍けるにつかうまつりける
前大納言為兼
弘安六年三月県召除目の中の日、雨のふり侍けるに、前大納言為世いまた兵衛督にて参議をのそみ申けるついてに
前大納言為氏
弘安元年三月、藤原景綱ともなひて西山の良峰といふ寺にまうてゝ、外祖父蓮生法師旧跡の花のちり侍けるをみて人々三首歌よみ侍けるに
前大納言為氏
弘安八年三月、従一位貞子に九十賀給はせけるに、いまたみこの宮と申ける時、よませ給ける
伏見院御製
弘安八年三月、従一位貞子に九十賀給はせける時よみ侍ける
前大納言為兼
弘安三年八月十五夜、内裏にて月五首歌講せられけるに
前大納言為兼
弘安八年三月、従一位貞子に九十賀給はせける時読侍ける
前大納言為氏
弘安元年、亀山院に百首歌奉りける時、春歌中に
土御門入道前内大臣
弘安八年、住江御幸の時、江暁月を
土御門入道前内大臣
弘安八年三月、西園寺に行幸ありて、従一位貞子に九十賀たまはせける時
竹林院入道前左大臣
弘安元年百首歌に
*土御門院入道前内大臣(*土御門入道)
弘安八年十月、住江に御幸ありて、行旅述懐といふ事をよませ給うける
亀山院御製
同三年、春宮御方にて人々千首歌つかうまつりける時、花厭風といふ事を、
前参議雅有