大鏡 > 上巻 一 左大臣師尹 (ЛЕВЫЙ МИНИСТР МОРОМАСА)
その母女御の御せうと、済時の左大将と申しし、長徳元年己未四月二十三日失せ給ひにき。

он скончался в двадцать третий день четвертой луны первого года Тё:току (995 г.), в год младшего брата земли и овна,

また、太郎君、長徳二年七月二十一日、右大臣にならせ給ひにき。



いま一所は、小千代君とて、かの外腹の大千代君にはこよなくひき越し、二十一におはせし時、内大臣になし奉り給ひて、我が失せ給ひし年、長徳元年の事なり、御病重くなる際に、内に参り給ひて、「おのれかくまかりなりにて候ふほど、この内大臣伊周の大臣に、百官ならびに天下執行の宣旨たぶべき」よし、申し下さしめ給ひて、我は出家せさせ給ひてしかば、この内大臣殿を関白殿とて、世の人集り参りしほどに、粟田殿にわたりにしかば、手に据ゑたる鷹をそらいたらむやうにて嘆かせ給ふ。



一家にいみじき事に思しみだりしほどに、その移りつる方も夢のごとくにて失せ給ひにしかば、今の入道殿、その年の五月十一日より世をしろしめししかば、かの殿いとど無徳におはしまししほどに、またの年、花山院の御事出できて、御官位とられて、ただ太宰権帥になりて、長徳二年四月二十四日にこそは下り給ひにしか、御年二十三。



長徳元年乙未五月二日関白の宣旨かうぶらせ給ひて、同じ月の八日失せさせ給ひにき。



長徳元年乙羊四月二十七日、左近大将かけさせ給ふ。



長徳五年左大臣の家の歌合に

藤原長能

На поэтическом состязании в доме левого министра в пятом году тё:току.

Фудзивара Нагаёси