Тономинэ
多武の峰
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笈の小文 > 吉野へ (В Ёсино)
古本説話集 > 上巻 > 第30話 高光少将の事 (Про младшего военачальника Такамицу)
それにより、かの寺に藤氏を祈り申すに、この寺ならびに多武峯、春日、大原野、吉田に、例にたがひ、あやしきこと出できぬれば、御寺の僧、禰宜等など公家に奏し申して、その時に、藤氏の長者殿占はしめ給ふに、御慎みあるべきは、年のあたり給ふ殿ばらたちの御もとに、御物忌を書きて、一の所より配らしめ給ふ。
世
笈の小文 > 吉野へ (В Ёсино)
而る間に、道心堅固に発にければ、現世の名聞利養を長く棄て、偏に後世菩提の事をのみ思ける間に、かく止事無き学生なる聞え高く成て、□□召し仕はむと為れども、強に辞して、出立たずして思はく、「我れ、此の山を去て、多武の峰と云ふ所に行て、籠居て静に行て、後世を祈らむ」と思て、師の座主に暇を請ふに、座主も免さるる事無し。
形ち端正也ければ、限り無く悲しく思えけるに、母は死て後は臥して離れざりければ、既に暁に多武の峰に行むと為るに、乳母の許に抱き臥せけるを、長共だに露知らしめぬ事を、幼き心地に心や得けむ、「父は我を棄てて、何ち行かむと為るぞ」と云て、袖を引かへて泣けるを、とかく誘へて、叩き臥せて、其の程に窃に出にけり。
終道、児の取り懸りて泣きつる音・有様のみ耳に留り、心に懸りて、悲く堪へ難く思えけれども、道心固く発り畢にければ、「然とて、留まるべきにも非ず」と思ひ念じて、多武の峰に行て、髻を切て法師と成て、増賀聖の弟子として、懃に行ひて有ける間に、春宮、此の由を聞し食して、極めて哀れに思し食して、和歌を読て遣す。
円融院の天皇*の御代に、后に立せ給て、微妙く時めき御ましける間に、自然ら年月を積て、老に臨み給ひぬれば、「出家せむ」と思して、故に、「多武の峰に籠り居る、増賀聖人を以て、御髪を挟ましめむ」と仰せられて、態と召に遣したれば、御使、多武の峰に行て、此の仰を告けるに、「聖人、糸貴き事也。増賀こそは、尼には成し奉らめ。他人は誰か成し奉らむ」と云へば、弟子共、此れを聞て、「此の御使をば、『嗔て打てむず』と思つるに、思はざる外に、此く和かに、『参らむ』と有る、希有の事也」とぞ云ひける。
* 円融天皇
其の後、尊睿、道心を発して、本山を去て、多武の峰に籠居て、偏に後世を思て念仏を唱へて有けるに、多武の峰、本より御廟は止事無けれども、顕密の仏法は無かりけるに、此の尊睿、多武の峰に住して真言の密法を弘め、天台の法文を教へ立て、学生数出来にければ、法花の八講を行はせ、卅講を始め置て、仏法の地と成にけるに、尊睿、「此の所、此く仏法の地とは成しつと云へども、指せる本寺無し。同くは此れを我が本山の末寺と寄せ成てむ」と思ひ得て、尊睿、彼の慶命座主の、関白殿の思へ殊にして親く参けるを以て、殿に御気色を取ければ、殿、此れを聞食して、「尤も吉き事也」と仰せられて、「速やかに寄すべし」と仰下されにければ、多武峰を妙楽寺と云ふ名を付て、比叡の山の末寺に寄成しけり。