又寛喜貞永のいま、世治まり人安く樂しき
ことの葉を知らしめむために殊更に集め撰ばるゝならし。
定家、濱松の年積りかは竹の世々に仕うまつりて、七十の齡に過ぎふた品の位を極めて、志もの事を聞きて上にいれ、上の事をうけて下にのぶるつかさを給はれる時にあひて、たらちねの跡を傳へ古き歌の殘をひろふべき仰せ事を承るによりて、春夏秋冬折節の言の葉を始めて、君の御世をいはひ奉り、人の國を治めおこなひ、神を敬ひ、ほとけに祈り、己が妻をこひ、身の懷を述ぶるにいたるまで、部をわかち卷を定めて、濱の眞砂の數々に浦の玉藻かき集むるよし、貞永元年十月二日これを奏す。
貞永元年六月きさいの宮の御方にて始めて鶴契遐年といふ題を講ぜられ侍りけるに
前關白
貞永元年八月十日頃中宮女房いざなひて東山へまかり侍りけるに水に月のうつりてくまなかりければ
光明峰寺入道前攝政左大臣
貞永元年百首歌よみ侍けるに、氷を
光明峰寺入道前摂政左大臣
貞永元年百首歌よみ侍けるに、氷を
光明峰寺入道前摂政左大臣
貞永元年七月四日、内裏にて三首歌講せせられける時、寄薄恋といへることを
前大納言為家
貞永元年閏九月十三夜、雨ふりけるに、卜部兼直許に申つかはしける
貞永元年八月十五夜、家に歌合し侍けるに、名所月
光明峰寺入道前摂政左大臣