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三輪、多武峯
三輪みわ多武峯たふのみね
Мива. Вершина Тономинэ.

多武の峰に後には住み給ひしなり。

После того стал он жить в Тономинэ.

はじめは、横川におはして、後に多武峯には住ませ給ひしぞかし。



また、鎌足のおとどの御氏寺、大和国多武峯に造らしめ給ひて、そこに御骨を納め奉りて、今に三昧行ひ奉り給ふ。



それにより、かの寺に藤氏を祈り申すに、この寺ならびに多武峯、春日、大原野、吉田に、例にたがひ、あやしきこと出できぬれば、御寺の僧、禰宜等など公家に奏し申して、その時に、藤氏の長者殿占はしめ給ふに、御慎みあるべきは、年のあたり給ふ殿ばらたちの御もとに、御物忌を書きて、一の所より配らしめ給ふ。



昔、多武嶺に、増賀上人とて貴き聖おはしけり。



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多武峯ヨリ龍門ヘ越道也
多武峯ヨリ龍門ヘ越道也
Путь от Тономинэ к Драконьим вратам — Рюмон.

後高倉院かくれさせ給うて後參議雅清出家し侍りて多武の峯に住み侍りけるあからさまに京に罷り出でたる由聞きて遣しける



今昔、多武の峰に増賀聖人と云ふ人有けり。



而る間に、道心堅固に発にければ、現世の名聞利養を長く棄て、偏に後世菩提の事をのみ思ける間に、かく止事無き学生なる聞え高く成て、□□召し仕はむと為れども、強に辞して、出立たずして思はく、「我れ、此の山を去て、多武の峰と云ふ所に行て、籠居て静に行て、後世を祈らむ」と思て、師の座主に暇を請ふに、座主も免さるる事無し。



座主も、「然如く成りなむ者をば、今は何がは為む」と云ひけるを聞て、増賀、「思ひの如く叶ぬ」と思て、山を出でて多武の峰に行きて、籠居て、静に法花経を誦し念仏を唱て有り。



其の後、多武の峰の山に埋てけり。



形ち端正也ければ、限り無く悲しく思えけるに、母は死て後は臥して離れざりければ、既に暁に多武の峰に行むと為るに、乳母の許に抱き臥せけるを、長共だに露知らしめぬ事を、幼き心地に心や得けむ、「父は我を棄てて、何ち行かむと為るぞ」と云て、袖を引かへて泣けるを、とかく誘へて、叩き臥せて、其の程に窃に出にけり。



終道、児の取り懸りて泣きつる音・有様のみ耳に留り、心に懸りて、悲く堪へ難く思えけれども、道心固く発り畢にければ、「然とて、留まるべきにも非ず」と思ひ念じて、多武の峰に行て、髻を切て法師と成て、増賀聖の弟子として、懃に行ひて有ける間に、春宮、此の由を聞し食して、極めて哀れに思し食して、和歌を読て遣す。



円融院の天皇*の御代に、后に立せ給て、微妙く時めき御ましける間に、自然ら年月を積て、老に臨み給ひぬれば、「出家せむ」と思して、故に、「多武の峰に籠り居る、増賀聖人を以て、御髪を挟ましめむ」と仰せられて、態と召に遣したれば、御使、多武の峰に行て、此の仰を告けるに、「聖人、糸貴き事也。増賀こそは、尼には成し奉らめ。他人は誰か成し奉らむ」と云へば、弟子共、此れを聞て、「此の御使をば、『嗔て打てむず』と思つるに、思はざる外に、此く和かに、『参らむ』と有る、希有の事也」とぞ云ひける。


* 円融天皇
其の後、尊睿、道心を発して、本山を去て、多武の峰に籠居て、偏に後世を思て念仏を唱へて有けるに、多武の峰、本より御廟は止事無けれども、顕密の仏法は無かりけるに、此の尊睿、多武の峰に住して真言の密法を弘め、天台の法文を教へ立て、学生数出来にければ、法花の八講を行はせ、卅講を始め置て、仏法の地と成にけるに、尊睿、「此の所、此く仏法の地とは成しつと云へども、指せる本寺無し。同くは此れを我が本山の末寺と寄せ成てむ」と思ひ得て、尊睿、彼の慶命座主の、関白殿の思へ殊にして親く参けるを以て、殿に御気色を取ければ、殿、此れを聞食して、「尤も吉き事也」と仰せられて、「速やかに寄すべし」と仰下されにければ、多武峰を妙楽寺と云ふ名を付て、比叡の山の末寺に寄成しけり。



其の時に、山階寺の大衆、此の事を聞て、「多武の峰は大織冠の御廟也。然れば、尤も山階寺の末寺にこそ有るべけれ。何かでか延暦寺の末寺には成さるべきぞ」と云ひ喤り合て、殿下に此の由を訴へ申ければ、殿、前に延暦寺の末寺と為べき由、申し請しに依て、「既に仰せ下し畢ぬ」と仰せられて、承引無かりければ、叶わずして止にけり。



然れば、吉野の郡蔵橋山の峰、多武の峰の岸重れるが後に峰有り。



多武峰と云ふ所此れ也となむ語り伝へたるとや。